第五十七話
「……どういう意味だ」
「そのままだが?」
答えはくれない。
俺の行動――ってのは、このミットフェリンに来てからの事か? それとも目覚めてからの事か? もし前者なら、何で俺がミットフェリンに来た時期を知ってるんだ。それだけ情報網が充実してるって事なのか?
「……それは一応、褒め言葉なのか?」
「そのつもりだ」
「ディードリオン・レク・レトラス、だな?」
「そうだ」
俺の確認に、ディードリオンは頷いた。出来れば、否定して欲しかったが。
しかし何だ、この違和感。こいつ、本当に魔人化してるのか?
してる……のは、間違いない。けど……。
いや、今そんな事はどうでもいい!
「これ以上魔道に突き進むのは止せ! 人に帰って来い、ディードリオン! フィレナもそれを望んでる!」
「甘さを捨てろ、と伝えろ」
興味がないと言わんばかりの冷ややかさで、ディードリオンは俺の言葉と、フィレナの気持ちを切り捨てる。
「……お前……っ」
「どけ、精霊!」
俺の下敷きにされていたタタラギリムが復活して俺を押しのけ、再びディードリオンへと刃を向ける。
「止せ……っ!」
止めようとしたが、弾き飛ばされ転がった俺に、彼女の突進を止める術はなかった。
タタラギリムへと意識を映したディードリオンが、エレメント属性の剣を仕舞い、その手の中に魔力具現化で剣を作る。形は手持ちの剣と全く同じだが、そこに凝縮された魔力は、剣に加工されたエレメントの比ではない。魔力の扱い方も手慣れてる!
「カース・エンチェント・ペイン」
ディードリオンは自らの魔剣に自らの魔力を乗せ、迎え撃つ。タタラギリムの鉾をかわして薙いだ剣が付けた傷はほんの僅かなものだったが、斬られた瞬間タタラギリムは大きく仰け反った。
「ぎっ、ぁっ……!」
鋭利だが、浅い傷に対する物にしては大袈裟すぎる。だがそれが大袈裟な演技などではない事は、本物の苦痛の声が証明していた。
おそらくは、剣に乗せた魔術の効果。威力を上げるのではなく、絡め手で来た。
硬直したタタラギリムは無防備だった。返す刀で今度は深々と、肩から腰までを、致命傷のレベルで大きく斬り裂く。
「――っ!!」
「片付いた。エレネア、撤退の準備を」
「ええ」
どうと巨体を重い音を響かせ倒れたタタラギリムにはもう興味を示さず、水棲馬の綱を引いて二人は踵を返そうとする。
「待……っ」
声を上げた俺に、ディードリオンは振り向いた。ただ目の前のものを見るだけの瞳に気圧され、言葉が続かない。
「今はお前に手を出すのは面倒だ。さっさと白煌諸島へ帰れ」
――どうやら俺の事は、見逃すつもりらしい。これもジ・ヴラデス効果か。
「それでっ、いいのか! お前はまだ――」
「俺は魔人だ、皓皇。――それと、俺は『ハ・イグジェラ』。お前が呼ぶにはその方が相応しいだろう」
「っ」
ディードリオンが名乗った名が、どういう意味を持つか、正確に聞いた事はない。しかしローブの魔王が『魔に名を与えられた使徒』と言っていた事からするに、きっと魔人にとっては特別な事なのだろう。
それこそ、魔王と選ばれるような――
けれど――
(誰が呼ぶか!)
こいつはフィレナの兄だ。
家族を皆取り戻すと言っていたフィレナの望みは、もう叶わない。叶えてやれない。だからこそ、人としてのこいつは取り返さなきゃならない。
例えその末路が、どうであっても、取り返す事には意味がある!
