第9話 天子と天使
洛陽に到着してもトラブル続き……。
「鹿の呪い」かーー打開策を探るも事態は悪化の一途……。
そこに天使が舞い降りるーー。
「陛下、五銖銭はもはや市井では使われておりませぬ……」
景初二年十二月某日。
大魏皇帝・曹叡は目を血走らせ、
この日の議題をのっけから一蹴した、その廷臣を睨みつけた。
だが、すぐに目線を下げ、玉座に深く座り直した。
過去には、ついうっかり廷臣の一人と口論してしまい、
不敬罪を問われたその廷臣が煮湯の刑に処されてしまう、という苦い経験もある。
曹叡は深く息を吸い黙したまま、廷議の行方を見守った。
他の廷臣も次々に発言した。
「さよう……京師ですら、呉や蜀の銭を密かに用いる始末……」
「民は布や米で取引しておりまする」
「洛陽の商人どもは、銀や金を隠し持ち、裏で値を付けておりまする」
「長安の兵士たちまでもが、米での支給を求めておりまする」
「地方の兵糧も、もはや銭では買えませぬ……」
「農民も年貢を布で納めて参りまする」
「農家といえば、銭は受け取らず、布か塩としか交換せぬと申しておりまする」
「銅山は枯渇しておりまする……銭の材すら足りませぬ……」
「その上、銅材は武器や農具に流れ、鋳造の銭は薄く軽く……」
「輸送にあたる車駕も荷駄に数が要り、もはや運びきれませぬ」
「銭が軽く薄いゆえ、切り刻んで偽銭を鋳る者まで現れる始末……」
「民は口々に申しておりまする……『魏の銭は桑の葉より軽い』とーー」
「ーーであるならば!!」
曹叡が大声を張り上げたのと、
渾身の力で肘置きを叩いたのと、
玉座から立ち上がったのは、ほぼ同時であった。
そして、鬼の形相のまま、廷臣たち一人一人を舐めるように睨め回した。
廷臣たちはすっかり静まり返った。
だが、やがて頭を垂れ、冕板と旒で顔を隠すと
「……善処せよ」
とだけ言って、議場から退出してしまった。
廷臣たちは顔を伏せたまま、息をひそめて見送った。
(……ままならぬものよ、天下は……)
曹叡は宮殿の庭先で、冬の冷たい空を見上げた。
その嘲りの声は、なお胸の奥に刺さったままだった。
※
その夜ーー
曹叡は夕餉の席にあった。
温かい湯気を立てる膳の前で、箸を取りながらも耳は侍臣の報告に向いていた。
「陛下、洛陽の市で米価がさらに高騰し……」
その声に、曹叡は手を止めた。
(またか……また民は納得せぬのか)
「百文束ねても、米一升に届かず……」
その言葉を聞いた瞬間、曹叡は箸を落とし、額に手を当てた。
(なぜだ……なぜ国威を保てぬ!)
「陛下、さらに――」
もう一人の侍臣が声を発しかけたとき、
曹叡は椅子を蹴るように立ち上がった。
「なぜだ……なぜ国威を保てぬのだ!」
声は震え、次の瞬間、胸を押さえて呻いた。
「う……ぐ……」
宦官と大臣が駆け寄るより早く、曹叡の体は崩れ落ちた。
※
台与の卜が始まったーー
宿舎の庭先に、亀甲を焼く音が響く。
台与は巫女衣装に身を包み、榊の枝を手にして、炎に祈っている。
その背後で、金玄基は、台与と燃え上がる炎に跪いた。
難升米と都市牛利は、儀式に慣れているのか、微動だにしない。
金玄基は、ついソワソワして、上目遣いに辺りを見回したりした。
本当は、結果が出るまで静かに祈っていなければならないのだが……。
気のせいか、誰かがこちらを見ているような視線を感じる。
先日、牛舎の影から現れた女中さんが作業をしているのだろうか……
だが、その姿は見つけられなかった。
「……出ました」
台与はそう言うと火箸を取り出し、炎の中から亀甲を取り出した。
取り出したのだがーー
ーーああっ!
