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第56話 羽越の大将〜戦場の静寂〜

静寂の中に火が揺れる。ウヅは一人、あの男の言葉を反芻していた。

「女でもない、男でもない」――深く突き刺さる侮蔑の声。

だが、ウヅは気づく。剣と祈り、どちらも手放すことなく、自らを受け入れる道がある――と。


数日後――


香取の軍勢は、越の国にある柵を包囲した。


ウヅの目の前では、弥馬獲支(みまかくき)が盛んに声を上げ、軍を指揮していた。

その隣には、先日南から合流した奴佳鞮(なかてい)が立っている。


「あれなるは、羽の彦尊が越の国に残した最後の砦じゃ。

 ここを落とせば、敵もしばらくは、この地に足を踏み入れられまい」


奴佳鞮はウヅにそう囁くと、また遠くの柵を見つめた。

邑を囲む木柵の上には、敵味方の矢が飛び交う。

その様子は、まるで虫が群れているかのようであった。


弥馬獲支が振り返って唸った。


「だが、敵もしぶとい……」

「なかなか折れぬな……突撃するか?」

「いや、ここで無理攻めはしとうない」


(わたし)が参りましょう」


ウヅは静かに言った。

弥馬獲支も奴佳鞮も、その場にいるすべての百人隊長もが、一斉にウヅへ視線を向けた。


「ウヅ殿、それはならん」弥馬獲支が制した。

「先日は、危うく…」

「承知しております。しかし、僕なら柵の弱い部分を見抜けます」


その言葉に、奴佳鞮は無言で頷いた。

それは、ウヅならではの強みだった。


「行かせてみては、いかがじゃ?」


弥馬獲支は、しばらくウヅを見つめて黙したままだった。

やがて、重く口を開いた。


「では……頼む」

「はい。では、行って参ります」ウヅは頷いた。


奴佳鞮は、ウヅの肩に手を置いた。


「くれぐれも、はやるな。ウヅ殿は、この戦の希望だ」


ウヅは静かに頷き、配下の精鋭と共に前線へと歩を進めた。


奴佳鞮は弥馬獲支に尋ねた。


「何を迷う? ウヅ殿の眼力、確かなものがある。汝も先に見知ったであろう?」

「うむ。あの若さにしては、な。じゃが……」


弥馬獲支は、邑のある方を向き直って言った。


「制したのは、ウヅ殿の危うさゆえじゃ。

 先日の戦では、敵の侮蔑の言葉に感情を乱され、冷静さを失いかけたそうじゃ」


奴佳鞮は深くため息をついた。


「……武運つたなきは、ウヅ殿の定め。我らにはなすすべもない……」


その後、二人はしばらく黙ったまま、いまだ飛び交う矢を見つめた。


    ※


ウヅは柵の内側に手薄なところがあるのを見つけて、にやりと笑った。

そして、兵らに静かに告げた。


「ここから突撃する」


柵の影に隠れた敵兵が、走りくるウヅに気づいた。

「族長! 巫女が走ってきます!」


櫓の上の男は唸った。

「巫女だと……? 適当に相手せよ!」


ウヅは、柵の土台の微妙な緩みに気づく。一瞬の隙を突く。

二人の兵と共にその一角を突破した。


彼らは、敵兵の動揺を縫うように柵の内側へと侵入する。

ウヅは矢をかわすと、流れるような剣さばきで、内部の敵兵を瞬く間に切り伏せた。


敵の返り血を浴びながら、ウヅは心の底で叫んだ。


(僕は強くならなければ……あの男の言葉を否定するために!)


その焦りが、彼の左腕に、敵の槍の穂先を掠らせた。

「ちっ…!」 ウヅは舌打ちをした。

傷自体よりも、自身が冷静さを欠いたことに苛立った。


    ※


弥馬獲支は声を張り上げた。

「敵が乱れたぞ! 今だ――突撃!」


奴佳鞮は表情を変えず、弥馬獲支に歩み寄った。

「これで決まりじゃ。ウヅ殿が……また、やりおったな……」


号令を受けて、軍勢は敵の邑めがけ駆けてゆく。

その様子を見つめながら、弥馬獲支は呟いた。


「じゃが、危うい勝利じゃったわ……ウヅ殿、無事でおれよ……」


    ※


その日は――


夜の帳が降り、静寂が広がっていた。


ウヅのいるその陣では、兵たちの焚き火だけが、かすかな音を立てて揺れている。

やがて、空からふわりと白いものが落ちた。

それは、何も語らぬ雪――

ひとひら、またひとひらと舞い降りるたび、地は音もなく、やさしく覆われてゆく。

戦の余熱を鎮めるように、越の冬がすべてを包み込み始めていた。


ウヅは焚き火のそばに座り、両足を抱えていた。

肩には蓑をかけ、さらに首に巻いた白布で口まで覆った。

寒さが身に堪える夜だったが、理由はそれだけではない。


火が揺れるたびウヅの脳裏をよぎるのは、羽の彦尊が言ったあの言葉だ。


「女になりたいのか、男でいたいのか?!」


ウヅは目を固く閉じる。


(……やめろ!言うな!)



