第1話-L 蛍に憑かれた人間のむなしき寛容性
Y氏は今年、17歳になる高校生である。得に秀でた才がある訳でもなく、特段運動能力に優れている訳でもない。
彼には野心というものがなく、将来、「何者かにならなければいけない」といった、一種の人生に価値を見出すための大義とその理想像を抱いている訳でもない。
しかし、Y氏は自身のその包容力、寛容力——簡単に言うのなら、「優しさ」だけには自信を抱いていた。誇り等と表現するとやや過大ではあるが、確かにそこには自身を自身たらしめる、他の人間が持たざる何かを感じていた。
それに由来するのか、同じクラスで生じる虐め、陰口などには嫌気がさしていた。なんて惨いことをする。なんて醜い心を持っているのかと。
Y氏は罪もなく、なぜ卑屈な心を持つ囚人が住まう牢獄に閉じ込められていると不思議に感じるのだ。
牢屋の中はおよそ20人程度の規模である。Aさんの前ではBさんの悪口、Bさんの前ではAさんの悪口を言うアマノジャク。鋭い切れ味を持つ言葉で相手の内臓に深々と刃を突き立てる殺人鬼。
「なんて僕は不幸なのだろう」
Y氏はため息をついて牢屋に取り付けられた窓から外を眺める。そこには数々の建物が見える。しかし、どれも廃墟。廃墟。廃墟。
「帰ったら帰ったで、特別ななにかがある訳でもないか。いや、この牢屋から出られるだけましか」
真っ暗ではない。まだ沈みかけの太陽がその曇天の灰色の雲の隙間から、頑張って光のシャワーを降らせようとしている具合には、光を感じる。しかし、どこまでも生気のなく、無機質で、薄暗い世界が広がっていた。
そしてふと、Y氏は自身の胸の中に光を感じた。
「僕の心に住まう蛍達。今日もありがとう、光を届けてくれて」
いつだってそうだ、そう感じるY氏。どうせ目を開けても閉じても同じ。
Y氏はゆっくり目を閉じて、自身の心に住まう優しき光——否、蛍達を感じる。彼らはY氏に無駄に干渉することがない。しかし、真っ暗な世界を優しく照らし、世界を包む大切な使命がそこに生きていた。
「ねえ、Y氏ってだれか嫌いな人とかいるの?」
「僕かい?いや、特に嫌いって人はいないけど」
同級生の女から話題を振られた。Y氏は特段嫌いな人間はいないと返した。おかしい。Y氏はクラスのその醜き囚人達を心のどこかで軽蔑しているのに、しかし彼らを嫌いではないと伝える。
「本当にいないの?」
「本当に、嫌いって表現するまでの人はいないよ。確かに、ちょっと苦手かもって人はいるけど、特段僕に害がある訳じゃないし」
「ふうん。変わった人ね」
その同級生は、ふとY氏の胸の扉を開けてみた。
「おい、何やってるんだよ」
同級生はY氏の中の蛍達にご挨拶をした。
「こんにちは、Y氏の蛍さん達!」
「勝手に人の心を見るなんて、まったく」
Y氏は少々腹立たしさを覚えながらも、しぶしぶ同級生にその蛍を見せてあげた。
「へえ、可愛い蛍達ね」
「まあね」
「すごい明るい訳ではないけど、優しく辺りを照らして、まさしくY氏って感じがするもの」
「どういうことだよそれ」
同級生はY氏を軽くからかっていると、今度はY氏がその同級生に尋ねてみる。
「そう言えば、君の心の扉からは、すごい光があふれているけど——」
「あら、気づいちゃった?見せてあげてもいいのよ」
同級生は自身の心の扉を開けて見せた。すると、太陽系が広がっていたのである。
「どうどう!Y氏と違って、私の心はビッグな太陽系よ!その最も近い惑星にいるのが、何か、いや、誰か分かる?」
「ああ、君の彼氏だろ」
「ピンポン!!」