急に悲鳴が上がったので、そこにいた全員が顔を上げた。
見ると、台与が地面に崩れ落ちている。
「台与様!?」
三人同時に立ち上がり、台与に駆け寄った。
台与の肩越しに、焼けた亀甲が原型を留めず、崩れ落ちているのが見えたーー
ーーなんという大凶兆!
台与は、両手で顔を覆い、今にも泣き崩れそうにしていた。
難升米と都市牛利は、青ざめたような顔で立ちすくんでいた。
金玄基は、その様子からとんでもない結果だったと悟り、一緒になって青ざめた。
(……ふふっ)
どこからか笑い声が聞こえたような気がした。
(誰だ?不謹慎な……)
辺りを見回したが、誰もいない。
難升米が声を絞り出した。
「ああ、亀甲が崩れるなんて……この世ん終わりたい……」
「えっ?!……この世の……?」
「………………」
「……落ち着け……気ばしっかり持て、都市牛利」
台与がついに泣きそうな声を上げた。
「ああ……どうしましょう……」
その瞬間ーー。
牛舎の影から、くぐもった笑い声が漏れた。
「ぷっ……ふふっ……あははは!」
金玄基は、溜まらなくなり、立ち上がって大声で叫んだ。
「誰だ、さっきから?!人が真剣にーー」
「ーーあははは!はははは!あははははははは!」
その時、牛舎の傍の木の根元から、誰かが転がり出てくるのが金玄基の目に入った。
丸い顔をした小太りの少年で、足をバタバタさせたり腹を抱えたりして笑い転げている。
しかも驚いたことに、その少年は見るからに高級そうな艶やかな絹の着物を、惜しげもなく地べたに擦り付けていた。
「ーー何が可笑しいのですか?!」
台与は涙を浮かべたまま叫んだ。
「だって……だって……」
その少年は笑い泣きをしながら立ち上がると、
パンパンと着物を叩いてから、にっこりと笑顔を向けた。
「火で焼いてるんだから、崩れるに決まってるじゃないか」
その言葉に、金玄基は呆然とした。
目の端に映る仲間たちもまた、同じように立ち尽くしていた。
「さあ、元気出して!……ほら、鹿も笑ってるよ!」
台与は涙に濡れた目で鹿たちを見やった。
「……鹿が……笑ってる?」
かすれた声でそうつぶやいた。
その表情が、ほんの少し和らいだように金玄基には見えた。
その時だったーー
少年の指が、まっすぐこちらに向けられた。
「おい、そなた。栗を持って参れ」
※
金玄基が栗を買って帰ってくると、少年は台与と話をしていた。
地べたに屈んで、卜に使った火に両手をかざしている。
まるで自分の家の庭先のように、のんびりと。
「……そういうことか。じゃあ栗を焼こう!」
少年は金玄基の手から栗を受け取ると、そのまま迷いなく炎の中へ放り込んだ。
しかも、一つ残らず。
「えっ……!」
思わず声が出そうになったが、金玄基は慌てて飲み込んだ。
(何をする気だ、この子は……!?)
