03 : 司書の教え
一部が消えた植物を眺めた後、シャロンは後ろへと振り返った。
「それでは、元凶の魔法書を捕まえてきます」
「え、ここからでは……」
「ここからでは無理です。止める事は可能でも、回収するにはもっと近づかなければいけません」
驚いた表情を浮かべた講師に、噛んで含めるような説明をする。
魔法は万能ではない、絶対ではない。どれだけ望もうとも希おうとも死者を蘇らせる事などできないし、時間を巻き戻す事も出来ない。定められた法則に従い、その範囲内で不可思議な力を行使できるというだけ。都合のいい奇跡など転がってはいない。
その魔法を記した書物である。同様に、司書が魔法書には絶対の命令権を持っていようとも、何でも出来るというわけではない。
「僕も行くよ」
「貴方が行かれる必要はないと思うのですが」
名乗りを上げた青年を見て、シャロンは僅かに眉根を寄せた。
ここまで一緒に来ておいて何だが、オズワルドは司書ではない。そもそもアリンネヴィアの関係者ですらなかった。従って今回の件には関係はないのだ。それなのにこれ以上巻き込むわけにはいかない。
だがそれはオズワルドも分かっているらしく、それでも、と彼は前置きをした上で言った。
「君の傍にいたいんだ」
「……あの、ですね」
「ん?」
「……もういいです」
なんと返答すればいいのか分からず、十分な時間をとった後に曖昧に返したシャロン。その頬は恥ずかしさに赤く染まっていた。そんな彼女と、彼女を微笑を浮かべ見ているオズワルドの2人を見ていた講師の1人は、唐突に思い出した事に驚き声を上げた。
「貴方は、まさか宮廷魔法師のグラズヘイム様ですか!?」
その声に、その場にいた全員の視線が微笑を浮かべる青年へと集まった。
宮廷魔法師は、文字通り宮廷、王族に仕える魔法師の総称である。魔法師と呼ばれる者の中でも選ばれた一部の者しかなれないというだけあり、宮廷魔法師である彼等は有名だった。
呼ばれた当人であるオズワルドは、目を見僅かに見開いた後、柔らかく笑った。
「さて、どうだろう」
告げたと同時に、オズワルはひょいとシャロンの腰へと腕を回し、地面を蹴り上げ、文字通り宙へと飛んだ。
シャロンが瞳を瞬かせている間に、講師の驚いた顔から、王都の幾つもの建物、更に遠くの山や湖、晴れ渡った空が視界に飛び込んできた。風に吹かれるまま、シャロンの背に流していたチェスナットブラウンの髪があちらこちらに流れ、一部は視界を遮る。
上に上がれば、当然、重力に従い次は下へと落ちる。心臓が縮むようななんともいえない一瞬の浮遊感の後、彼等2人はそのまま落ちた。
声にならない叫び声を上げるシャロンを余所に、2人は落ち続けて、先程まで動いていた食虫植物に上から突入した。
*
「先人は、偉大な教えを残したわ」
人差し指をシャロンへと突きつけながら。
アリンネヴィアと呼ばれる図書館の中で。ピンクの腰以上に長い髪を揺らし、印象的な深紅の双眸を煌めかせ。唐突に、ニアは口を開いた。
「噂というものからの情報には、正しいものは存在しない可能性があると言われているわ。なぜなら噂なんてただの人の伝言遊戯なのだからして、人から人へ伝えられていくうちに正確な情報は歪められて、さらに尾ひれ背びれが付く可能性が高いからよ」
嗚呼、また発作がはじまった、とげんなりした顔でシャロンはニアを見上げた。
図書マニア、もしくは書籍バカの彼女がこうなると、戻ってくるまでにはかなりの時間が掛かる。だがシャロンの様子など気にもせず、彼女は高らかに声を上げた。
「そしてこれは、歴史書を作った人物にも同じような事が言えるわけなの。そもそも作った人物が、公平に本当に正しいことを伝えたのか分からないわ。自分に有害なことを取り除いて書いたのかもしれない、もしかしたら有権者に阿った人物が作ったものかもしれないわ。特に歴史書は公に存在していたものであって、有権者の手によって彼らに有害な書物は消され、有利な書物は大切に保護されていた可能性が最も高い。そうして偽りではないけれど、一部に偏った歴史が人の中で浸透しているのは今の人々が教えてくれているでしょう。だからこそ、新しい歴史なんていうものがたびたび発見されるのよ?」
そこまで言い切ったニアは、一呼吸してから再度、口を開く。
熱が入りすぎているのか、とうとう立ち上がったニアに、周囲はまたかといった様子で生暖かく見守り始めた。
「歴史書のすべてを鵜呑みにしては駄目。けれど、その歴史書からは、歪められたと思われる歴史を記した人物や、残した人物の思惑を知ることが出来るわ」
ニアは感極まったのか胸の前で両手を組んだ。
「ああん、もう素晴らしいわ! その一冊で当時の人の考え方も世界の在り方も分かるのよ、なんて素晴らしい!」
一頻り身悶えたニアは、だから、と口を開いた。
「ねえ、シャロン。だから、わたくしたちは公平であらねばいけないわ。後世の人々へ託す為にも、知識と歴史を記した書物を有するこのアリンネヴィアは、国や有権者に阿ることを良しとはしない。賢い貴方なら分かるわよね? わたくしたちは中立であらねばいけないのよ」
それが、ニア――シャロンの育ての親の口癖だった。
彼女は常にシャロンに教えた。公正でいなければいけない事、無私でいなければいけない事。何があろうとも中立でいなければいけない事。図書館の中に眠る知識を用いて、権力を得てはいけない事。
ニアを見上げ、シャロンの瞳が翳った。瞳が潤み、泣きそうになる。
彼女が目の前にいるのなら、これは夢だ。シャロンの中の冷静な部分が囁く。それでもその懐かしさに泣きたくなってしまった。
「ごめんなさい」
そして、謝ってしまう。謝る相手がいないと知っていても。
彼女はもういない。シャロンの目の前にも、この世のどこにも。これは在りし日の記憶を再現した夢だ。分かっていて、それでも、シャロンは謝り続ける。
「ごめんなさい、ニア。貴方の教えを破ってしまいました」
掌を強く握り締める。
脳裏に浮かぶのは、過去の自分。
大好きな人を助けたかった。どうしても、何をしても助けたかった。だから図書館の知識に手を出した。
自分1人では出来なかった。だから国王との取引を申し出た。
禁じられた方法を使い、権力を使い、成した事は大きな事だったかもしれない。けれど彼女の手に残ったものは少なかった。助けたい人を助ける事すら出来なかった。
シャロンは、笑みを浮かべたままのニアを見つめる。
幼い時のシャロンには、彼女がすべてだった。大好きな人だった。それは、今でも。
*
「……嫌な夢ですね」
意識が浮上したシャロンは、嫌悪感を滲ませた声で呟く。
かつての自分の罪をさまざまと見せ付けてくる夢に、自己嫌悪が募る。
かつてのシャロンは無知だった。だからといって、起こした事に対して許されるはずもなく。結果として無知な子供が引き起こした出来事は、多くの人を巻き込み、幾つもの国を巻き込んだ。その影響は計り知れない。シャロンがいなくなった後も残るのだろう。
「ごめんなさい」
誰もいない中、シャロンの後悔を滲ませた声だけが響き渡った。