第五十九話
昼間自然界を闊歩していた動物達は眠りにつき、目覚めた夜行性動物と主役を交代した、深夜に近い時間帯。
ぽつ、ぽつと地面に水の雫が落ち始めた。
(――来たか)
今俺が居るのは碧の湖の南側の、レトラス軍の後ろ。総指揮官が居る中央の丁度背面だ。
ライラとルーティールは別行動。水の宮の北側すぐ近く、中央海域と呼ばれる海を根城にしているセイレーン達に頼んで、身を潜めてもらっている。
俺が襲撃して注意をひきつけている間に、水の宮に入り、可能であるなら水の精霊達の助力を頼んで挟撃してくれ――と、ライラには言ってある。
が、ルーティールの話からして、水の精霊族にそんな余裕があるとは思ってないから、期待してない。ライラには黙ってルーティールに頼んだのは、ライラを守って水の宮から出さないでくれ、だ。
どう見た所で、俺一人で何とかなる数じゃない。だが、何とかなるだろうとは思ってる。
ただそのタイミングがいつになるかは判らないから、ライラに手荒い真似はされたくない。
水の宮を囲う精霊狩り部隊とやらは、歩兵をメインに騎馬兵との混成部隊。ここに連れて来られている馬も水棲馬だ。
ルーティールが数日漂って見た所によると、大体一中隊一小隊ぐらいじゃないか、という事だった。
レトラスでは歩兵は一小隊四十人。一中隊は概ね五小隊から成って、二百人。騎馬兵は歩兵より数が少なくて一小隊二十人。今回に限ってはもしかしたら水棲馬の問題もあるのかもしれないので、通常換算にするのは少々危険だと思われる。
殆ど戦力にならない水の宮を落とすのには大袈裟な人数だと言っていいが、取りこぼしがないようにと考えればまだ少ないぐらいだろう。そう考えれば十分に油断はしていると思っていい。碧の湖が広いお陰で、一度に相手はしなくて済む。
水の宮に入れるようになるのは、本格的に降り始めればすぐなんだそうだ。どういう仕組みになっているかは、詳しくは聞いていないので判らない。
さっき降り始めたばかりだというのに、早くも雨足の感覚は短くなり、本格的な雨になるのもすぐだろうと思われた。
(しかし……結局誰も来なかったか……)
もしかしたら帰りがけにディードリオン辺りが寄って、俺が着いた時には水の宮にはレトラス軍はいないんじゃないか、とかちょっと期待していただけに、残念だ。
ディードリオンなら引き上げるんじゃないかな、と半分以上は思ってた。
いや、甘い理由じゃなくて、俺を見逃したのと同じ理由で。ジ・ヴラデスと事を構えたくないなら、ここも引いておかしくないと思うんだ。
(今は……果たして事を構えたくない、とか、思われるよな状態かどうか判らないけどな……)
無事……でいて欲しいのか、むしろ相討ってて欲しいのか。判らない。両方かな。
まあ、とにかく、事を構えたくないからこそ引き上げるんじゃないかと思ってた。俺が何のために水景殿に行ったか、当然判ってるだろうから。
(まさか諦めるとか思ってる訳でもないだろうが……)
それとも、助力を得るべき水蛇族を殲滅したから諦めるだろうと、たかを括っているのか。そんなタイプには思えなかったんだが――
(っと)
考え事をしているうちに、雨はついに本降りになった。それと同時に精霊狩り部隊が動く。
まずは最前列の騎士達が水棲馬に乗って碧の湖へと入って行く。数が少ない上三方に散っているので、俺から見える位置にいる騎馬兵は十人程。多分残りの十人が均等に西と東に配置されてるんだろう。
しかし水棲馬、名前の通り水に慣れてるな。もう支えるもの無く足が湖に乗ってるが、湖面をまるで地面のように平然と歩いている。水の浮力を踏むような、特殊な蹄なんだろう、きっと。
少し進ませて、兵士達がやや広がるのを待ってから、す、と呼吸を整え――石の形にして持っていた女神のエレメントを辺りに解き放つ。
「輝聖星降」
煌、と夜空が一瞬、輝きを増す。これが晴れの日なら雲の加減で星の輝きが見える具合が変わっただろうかと思う、その程度だが。
しかし今日は雨だ。明る過ぎる星の光を不審に思って兵士の多くが夜空を仰ぐ――と。
「流れ星……?」
近くで落ちて来る星にも見える輝きの軌跡は、遠くに見えていた気がしただろうが、存外、近い。兵士がそう呟き終わる頃には、隣で天から降り注ぐ光の雨に貫かれた兵士が、落馬し始めた。
「ぎゃっ」
「がっ」
そしてそれを皮切りに、雨霰と降り注ぐ光線に身を守る間もなく刺し貫かれていく。威力はそうでもないが、女神のエレメントを使ったこの術は魔人達に有効な付属効果が付いて来る。
何より、この碧の湖すら全体をカバーできる程の広範囲の魔術なのが、最大の効果。その分大味で狙いも付けられないから、討ち漏らしは確実に出るが、大軍相手には効果的。