同級生の開放された心の扉をのぞき込むと、中心に彼女——否、太陽の存在が見て取れた。そして、その最も近い惑星には同級生の彼氏の存在が確認できた。彼女の彼氏は現在、別の学校に在籍していた。
「私の愛している彼には、それはそれはもう強い愛の光を毎日届けているの!一番太陽に近い惑星に住んでもらっているのよ」
「確かに眩しいくらいの光が彼に届いていそうだけど、ちょっと熱いんじゃないの
?」
「何言ってるの!それくらいがカップルには丁度いいの!」
同級生がげらげらと笑っている。すると、気になったことをY氏が同級生に尋ねた。
「太陽に一番近いのが彼氏。じゃあ、この光がもっとも届かない、言わば太陽から最も遠い場所に住まう人たちは誰なんだい?」
「それは、私が嫌いな人たちよ」
Y氏はその返答に、げんなりとしてしまった。この一見優しく公平に人を扱いそうな人間にも、光を届けず無下に扱う対象が存在するのかと、幻滅してしまった。
「Y氏には悪いけど、私にだって嫌いな人間が一人や二人いるもんなの。き、嫌いになっちゃった?」
同級生はY氏に嫌われたのではないかと心配になり、光を求めて彼の蛍に手を伸ばす。一瞬蛍達はその同級生の伸びた手にびっくりして散らばるも、一定の距離を保ちながらその手を優しく照らしていた。
それを確かめた同級生は、まだY氏に嫌われた訳ではないことを確かめて安心した。同級生の太陽はビッグフレアを起こし、その光を強く放った——いちいち壮大な……。
「よ、よかった」
「まあちょっと君の考えは僕とは違うけど、人によって考えは違うものだし、嫌いにはならないよ」
「安心したよ、Y氏——」
そんな他愛もない会話を同級生と交わし、日常業務が終了した。
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「痛い、痛い、やめてよ!!」
事は唐突に起こった。そう、それは虐めである。
「痛いったら!痛い、痛い!」
Y氏と昨日談笑していた同級生が、クラスで虐められていたのだ。その主犯格は、昨日彼女の太陽系の中で、最も太陽から離れた惑星に住まわせられていた住人であった——彼女が嫌っている人間。
「お前はいつも偉そうに!」
彼女はその虐めの主犯格に腹や腕を殴打され、その皮膚には紫色のアジサイが根付いていた。どんどんその花は成長し、彼女の体にはアジサイの花弁の入れ墨で埋め尽くされた。痛々しい紫色。
特段の理由はない。ただ、その男は彼女が気に食わなかったのである。
「た、助けて!」
その彼女の太陽はだんだんと暗くなり、周りの惑星に光を積極的に届けることができなくなる!
「た、助けてよ!」
なんて哀れなのだろうか。命令口調で自身を助けるように、懇願する。その太陽は周りを照らす余裕がない。
「Y、Y氏……」
彼女はY氏に助けを求めるため、彼の蛍達に手を伸ばす。
しかし——
「ああ、あ——」
Y氏は彼女をその優しき光で包み込み、その優しさで救ってあげたかった。だけど、蛍達は逃げてしまった。
彼の足はぶるぶると震えた。彼女の横にいる、その虐めの主犯格に対して。
蛍は逃げて、逃げて、逃げ続ける。しかし、一定の距離を保って、一定の光は浴びせ続けた。
彼女の手はぶんぶんとY氏の蛍に光を懇願するように荒れ狂う。しかし、蛍はその手にとまることなく、荒い羽音を立てながら避けて、避けて、避け狂った。一定の距離を保って、一定の光は浴びせ続ける。
「——」
もうこのクラスにはY氏とその同級生である彼女しかいない。
日はとうに沈んでいた。
Y氏の蛍は優しく、一定の距離を保ちながら、彼女を淡い光で照らしている。虫とはそういうものなのだろう。
「だ、大丈夫か——ひどい奴らだよ」
Y氏の蛍は彼女に優しい光を浴びせた。
しかし——