台与は目を丸くしていたが、少年は全く気にした様子もなく、にっこり笑って言った。
「焼けたら食べよう!絶対おいしいから!」
その屈託のない笑顔に、金玄基は言葉を失った。
やがて彼は、どうしてここにいたのかを説明した。
家を抜け出して遊んでいたところ、偶然、卜の儀式を見つけ、隠れて見ていたらしい。
「ずっと部屋にいろって言うんだ……
何かあったみたいだけど、誰も教えてくれない……」
少年は炎を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
その声はどこか寂しげで、金玄基の胸に小さな棘のように刺さった。
※
そこへーー
裴世春が姿を現した。
「金玄基!……難升米殿は……こちらでしたか」
呼ばれた金玄基は思わず背筋を伸ばした。
だが、難升米が立ち上がったのを見て、裴世春は袖を払って顎をしゃくり上げた。
「私は尚書省より参った裴世春である。
難升米殿、朝貢の儀は未定となった。
決まるまでの間、貢物は――そちらで厳重に管理されよ」
(……また大仰な言い回しを)
金玄基は、裴世春の胸を張る姿を半ば呆れて眺めていた。
難升米が怪訝そうに眉をひそめると、
裴世春はわざとらしく声を落とした。
「……うむ。天子はご病体にあらせられる。
いましばらくは、とても謁見など望むべくもあるまい」
その言葉に、台与たちが小さく息を呑むのが、金玄基の耳にもはっきり届いた。
(……やれやれ、そんな大事をこんなところで口にするとは)
裴世春は気づきもしない様子で、さらに肩をすくめる。
「……御容体がご快復あそばされた暁には、改めて沙汰を致すゆえ
――それまでは、つつしんでお待ちあれ」
裴世春は得意げに言い放った。
金玄基は思わず唇を噛んだ。
高飛車な態度に腹立たしさを覚えつつも、ここで口を挟むわけにはいかなかった。
その時、台与の隣で話を聞いていた少年が、すっくと立ち上がった。
※
その頃ナカツヒコはーー
洛陽市中にある林の店を訪れていた。
「よう、林さん。儲かってる?」
「おお、”ナカトコ”……まあまあだね」
挨拶を交わしながら、ナカツヒコは店の壁に掛かった米相場の板を覗き込んだ。
「おお……米、すっごい上がってんじゃん!」
「戦役があったからな。兵糧を買い占められて、市場に回る分が少ないんだ」
「そりゃたまらんねぇ……でも、こっちにはありがたい!」
ナカツヒコはニヤリと笑うと、懐から札を取り出した。
「この約買い、いくつか売りたいんだ」
「ほう、どのくらい?」
ナカツヒコはしばらく考えた。
(本当は我の国が不作だった時の備えなんだが……
まあ、この値なら売りだ。下がるのは分かりきってる)
「とりあえず……今ある分ぜんぶ!」
林は呆れ顔をしながら帳簿を開いた。
「まったく……戦の度にお前さんは笑っておる。
で、どうする? 全部手形でいいか?」
ナカツヒコは少し考え、指で数を示した。
「三百両分、銀で欲しい……あとは手形にしてくれ」
林が目を細めた。
「三百か。ずいぶん要るんだな」
「まあね。こっちも色々と物入りでね」
やがて運ばれてきたのは束ねられた手形と、ずしりと重い銀包み。
懐に収めると、腰に食い込むような重みが伝わる。
ナカツヒコは、にやりと笑った。
「よし……これで財布は笑う、ってわけさ!」
※
立ち上がった少年はーー
裴世春に尋ねた。
「裴世春と申したな。今のはまことか?」
裴世春は一瞬、その少年をギロリと睨みつけた。
その眼差しは、思わず金玄基が息を呑むほど鋭かった。
だが、次の瞬間には裴世春の顔色がみるみる変わり、腰を折って叫んだ。
「ひ、ひぃぃぃぃ……! 殿下ぁぁぁぁ!」
(ーー殿下?!)裴世春の狼狽ぶりに、金玄基も思わず少年を凝視した。
台与も目を丸くして少年を見ていた。
「まことか、と問うておる」
少年が再び尋ねると、
裴世春は全身をガクガク震えさせながら土下座しかける勢いで
「まことにござりまする! いえっ、しかし……っ、これは……っ」
「しかし、何じゃ?」
少年はたたみ掛けるように尋ねた。
裴世春は額に脂汗をにじませて平伏し続けていたが、その問いには答えなかった。
やがて、少年は俯きながら呟いた。
「……やはり、義父上が……」
ーー義父上?!
金玄基は、跳び上がらんばかりに驚いた。
お読みくださりありがとうございました。
曹叡ってどういう人だったんだろう?と考えたら、こうなっちゃいました。
次回は、少年の正体が明らかになります!
(月曜20時ごろ更新予定です)