その時――

背後から「ウヅ殿……」と呼びかける声があった。

振り返ると、手勢の兵の一人が立っている。


「お怪我をなさっておいでのようです。さあ、こちらへ」


その兵はそう言って手を差し伸べた。

だが、ウヅは首を振った。


「大丈夫、平気です」

「いや、戦場での怪我は放っておくと……」

「……かすり傷ですから」


その兵士は黙って去っていった。

ウヅは、もう一度、焚き火を見つめた。



(僕はあの時……あの男の言葉を否定するためだけに、剣を振るった……)


僕は女だ。

でも、今まで出会った人たちは、「お前は男だ」「女ではない」と言った。

何も言わなかったのは阿蘇のお姉様たちと、香取の大巫女様……。

だが、あの男は――


「どっちつかずの……!」


ウヅは首を横に振った。


(男でも、女でもない……あいつはそう言った。それが……)


――怖かった?

ウヅは、はっと顔を上げた。


(大巫女様のような(ひと)になりたかった……)


でも――何故だろう?

美しいから?強いから?……いや……


ウヅは木の根元で見た大巫女の寝顔を思い出した。


(あの方には、両方あって、どちらもない……)


大巫女様のようになれば、僕は強くなれると思っていた……。

僕は強くなりたかった?

大巫女様を真似れば、強い自分になれた気がした。

でも、その思いは……羽の彦尊に一蹴された。


「これが、汝の『理想の女』か?」


ウヅはまた首を振る。


(違う――どちらでもない。大巫女様にもなれない。何にもなれない……)


「曖昧な者……」ウヅは小さく呟いた。


(その言葉が、一番正しい気がする――)



その時――

炎の中に、大巫女の顔が浮かんだ。


「その身は神が授けたもの。否むことも、誇ることも要らぬ。ただ、共に在ればよい……」


(否むことも……誇ることも……)


「ならば問う。そなたの心は、誰が作りましたか?」


(この心は……僕のもの……)



ウヅの体が急に震えた。

辺りは一面、真っ白な雪が積もっていた。

周りにはもう、誰もいなくなっていた。


ウヅは立ち上がり、手のひらをかざした。

そこに雪が落ち、また落ちては消えた。

やがて、その手は赤くなり、腫れたようになった。


ウヅは草履を脱ぎ、積もった雪の上に足を降ろした。

雪は水となり、ウヅの足を濡らす。

その裏も、手と同じ感覚を伝えた。


一歩、また一歩と、雪を踏みしめてみる。

わずかに帯びていた熱が、雪の寒さに逃げてゆく。

一瞬、心地よくもあった。


ウヅは、口まで巻いた白布を首まで下ろした。

自分の頬を撫でてみる。

その手には、頬の温もりだけが伝わった。


その温もりが、寒さに痺れていた手に、ふたたび感覚を呼び戻す。

(あのザラッとした……)

わずかに伸びていた髭が、ウヅの指に当たって凪いだ。


ゆっくりと目を閉じ、その場に膝をついた。

脛全体が冷やされてゆく代わりに、張った足の痺れも、雪に溶けていった。


ウヅは両手を蓑の中に差し込み、自分の胸を抱いた。


(温かい……)


その手には心の臓の鼓動も伝わった。

ウヅは、しばらくの間そのまま、じっと座っていた。



「僕は……この体で生きているんだ」



「うっ……」ウヅは呻いた。

不意に、右腕が痛みだす。

ウヅは先ほどの兵士が去って行った方向を振り返った。


(手当……まだ、してもらえるかな?)


ウヅは草履を履き直し、歩き出した。

雪はますます強くなっていた。

その時ウヅは、白に包まれたその空間を、暖かいと感じた。


お読みくださりありがとうございました。

迷いながらも前に進まなければならない時があります。とても辛いことです。ですが――


次回「第57話 羽越の大将〜剣と祈り〜」

迷うことは、覚醒の一歩手前の段階かも知れません。

(木曜20時ごろ更新予定です)

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