「な、なんであの場で助けてくらなかったの——」
Y氏はどきりとした。
「ぼ、僕はずっと君を心配して——」
その言葉は真実であった。実際にY氏の蛍は逃げ狂いながらも、しかし彼女を照らし続けたのだ。
だけど、彼女が望んだものはそうではなかった。
「私はあなたに助けて、欲しかった……苦しかった」
「——」
Y氏は彼女に何も言えなかった。
すると察するように、いや、察していたように彼女がY氏に口を開いた。
「あなたが私を助ければ、あなたが虐めの標的になるものね」
Y氏は彼女の言葉にドキリとしてしまった。違う、そんなつもりではない、そんなつもりではと、Y氏は言い訳を考えるも、どれもしっくりと来るものではなく、喉につっかえて言葉を発することができなかった。
「あなたの蛍は、そうね、例えるなら」
そうして同級生である彼女の口からは毒が放たれた。
「当たり障りのない、公平に幻の光をばらまく蛍達」
Y氏の蛍達はその毒にやられ、ぽたぽたと心に溜まった涙の滝つぼに落ちていった。水量はましてゆき、濁流となって上流のわだかまりである土石を巻き込みながら茶色の汚物色となっていった。
光がない。どうすれば良いのか。
暗い、苦しい。雨の音、滝の音が聞こえる。
「暗い、苦しい——」
蛍を失ったY氏はその暗闇をさまよった。もうこのクラスには他に同級生である彼女しかいない。光は、求められないだろう。
「つ、辛い、苦しい——見えない、何も見えない!」
Y氏はもがき、苦しむ中で、何か光を見た。
「こ、これは」
それは太陽であった。真っ暗になってしまった宇宙の中で、しかし、まだ微弱な光を放っている太陽に近い惑星に、Y氏は立っていたのだ。
「な、なんで……」
先ほどまでY氏を邪険に扱っていた同級生の彼女が、なぜか彼に光を届けたのである。
「悪い……言い過ぎたかし、ら……」
弱い光。しかし、元のポテンシャルがあったからこそ、残存している光がそこにはあった。
彼女の太陽は人を選別している。近くの惑星は強い光で照らし、遠くの惑星は弱い光しか届けられない。近くの惑星に住める住人の数には限りがある。
それでも——
「私だって、皆に光を届けたいと心の奥底では。でも、十分に力強い光を届けるには、それだけの人間性が必要。まだ私にはそれだけの器がないもの。
だけど、嫌いだからって邪険に扱う訳じゃないわ。ただ私は、近くの人だけでも暖かな光を届けられたらと思って、過ごしているの」
「あ、暖かな……光」
Y氏は目をつむり、それでも瞼を越えて届く温かみを目に感じたのだ。
「ぼ、僕を許してくれる——のか?」
「許す許さないは正直——おかしい表現ね、ごめん。だって私が勝手に助けを求めたのだもの。だけど、悲しかった。それでも、嫌いにはならない。あなたの気持ちは、正直分かるもの」
Y氏は自身の亡き蛍達に目を向けた。
蛍達は、人間を個別に認識していなかった。どの人間も同じ人間に見ていた。畔を訪れた人間を、うっすらと一定の距離から明るく照らす存在。平等で、そして皆に光を届ける存在。
しかし、その光は弱く、誰かを選択して強く照らす力も、全員に光を届ける器もありはしなかった。
誰かが手を伸ばしたのならば、霧散してしまう。
「僕には強さが足りない、のかも、な」
Y氏は涙ながらに、自身が弱いことを嘆いた。自身の当たり障りのない優しさが、少しのストレスによりかき消される灯であることを自覚してしまった。
「消極的な優しさ、なのかな」
特段何か嫌な思いをしなければ、相手には光を届ける存在。しかし、積極的に相手を助けるように光を届けに行く存在ではないことに、Y氏は気づいてしまった。
