第六十五話
(――ん?)
バウゴ候と、運良く一緒にいたロアさんに挨拶を済ませ、二人に先に待っててもらってる馬小屋へと俺も向かう途中。そろそろマトルトーク城にも慣れて来て、ショートカットで中庭を突っ切っていた俺の視界に、見慣れた後姿が見えた。
ただし――見慣れない様子で肩を落として。
「フィレナ」
「っ!」
声を掛けるとびくっ、として肩を跳ね上げ、姿勢を正したが、振り向いては来なかった。
「……大丈夫か?」
間抜けな質問だ。けど、これ以外声の掛けようがないのもそうだ。
「大丈夫じゃないと思ってるなら、声掛けて来ないで」
「大丈夫じゃなさそうだと思ったら声掛けるだろ」
「……」
後ろを向いたままで天を仰ぎ、フィレナははーっ、と大きく息を付いた。
「ごめん、私今酷い顔してる。あんたに顔見せたくない」
「悪いな、気の利いた伝え方、してやれなくて」
「大丈夫、ありがとう。兄様と姉様が無事だって判って、それだけでも喜ぶべきなの、本当は。判ってる。……でも」
「……うん」
「どうしてって、思う……っ」
震えて、吐き出された声にはまだ涙の様子はない。泣きたくない訳じゃないだろう。ただ、泣いてしまいたくないだけで。
「何で……こうなったのかな。人間ってそんなに汚い? 酷い人は沢山いるわよ。でも、優しい人だって沢山いるのよ。何で……魔に、負けちゃうのかな……」
「……優しい人が、馬鹿を見るからだろうな」
優しくあるには、裏切られて自分が傷付く覚悟をしなきゃならない。
そんな覚悟を持たなければならないのも、優しさに付け込む卑劣な事が許されるのも、間違ってる。そんな事がまかり通ってしまう事こそ、馬鹿な事なんだけど。
(上手くは、いかないんだよな……)
優しい事が損をする、そんな常識を、俺は知ってる。
いや、別に俺だけじゃないだろう。どこにいたって人は同じだ。だからフィレナも、多分。
「レトラスに帰ったら、そうならない社会を作れよ」
「……うん」
「大丈夫だ。協力してくれる人も、沢山いるさ。お前の言う通り、優しい人も沢山いるんだから」
「うん」
「頑張れ。出来る協力なら俺もするから」
「うん。……頑張る」
ぐす、と少し鼻をすする音が混ざって来た。
こういう時、我慢する必要はないと思うんだ。
「あのな、フィレナ」
「何よ」
「泣くと結構すっきりするぞ。溜めこんでると先進めないけど。泣くのも怒るのも笑うのも、恥ずかしい事でも何でもない」
「うん」
ぐし、と頷きながら目元を擦る。
「我慢しないで、泣いとく」
「無理なら逃げる手もあるぞ」
肉親と戦う事ができないというのは、無理のない事だと思う。でもした方がいいとも思う。自分のために、肉親だからこそ。
「馬鹿にしないで」
「やれるのか?」
「やるわ。だって兄様と姉様は間違ってるもの。だったら止めなきゃいけないもの。私が、止められる最後の家族だもの」
そうだな。そうしないと、フィレナはきっと後悔する。
「――もう、行きなさいよ。あんただってボロボロなんだし」
「ああ」
「でも、一つだけ。父様の事聞くの、あんたの口からで良かった。ありがとう」
「……フィレナ」
「行って。泣くから。みっともなく」
「みっともない事ない。お前が家族を愛してるってだけだ」
「好きよ。大好き。大好きなの……っ」
心の底からの、悲痛な叫び。
苦しい、と思う。
(泣いて欲しくないんだ)
嫌いじゃない人がなく姿は、苦しい。
「ねえ……」
「何だ?」
呼び止められて、離れかけた足を止めて、振り返る。
「もう、泣きたくないから、あんたは居なくなるような事、しないで」
「ああ、しない。だからお前もするなよ。俺も泣きたくない」
「……泣いてくれる?」
「泣くよ」
フィレナがいなくなったら、俺は泣くだろう。そう当たり前に思うぐらいには、フィレナが好きだ。
「じゃあ、やらない」
「ああ。またな」
「うん」
今度は、声は掛からなかった。
(――何、だろう)
フィレナは実際的にも俺より年下だし、女の子だし、身体つきが細くて柔らかいのも当然で、男の俺が守るのも当然だと思うんだが。
触れて、震える肩を支えてやりたいと思ったのは、手段、ではないだろう。
(だってやったらまずいだろう)
女の子の体に触るとか、NGだから。
「……」
あまり深く考えるのは、止めとこう。