「襲撃だ! 全員備えよ! 動ける者は負傷者を拾い上げ、すぐに湖から出ろ!」
水の中に入ってたら雷系の魔術でまた大打撃だ。考えなかった訳じゃないが。
(やらないけどな)
碧の湖で暮らしてる水生生物たちに大迷惑なので、やらない事にした。やるならちゃんと準備しとかないといけないが、今回そんな時間はなかったので、見送りだ。
しかし――思っていたより、力の消費が激しかった。魔の領域でエレメントを使うのは、本当に不利な事しかない。後一発ぐらい何かいけるかと思ったが、もう余裕なさそうだ。
「輝聖煌」
今回ライラは隠したし、代わりの武器を用意するような場所も時間もなかったので、素手その物に魔術を掛けて隠れていた茂みから飛び出した。同時に、ざっと討ちもらしの人数を確認する。
(多いな……っ)
どう見ても、三分の一は残ってる。俺の運が悪かったのか、彼等の実力が輝聖星降を上回ったのか。両方だろう。
何にしても、やるしかない。
指揮を出していた総隊長を目指して、一気に駆ける。
「っ!」
前線にまで指示を飛ばす伝令と、前線から帰って来た伝令と、対応に追われていた指揮官は俺の襲撃に反応が遅れた。
勿論、指揮官だけに護衛官が付いている。そちらの方の反応は流石に速い。常の俺なら手こずるレベルの魔気だが、今手に付与しているのは女神のエレメント。
魔気を祓うその力は、魔人の力を封じ、減退させ、人が食らうのと同等の重傷を負わせる。
封じられる量はエレメント量に比例するが、ここに集まっている魔人達なら、問題無く一撃で有効打になるだろう。
(後は、俺が力を維持できるかどうかだ)
構えた護衛官は皆己の魔力を具現化した剣を持っている。その方がコストダウンだし、移動も楽だし、単純に己の練磨で威力が上がる。魔人であれば当然だ。
だがそれは、こっちにとって好都合な選択なんだ、本来は。
「はッ!」
息を吐き、飛び込んだ先で片端からまず武器を打ち払う。拳に触れた瞬間に、掻き消える様に剣を作っていた魔力が消失する。
「なっ、何――がっ」
「ぎゃあっ」
想像外の現象に驚く護衛官達を叩き伏せ、総指揮官へと向かう。
「貴様、精霊か! まだそんな力があるのか!!」
「諦めるか? お前達じゃ話にならないぞ。兵を纏めて帰るなら、見逃してやる」
「否!」
ハッタリでしかなかった言葉は、迷わず切り捨てられた。俺の一撃を指揮官は正面から受け止める。
魔六がブレる――が、消失までは至らない。勝っているのはこっちだったから受けた拳にも傷は追わなかったが……っ。
(結構、強いなッ)
人数差が半端ないから、一人にでも手こずるのは致命的だ。
己の武器が失われなかった事に、俺とは逆に指揮官は自信を得た。力任せに押し込んで来た剣を避け、身を沈ませて脛に手刀を入れる。
「ぐっ……!」
ぐら、と指揮官は体を傾いだ。治癒力も、魔力補強による肉体強化も再生もない。人間が立っていられる程甘い打撃じゃない。
ドサリ、と尻を着いた指揮官の顎を、立ち上がって足先で蹴りあげ、脳を揺らす。
「うっ……」
気持ち悪かっただろう、呻いた所に、今度は頭に掌底で一撃。止めだ。人間の脳の弱さで脳振とうを起こし、そのまま倒れる。
「精霊だ! 上位と思われる精霊がいるぞ!」
「相手は一人だ、恐れるな! 三人一組で、必ず一撃浴びせて来い!」
総指揮官は倒れたが、軍は崩れなかった。戻って来て状況を把握した小隊長達が、素早く部下を纏め、無事な隊長同士を確認すると指揮系統が一瞬で整った。
そしてあれだけ仲間が討たれたというのに、兵の士気は俺が確かに一人なのを認めると、俄然盛り返した。戦闘不能にさえなればいいからと撃った輝聖流星が、死者を出さなかったのも理由だろう。
(くそ、ちゃんと信頼関係が出来上がってる!)
命令通り、三人一組で兵士達は向かって来た。間断のない包囲網を作りながら。
少しでもタイミングをずらしたくて後ろへ下がる――と、再び隊長から声が上がる。
「相手のエレメントは尽きている! 威力のある魔術は使えん、囲んで削れ!」
『おうっ!』
「っ……!」
まずい、かもしれない。
これがアウェーで戦うって事か……!
一人二人を相手にしている間に、左右を塞がれる。判っていても成す術がない。何回かなら囲まれても魔術で切り抜けられるだろうが、この数は持たない。
「っ」
前と左右の兵士を倒して次へ――と意識を周囲に向けた瞬間に、背後の気配に気が付いたが、遅かった。肉を金属の冷たさと、魔力の不快感が通り抜ける。
「うぐ……っ!」
「殺すな、捕えろ!」




