第6話 台与 vs 司馬懿〜襄平の戦い〜【後半戦】
リベンジ成功で台与様と司馬懿の囲碁七番勝負は続く
後のない台与様、対するは本気になった司馬懿。
そして勝敗の行方を左右する、あの人物の影がーー。
ーー仲達!
(……誰ぞ、余を字で呼ぶ者は……?)
時は景初二年八月某日。
司馬懿は、台与が一手打つ度に、誰かに呼ばれているような気がしていた。
台与と司馬懿の囲碁対決は、この日、五局目を迎えた。
長雨は止み、幕舎の外には清々しい陽光が降り注いでいた。
ーー仲達、仲達!
司馬懿は、思わず顔を上げた。
そこには台与が、澄ました顔で座っていた。
少し不思議そうな顔でこちらを見ている。
傍には、いつも通り司馬昭と、通訳の金玄基がいた。
(……気のせいか……)
司馬懿は気を取り直して盤面に目を落とした。
※
対局は中盤に差し掛かっていた。
台与の石は小さく、盤面の隅に点在していた。
表面上は、弱く、意味がないように見えた。
「台与殿、端を固めるのは宜しいが、ちと目が少ないのではないか?」
司馬懿は、台与を諭したつもりであった。
だが、台与は澄まし顔で少しだけ微笑むばかりであった。
(何か考えがありそうじゃな……)
一方、司馬懿は、盤面の中央に大きな模様を築き、圧倒的に優勢であった。
(このまま、押し切れば勝てる……)
中央を制圧する方針を選んだ。
※
台与は、この日も司馬懿顔の亀甲を携えていた。
お守り代りに……いや、霊験あらたかと言うべきか。
考えているふりをして、亀甲の紋様と司馬懿の顔を見比べた。
(今日は……司馬懿様には、似てないような気がする……)
亀甲の紋様が、変わっているように見える。
正面から見ると、笑顔に。
左に傾けると、鬼の形相のようにも見える。
右に傾ければ、泣いているようにも見えた。
(誰だろう……会ったことない人かな……?)
台与の疑問は解けなかった。
(……碁とは関係ないし……)
台与は着手した。
※
「よく来てくれた、司馬仲達!」
ハッ!……文帝……曹丕様……?
司馬懿は、光の中に吸い込まれていた。
「我が師になって欲しい」
仕官してこの方、そんなことを言われたことは一度も無かった。
「……滅相もござりませぬ……私のような者が……」
「お主がよいのだ、仲達!」
「殿下……」
初めて曹丕に呼ばれた時のことだった。
立太子危うし、不安定な立場の王子……宮中ではそう言われていた。
にもかかわらず、曹丕は屈託のない笑顔を見せて、司馬懿にそう言った。
その司馬懿も、いつクビになるか分からなかった。
学識には自信があった。実務にも、だいぶ慣れた頃だった。
だが、宮廷の風は冷たかった。
曹丕は、そのようなことを一切、気に留めなかった。
立場にも、利害にも囚われない、友のような主従……
※
ーーはっ!
(いかん……また昔のことを……)
司馬懿は我に返ると、少し目を擦ってから盤面を見つめた。
ぱちり……(なぜだろう?歳のせいかな……?)
司馬懿は、台与の手番を待つ間、自分が打った手をもう一度見返した。
(大丈夫、打ち間違えてはいない)
台与の右手が、白石を打とうとしているのが見えた。
※
「仲達、こっちだ!」
「ああ……殿下、そちらは……!」
司馬懿は、曹丕の鹿狩りに付き合っていた。
ふと猟場の片隅に立つ古い石碑に目を止め、曹丕は駆けて行った。
司馬懿は慌てて後を追った。
「見よ、仲達。」曹丕は苔むした表面に手を置いた。
「この石は幾度となく壊され、削られて、なお民はここに集う」
その眼差しは石碑ではなく、遠い未来を見据えているようだった。
司馬懿は隣で黙ってその横顔を見つめ、胸の奥に静かに刻んだ。
※
ーーはっ!
司馬懿は再び我に返った。
盤面を見つめると、いつの間にか台与の石が連携し始めていた。
(いかん、切るべきか?……否、地を固めれば勝てるはず……)
司馬懿は手を打った後、目を瞑り、唸った。
台与の手番だ。碁石を打つ音が甲高く響く。
※
ーー仲達、それは!
「……本当に、民の声なのか……?」
司馬懿は、曹丕に決断を迫った。
「魏王ーー玉座に昇り、万民を安んじ賜りますよう」
「しかし、それでは父上と……武王と同じではないか?」
「ご決断を。時勢は、徳者の政を求めておりまする」
否、『私が』天子となった貴方を求めているのですーー
※
ーーはっ!
司馬懿は、少し目が乾くのを感じた。
「……台与殿、手番ですぞ」
「えっ?……司馬懿様の……手番です」台与は目を丸くしている。
「む?……そうか……」
ぱちり……。(……今日は本当に具合が悪いのやも知れぬ……)
ぱちりーー
※
「……石は……動かず……語る……」
曹丕は最期の時を迎えていた。
「……仲達……叡を……魏を……頼む……」
「ご案じなさりませぬよう。この仲達、身命に代えましても……陛下?」
陛下?!ーー
※
ーー陛下!!