「積極的な優しさには、強さが必要よね。でも、その優しさはどんなに自身のことを強いと思っていても、なかなか手に入れることができないものよ。私だって——」
同級生である彼女はY氏の苦悩に気づき、優しい言葉を投げかけた。
「ごめん、さっきは、ひどいこと言って」
「な、なんで君が謝るんだよ。謝らないといけないのは、僕のほうじゃないか……」
Y氏は彼女の優しさに安堵しながらも、自身の奥底に眠る卑怯で卑屈な悪魔に怯えてしまった。
さらに乱れた心に追い打ちをかけるように——
「なにやってんだ、気持ちわりい」
2人っきりのクラスに、先程の虐めの主犯格が顔を出したのだ。今は一人のようであった。
「お前ら、付き合ってんのか」
「ち、違う!」
Y氏はその再度出くわしてしまった虐めの主犯格の誤解を訂正するように叫んだ。同級生である彼女には既に彼氏がいる。それを誤解されたくはなかった。何より彼女に悪いと思ったのだ。
「そうか、勘違いかよ」
その男はそう言うと、乱暴にズタズタと彼女に近づき始めた。
「な、なんだよお前!」
Y氏はぶっきらぼうに彼女に近づく男を凝視し、反射的に彼女の前に躍り出た。
「は?」
Y氏は唐突に殴られた。
「痛い!」
「そこをどけ」
「い、嫌だ!」
Y氏の真っ暗な心が彼女のひ弱な太陽に照らされていた。その光にあてられ、力強く根を張り花を咲かせた。
彼はその心に咲いた花を身体で体現するように、手を両手に伸ばし、ひ弱な光——彼女に向けて花を咲かせた。背には男。
「痛い」
花弁が一つ落ちた。
「痛い」
花弁がもう一つ落ちた。
「痛い、痛い」
もうその花に美しさはない。魅了する花弁もなく、根と茎、そして葉のみの不格好な不完全な残骸が土に残存しているだけだった。
「それでも、心は………晴れ晴れしているよ」
美しさはなく、信念が土に芽生えた瞬間であった。
「Y氏——」
クラスはまたも静寂に包まれた。
そこにあるのは、先程まで死にかけていた薄暗い太陽が再度輝きを取り戻した彼女のそれと、Y氏の力強く根を地に突き立てた茎と葉のみであった。
男はすでに立ち去った後である。
「君と同じ痛みを感じたよ。今度こそ僕を許して欲しい、な」
同級生の彼女は何かを彼に伝えた。弱弱しい声で。
しかし、確かにその言葉はY氏に伝わったのだ。Y氏の心は輝きを取り戻しつつある彼女の光にあてられた。心の扉の中には豊かな土壌から新しい感情が芽吹き始めている。その花々はまだまだ咲き切らず、新芽の状態である。
しかしよく見ると、多くの虫達が土壌に帰り、その土壌の養分は豊かに満たされ、今にも美しき花が咲きそうな気がしてならなかった。
Y氏は思ったのだ。
"当たり障りのない優しさ、それは僕の場合、人への無関心を意味していた。優しさが、無関心からくる平等性と見かけの寛容力に直結していた。"
"いざ自身に不利益の生じる可能性のある出来事に直面したのならば、優しさの光はすぐさま対象から退き、困難が去った後に、そろりと幻の光を対象に当てる、そんな性質が僕の蛍にはあったのかもしれない。それを消極的な優しさと捉えるのならば、その対極にある積極的な優しさを持つことは難しいと改めた感じる。"
"積極的な優しさをすぐに養うことは難しいかもしれない。だけど、僕の心には確かに新たな新芽が豊かな土壌に芽吹いた感覚を覚えた。
もしもいつか本当に大切だと思える人に出会えた時、積極的な優しさを持たざる負えない時が来る。いや、持たなければいけない。
今すぐには無理でも、少しずつ、少しずつ、信念をもって花を咲かせたい。
そんな気がした。確かに、この瞬間"
「ありがとう、Y氏」
Y氏は生まれて初めて、その感謝が幻でない実感がした。