誹謗中傷 :約3000文字 :コメディー
「はあ……」
とある会社の休憩室。昼下がりの鈍い光が窓から差し込み、蛍光灯の光と混ざり合って、室内はどこか白っぽく濁っている。空調の音がかすかに響く中、片隅の席で男が一人、紙コップのコーヒーを手にため息をついていた。すでに湯気は消えているが、中身はほとんど減っていない。
彼の視線は無意識のうちに上へと向かい、白い天井に吸い寄せられていた。
「よっ」
と、そこへ軽い声がかかった。ゆっくり顔を向けると、そこには同僚が気安い笑みを浮かべて立っていた。
「ああ……お疲れ」
彼は少し遅れて気だるそうに応じた。
「いやー……わかるよ」
「えっ」
「しんどい、よな……」
「えっと……」
「でも大丈夫だからさ」
「いや……何が?」
彼が戸惑いながら訊ねると同僚は目を細めて、うんうんと頷いた。
「こないだの件、気にしてるんだろ? お前がコピー機壊しちゃったやつ」
「え? ……ああ、あれはたまたまおれが使ったときに壊れただけで、別におれが壊したわけじゃ――」
「だよな! そう思うことが大事なんだよ。自分を責める必要なんてないんだ」
「あ、ああ……」
「誹謗中傷してくる奴らが完全に悪いんだからな。お前は何も気にしなくていいんだよ。確かに、コンビニまでコピー取りに行かされるのはかなり面倒だけど、でも、それとこれは別問題だ。お前が悪いわけじゃない」
「いや、うん。あの、誹謗中傷って――」
「だいたい、誹謗中傷するやつって意味不明なことばっか言って話が通じないんだよな。いろいろな部分がずれてんだよ。まともな会話ができないんだよ!」
「うん、あのさ」
「そういうやつはもちろん反省しないし、SNSで人を傷つける投稿を延々と続けるんだよ。自分が正義だと思い込んでいるから、ほんとタチが悪いよな!」
「ああ、で、あのさ」
「個人情報をネットに晒したり、勤務先のマップをいじったり、口コミで悪評をばらまいたりしてさ。いったいどの立場でやってんだって話だよな!」
「いや、だから」
「お前は全然悪くないんだからな。コピー機を壊したからって、お前が壊されていいわけないんだ!」
「いや、聞けよ!」
「ん? どうしたんだよ」
彼が声を荒げると、同僚はようやく言葉を止め、きょとんとした顔で瞬きした。
「お前が拡散してんだよ」
「は? どういうこと?」
「お前がでかい声でコピー機の話をするから、おれが壊したって知らなかった奴らにまで広まってんだよ。いや、そもそも壊してねえわ!」
彼は思わず声を張り上げた。先ほどから、他の同僚たちがひそひそ話しながら、こちらを見ていたのだ。
「落ち着けよ……。確かに、誹謗中傷してくる連中に腹が立つのはわかるけど、感情的になったら相手の思うツボだ。中途半端な反論はむしろ火に油を注ぐだけだぞ。ただでさえ連中は論理的じゃないんだ」
「まず、お前が冷静に話を聞けよ」
「俺は冷静だよ。冷静に、お前のことを心配しているんだ」
「迷惑だよ。お前がおれを庇うたびに、どんどん話が広がってんだよ。ほら、『あいつだったのか』ってざわついてるだろ」
「なに……? おい、誹謗中傷はやめろ! あっち行け! 行けよ! 廊下に出てろ! 今大事な話をしているんだよ!」
同僚は大きく手を振りながら怒鳴った。その剣幕に気圧されたのか、周囲の同僚たちはそそくさと席を立ち、逃げるように休憩室を出ていった。
彼は両手で頭を抱え、大きくため息をついた。
「だから、お前が火に油を注いでるんだよ……。頼むからもう黙っててくれ……」
「黙れるかよ。誹謗中傷はな、ネットだろうが会社だろうが、絶対に許しちゃいけないんだ。ほら以前、回転寿司屋の醤油差しを舐めた中学生がいただろ? あのときも寄ってたかってみんなで叩きやがってさ。未来ある若者への嫉妬だよ、嫉妬。ちょっと取り替えれば済む話だろ。人ひとりの人生を潰すほどのことじゃない」
「いや」
「それからほら、高校の野球部の暴力問題。あれも本来は当事者同士で解決すべき話なのに、外野が騒ぎ立てたせいで結局、大ごとになったじゃないか。そうだよ、まさに外野は黙ってろって話」
「だからさ」
「ネットは本当に恐ろしいよ……。前にも、中学一年生の少女がネット犯罪に手を染めたことがあったしな。もうゲーム感覚なんだろうな。この現実を大人としてどう受け止めればいいのか……」
「お前が思い出させてるんだよ」
「この前だって、記者会見の直前にマスコミ関係者の失言が放送されて、SNSが犯人探しとメディア批判で埋め尽くされたじゃないか。何が真実かわからない以上、距離を取る冷静さが必要だよな」
「今初めて知ったよ、その件」
「だからさ、お前がコピー機を蹴って壊した件も、もう終わったことなんだから気にするなよ」
「だから、お前が蒸し返して……いや、蹴ってねえよ!」
「俺は味方だからさ。いつでも相談に乗るよ」
「はあ……お前のその熱意はなんなんだよ……。なに? お前、昔誹謗中傷でもされたのか?」
彼は呆れたように訊ねた。
「……ああ、あったよ」
同僚は深く息を吐き、天井を見上げた。
「しかも完全な濡れ衣だった。今でも思い出すと体が震えてくるよ。ひどい目に遭った……。なかなか信じてもらえなくてさ。いやあ、あの頃は本当につらかったよ。地獄だった。しかも、未だに冤罪だと知らないやつもいるだろうしな……。できることなら、誰の記憶からも消してしまいたいくらいだ」
「そうか。じゃあ、もう言わなくていいぞ」
「あれは、俺がこの会社に入る前で――」
「だから、言わなくていいって。自分のことまで蒸し返す気か」
「それはそうと、コピー機の件じゃないなら、お前なんであんなに落ち込んでたんだ?」
「いや、それは……」
「話してみろよ。な、な? いいだろ? くれよ。くれ!」
「食い物にしようとしてないか?」
「心配なんだって! 言えばきっと楽になるぞ。ほら、スマイル、スマイル!」
「いや……」
「ほら、もう誰もいないしさ」
「それもお前のせいだけどな」
「なあ、頼むよ。くれくれくれくれ……!」
「はあ……実は」
彼はそこで言葉を切り、ゆっくりと椅子から立ち上がった。そのまま静かに窓辺へと歩み寄り、窓を開けた。同僚もつられるように立ち上がり、隣に並んだ。
「あれ、見えるか?」
「あれ? あれって駐車場か? 別に何も……あっ――」
同僚が彼の指の先を目で追い、身を乗り出した次の瞬間だった。
彼は素早く腰を落とし、同僚の両足を抱え込むように掴むと、そのまま一気に持ち上げた。
そして――直後、窓の下から鈍い破裂音が響いた。
――おい、今の音なんだ?
――外か?
――お、おい! 聞いたか? 社用車に血とへこんだ跡があったんだってよ。
――え、それって……轢き逃げか?
――今、誰が使ったか調べてるらしいぞ。
廊下の向こうからざわめきと慌ただしい足音が広がってきた。彼はその音を背に、静かにポケットへ手を入れた。
鍵を取り出すと、窓の外にそっと落とした。小さな金属音が遠く下でかすかに鳴った。
彼は静かに窓から離れ、ゆっくりと口角を上げた。




