第7幕 リリス・ハーヴェイは知っている
今日は入学式だった。
新たな顔ぶれ、新しい季節、そして――可愛らしい特待生の少女、フィオナ・エルメロワとの出会いもあった。
庶民ながらも並外れた才能を持つ彼女。あどけない笑みと澄んだ瞳が印象的で、まるで絵本から抜け出した天使のようだ。
自分には、幸いにして婚約者はいない。
だから、学園生活の中で、未来の伴侶を選ぶ必要がある。父王もそう言っていた。候補は何人かいる――と。
(……違う。何かが、おかしい)
急に脳裏を過った。
まるで足元の地面がぐらつくような感覚。
違う。違う。――自分には、確かに“誰か”がいた。
(誰だ……誰が、私の――)
「殿下、少しお時間をいただけますか?」
不意にかけられた声に、クラウスは我に返る。
目の前に立っていたのは、深い青の髪をフードで隠すように垂らした、涼やかな美貌の少女だった。
彼女の姿に、どこか懐かしさを感じた。見覚えがある……はずなのに、記憶の奥で靄がかかっている。
(確か、父が言っていた婚約候補の一人……)
「君は……リリス・ハーヴェイ嬢、だったかな?」
「はい。リリス・ハーヴェイです。お目にかかれて光栄です、殿下」
その口調は丁寧で、姿勢も申し分ない。けれど、瞳の奥には不思議な光が宿っている。
まるで、彼女だけが“何かを知っている”ような――そんな目。
「何か、ご用かな?」
「少々……お耳に入れておきたいことがございます。場所を変えて、少しだけ、お時間をいただけますか?」
その声音には、抗えない力があった。
「王太子殿下、『レオノーラ』という名前に覚えはございますか?」
問いかけられ、クラウスは一瞬言葉に詰まった。
――その名に、なぜか心の奥底がざわつく。
「わからない……いや、はっきりとはわからないが……何か引っかかるものがある」
リリスは表情を変えず、静かに続けた。
「――夢を見るのです」
「夢?」
「殿下が王太子となり、フィオナ様を婚約者として選び、そしてレオノーラ様を断罪する夢を」
「……そんなもの、何の意味があるのだ? そもそも私には婚約者など――」
言葉が喉で止まった。胸の内に確かな“空白”があることを、クラウスは自覚していた。
リリスは微かに間を置き、さらに続けた。
「違う場面で、何度も同じ夢を繰り返し見ています。きっとそれは、殿下の記憶の断片……実際に起こった過去であり、これからも訪れる未来なのです」
「そんな馬鹿な……!」
叫びたくなるほど、現実から乖離した話だった。
だが、心のどこかに違和感が――
「殿下は、この世界に違和感を感じませんか? 本当はどこかおかしいと思いませんか?」
その言葉が胸に突き刺さる。
クラウスは言葉を失ったまま、静かに息を吐き出した。胸の奥に澱のように残っていた違和感が、少しずつ形を持ちはじめている。
そんな彼を見つめながら、リリスは一歩踏み出す。
「やはり、殿下も感じていらしたのですね。ここからは、私の推測に過ぎません。ですが……どうか、聞いてください」
クラウスは無言で頷いた。
「おそらく、この世界は――大いなる存在によって“監視”され、“管理”されています。そして、その存在の意志により、何度も“やり直し”が行われているのです」
「……やり直し? それは、神のような存在のことか?」
「ええ。正確な正体はわかりません。でも、我々の理解においては、それを“神”と呼ぶのが妥当でしょう」
リリスは唇にわずかな笑みを浮かべた。どこか諦めに近い、冷めた微笑だった。
「その神は、殿下に何度もフィオナ様を選ばせてきました。けれど、その選択の先に待っていたのは、いつも“世界の崩壊”だったのです」
クラウスの目が見開かれる。
「……崩壊?」
「ええ。そして、世界は決まって同じ地点――“起点”へと巻き戻される」
「起点……それが今日というわけか?」
リリスは静かに頷いた。
「今日。フィオナ様と出会い、すべてが始まる日。この日を境に、殿下は何度も選択を繰り返してきた……知らず知らずのうちに、です」
クラウスは息を呑む。
「つまり……君の見ている“夢”は……前の私の記憶だと……?」
「はい。恐らく、断片的にですが……この繰り返しの中で、殿下の“記憶のかけら”が私たちに散っている。……なぜかはわかりませんが」
リリスの瞳はまっすぐにクラウスを見つめていた。その奥に宿るのは、迷いではない。確信だ。