「ディードリオン・レク・レトラス!」
「……」
もう俺に背を向けていたディードリオンが、名を呼ばれて振り返る。その顔には、己の意思が通せない事を知った苛立ちによるしわが眉間に刻まれていた。
頭、いいな、フィレナ。お前の兄さん。
「待ってろ。すぐにレトラスごと、お前をフィレナに叩き返す!」
「やってみろ」
「全軍、撤退!」
やや遠くで先行したエレネアの号令が響き、水棲馬達の蹄が叩く水の跳ねる音も、徐々に小さくなっていく。
「ぅ……っ、ぐっ……。おのれ、人、如きが……っ」
「!!」
ディードリオンが去ってすぐ、小さいが、憤怒の呻き声が足元から聞こえて、慌てて屈み込んだ。
「タタラギリム! 生きてんのか!?」
「我が……、古竜の血を……甘く見るでない……」
「あぁっ。でも無理しちゃ駄目ですよー」
間延びした声は、少し離れた所から。泥の中に膝を着いて、まだ息のある水蛇族達にルーティールが片端から治癒を掛けている。
「脱皮したばかりじゃ皮膚も弱いし、体力もないですからー」
だ……っ、脱皮!
見れば、水景殿のあちこちに、白く乾いた抜け殻の様な物が落ちている。ような、というか水蛇達の抜け殻なんだろう。何という生命力!
「ライラ、俺達も手伝おう」
「はい、陛下」
最たる癒しの力を持つ、水の精霊のルーティールより燃費悪いが、俺達も治癒術を使える。助かる命は、助けるべきだ。
水蛇族の犠牲は、最終的に一族全体の半数近くに上った。生き残れたのは五百かそこら。
タタラギリムの二人の妹も、亡くなった中に入っている。首を刎ねられ絶命した二人に、身を再生させる術はなかった。
それでもあの惨状から半数が助かったのは、彼等の生命力による所が大きい。治癒に掛かるエレメントのコストが大分抑えられたおかげだ。
「……半分……か」
ぐったりと蓮の花の上に身体を投げ出し寄り掛かって、タタラギリムはぽつりと呟く。
「貴様が正しかったな、皓皇。ものの見事に、食い殺されたわ」
「……」
「妾は愚かであった……。レトラスが軍隊である事を、あまりに軽視しておった……。まさか魔人が、本当に軍として機能しているとは思わなんだ。魔神が二匹で行動しているとは、思わなんだ……」
「六百年前とは違うんだ」
リシュアさんから聞いた話では、魔人は徒党を組む事はないとの事だった。手勢を率いる事もない、と。
しかしセ・エプリクファはそれを覆して来た。ここまでなら個人の趣味で通してもいい。
けどディードリオンとエレネアは違う。もうこれは偶然じゃない。判っててやる人間が、魔人になって、その力を維持している。
今の人間から魔人になった者は、かつての戦いやその六百年の空白の間に、集団の力を知った。魔は俺達精霊の集団に、個で撃破されていったんだから。
だから今度はきっと、軍を作るのだ。
勿論それには、人をまとめる以上の優れた才覚が必要だ。幸いにも今までその才を持つ相手と間見えた事はなかった。
純粋に利害と恐怖でだけで繋がっていたハーパー然り、セ・エプリクファ然り。彼等の様に寄せ集めに力で物を言わせ従わせても、士気は低く、また常に監視していないとあっという間に戦場ですら瓦解する。
(けど、ディードリオンの作った軍は、違う)
ディードリオンやエレネアといった将が不在でも、水の宮を囲う軍人達に一切の緩みはなかった。隊長クラスまで機能していると思っていい。
「そうじゃな……。六百年前とは、違う。高くついたが、勉強させて貰った……」
「これからどうする」
「これから、か」
「同族を失ったばかりのお前に言うのは酷だが、出来れば力を貸して欲しい。今水の宮がレトラスの軍に囲まれてて、次に雨が降った時――水の宮は落とされる」
「……」
すぐには答えず、タタラギリムは頭上の天を仰いだ。空はまだ晴れ渡っていて、雨が降る気配はない。しかしルーティールが言うには、今日の夜には雨が降るんだ。時間はない。
「……妾は、碧皇が囚われた時、弱者と嘲った。だが今なら言える。妾も弱者よ。精霊王を見捨て、女神を軽んじて、魔を増長させたあの選択で、妾は自ら弱者に墜ちたのよ……」
目を閉じ、深く息を吐いて――再び目を開いたタタラギリムは、頷いた。