「いかがなされましたか、父上?!」
司馬昭の声で我に返ると、司馬懿は脇を抱えられ中腰になっていた。
盤面では、台与の地が完全に繋がっている。
挙句、中央の陣地も崩されてしまっていた。
司馬懿は目を疑った。そして司馬昭に尋ねた。
「……何が起こった?」
「目を見張るような、台与殿の指し回しでございました」
「……信じられぬ……」
「それは……いささか、台与殿に失礼かと……」
司馬懿は、なかなか受け入れられなかった。
※
台与たちが解放された後の本営幕舎は、がらんとしていた。
幕舎の外では、司馬懿が手を後ろに組み、立ちすくんでいる。
その目には滝のように涙が流れていた。
(……童に負けて、そんなに悔しいのか……?!)
司馬昭は、目を丸くして父の様子を見つめながら、唖然とするばかりであった。
司馬懿の視線の先には、先の皇帝、文帝曹丕から賜った師旗が掲げられていた。
※
次の日ーー
金玄基は、難升米と張政の帳幕に来ていた。苦情を述べるためであった。
「いつになったら、洛陽に向かえるのですか?」
「それが……」
珍しく、張政は言い淀んでいた。
「公孫淵が出撃する気配があるのです……皆様の安全を考えますと……」
今はまだ出発できない、と言うのだった。
「そんな……もう長く足止めです」
難升米は食い下がったが、張政も譲らなかった。
「司馬太尉の厳命なのです……申し訳ござりませぬ」
しばらく口論になったが、司馬懿の命令とあっては動かしようもない。
難升米は肩を落として、自分たちの帳幕に戻って行った。
難升米を見送りながら、張政は金玄基に言った。
「おい、玄基。俺に食ってかかるのは、十年早いぞ」
※
それから一週間後ーー
司馬懿は、伝令から報告を受けていた。
「ーー申し上げます!」
「報告せよ」
「ーー敵、動きありません!」
「ご苦労」
「ーーはっ!」
伝令が去ってゆくと、
隣で聞いていた司馬昭が進み出て言った。
「今日も、動きそうにありませぬな……」
司馬懿が振り向くと、
司馬昭は声色を変えた。
「倭の使節が、『洛陽に向かわせて欲しい』と申しております」
「ならぬ」司馬懿は即答した。
「……しかし、大勢既に決しております。補給路も万全……不安はございますまい?」
司馬昭の問いに、司馬懿はその目を鋭く光らせた。
「彼奴等に、見せねばならぬものがある……」
遠くの襄平の城を眺めながら、さらに続けた。
「我が魏の威光を示さねばならぬ……王化のためでもある……」
それはそうと……と司馬昭を向き直ると、司馬懿は言った。
「余は、余の戦を始めよう……台与殿を、呼んで参れ」
※
ーーぱちり。
本営幕舎に、碁石の音が響く。
「……今更ながら、台与殿は……」
対局中にもかかわらず、この日は台与も司馬懿もよく喋った。
「お国では、どのようなお立場であろうか?」司馬懿が台与に尋ねた。
「大巫女様にお仕えする巫女です」台与は短く返した。
「大巫女様とは、倭国の女王様のことです」金玄基は司馬昭に耳打ちした。
「……とのことです」司馬昭はそれを司馬懿に耳打ちした。
こうしている間にも、台与も司馬懿も手を止めず、石を打ち続けている。
司馬懿と台与との問答が始まった。
「ほう……倭国には帝も王もないのか?」
「我らの国を治めるのは、神です」
「魏では、神とは天子のことをいう」
「我らの国の神は、全ての人々のために在ります」
「帝王は、乱れし世に秩序をもたらす柱。すなわち、民のためにある」
「……」
それからは、台与も司馬懿もしばらく無言で打ち続けた。
司馬懿は、理想も信念も、もう揺るがない……と自分では思っている。
年齢を経て、柔軟性は既に無くなっていたが、迷いもなかった。
自分は残りの人生を魏のために尽くすのだ……。
それは、先帝の恩に報いるため。ひいては、民のため……そして自分自身のため。
故に、己を捨て、忠を尽くす。それが、天意に沿う、人間の生き方。
もう迷うこともない、我が人生……。
台与は、先ほどから司馬懿の手筋が揺れているのを感じていた。
硬直したり、弱くなったり、迷っている。
膝に置かれた司馬懿顔の亀甲を見ると
(今日は……表情がない……)
まるで仮面のようであった。
「恐れながら、司馬懿様……」
台与はおもむろに口を開いた。
司馬懿が台与に目を向けた。一瞬見合ってからーー
ーーぱちり!(敗れたりっ)
司馬昭が持っていた茶碗を落とした。
金玄基は頬張ったばかりの饅頭を飲み込んでむせた。
「……っ……!」司馬懿は、言葉にならない声を上げ、盤面を見つめていた。
「石は、動かずとも語ります」
台与は微笑みを浮かべながら、深々と一礼した。
司馬懿は卓に手をついて立ち尽くしながら、しばらく台与を見つめていた。
やがて、呟くように
「……ふむ。興味深いことをおっしゃる」
と言うと、目を細めながら、台与から取った白石を盤面に置いた。
※
間もなく日が暮れるーー
(……倭の童が、先帝と……曹丕様と同じことを、申した……)
司馬懿は幕舎の前口に立ち尽くし、呆然と、帰ってゆく台与を眺めていた。
「父上……らしくないですな……」
司馬昭が心配そうな顔をして声をかけた。
司馬懿は、司馬昭を振り返って言った。
「昭よ……余は今日、ついに……我が道を見出したのだ」
台与は帳幕へと歩きながら、懐にしまった亀甲をそっと握りしめた。
お読みくださりありがとうございました。
司馬懿ってどういう人だったんだろう?と考えたら、こうなっちゃいました。
次回は、台与様 vs 司馬懿!の最終戦です!
(木曜20時ごろ更新予定です)




