第55話 羽越の大将〜鏡合わせの敵〜
香取の軍勢、いざ決戦へ。だが、ウヅの心には大きな虚無があった。
その空虚さを一瞬で満たしたのは生涯の宿敵「羽の彦尊」。
彼の言葉は、ウヅの最も奥深い場所をえぐり、理想の自分を打ち砕く――
正始三年三月某日。香取の宮――
そこでは、香取の大巫女を前に、弥馬獲支とウヅが顔を揃えていた。
弥馬獲支は頭を下げたまま言った。
「越の国に、羽の彦尊が現れました」
「そうか……」
大巫女は短くそう答えた。
弥馬獲支は、にやりとして顔を上げた。
「越は奴佳鞮殿が防いでおりまするゆえ、我らは彼の地に参りましょう」
「念には念……援軍を送ろう。じゃが……」
大巫女も、にやりと笑った。
「いよいよじゃな……」
「はっ。仮造りではございまするが、柵も出来てございまする」
大巫女は頷くと、ウヅに顔を向けた。
「ウヅ、此度は決戦じゃ。心してかかれ……」
「はい」
ウヅはそう答えると頭を下げた。
「彼の地」とは何処なのか、知らなかった。
心は幾分、以前よりは軽かった。
だが、どこかぽっかりと、大きな穴が空いているような気もしていた。
この数日後――
香取の軍勢は、ふたたび北へと向かった。
※
大巫女たちが「彼の地」と呼ぶ地に着くと、
弥馬獲支は、周囲を取り囲む山々を指差した。
「あの山を越えれば、羽の国に至りまする。
西には大河あり、越の国に至りまする」
大巫女は黙って頷き、次に尋ねた。
「羽の彦尊に知られる前に、彼奴の根城を攻めようか?」
弥馬獲支は立ったまま頭を下げた。
「当地には、まだ雪が残っておりましょうゆえ、深入りは危険。されど……」
大巫女は黙したまま続きを待った。
「越の国に出て、彼奴らの退路を脅かすは、一興かと」
大巫女はにやりと笑った。
「柵の守りは、我に任せよ。弥馬獲支、ウヅ、頼んだぞ」
「はっ」
弥馬獲支は声を張り上げた。
ウヅは急に名を呼ばれて、はっとした。
急ぎ、頭を下げる。
「はい、お任せ下さい!」
大巫女は目を細めた。
「ウヅ、気負うでない。弥馬獲支の申すこと、よく聞くのじゃぞ」
「はい!」
「……では参ろうか。ウヅ殿は巫女じゃが、剣も触れるし頼もしい」
弥馬獲支は目を細めて歩き出した。
ウヅは大巫女に無言で頷いてみせると、弥馬獲支の後を追った。
※
「奴佳鞮殿の部隊が、羽の彦尊の軍勢を追ってこちらに参りまする!」
斥候の報を受け、弥馬獲支は頷いた。
そして、ウヅを振り向いた。
「我らは、この地にて待ち伏せいたそう。
ウヅ殿……さっそく大お手柄やも知れませぬぞ?」
ウヅは頷いた。
命じられたのは、五十人ほどの別動隊の先導。
自身にとって、初の隊長役でもあった。
その嬉しさもあり、ウヅの心は弾んだ。
この上、唆されてしまっては、その気にもなってしまう。
(まだ見ぬ羽の彦尊……だが、僕が討ち取ってみせる!)
(手柄は要らない。ただ、大巫女様のために……)
ウヅの気持ちは、時間が経てば経つほど、はやってゆく。
その時、伝令が叫んだ。
「羽の軍勢、見えました! 我らを避けて、北へ逃がれてゆきます!」
弥馬獲支は唸った。
「むむ……追うぞ! ウヅ殿は向こうに行け、先回りするのじゃ!」
「はい!」
ウヅは手を上げると、手勢と共に駆け出した。
山道をひたすら駆けた。
※
羽の彦尊を追うこと数日――
ウヅは手勢とともに山林の中を進んでいた。
兵の一人がウヅに告げた。
「この隘路を越えるともう羽の国にござる」
ウヅは頷いて、先の山道を眺めた。
辺りの残雪は固くなっていたが、踏めば足形を刻んだ。
だが、敵の足跡らしきものは見当たらない。
「敵はまだ通っておらぬ。ここで待ち伏せよう」
ウヅが近くの兵を振り返った、その時……
斥候が一人走ってくるのが見えた。
「背後から、敵兵数十名。まとまってこちらに来ます!」
ウヅは無言で手を上げ、それをゆっくりと下ろした。
手勢の兵が一斉に伏せた。
その男は、兵を率いて現れた。
甲冑に身を包んだ男が、ときどき後続を振り返りながら、ゆっくりと近づいてくる。
だが、急に立ち止まった。
(こちらの足跡に気づいたか――)
ウヅは右手を上げて立ち上がった。
手勢の兵が一斉に立ち上がる。敵兵らも一斉に身構えた。
だが、その男はウヅを見て静かに笑った。
「ははは……ヤマトは女子が小隊を率いるか……我も舐められたものだな」
屈強な体躯。獣のような面構え。
「羽の国の彦尊か?」ウヅは戸惑いながら尋ねた。
「小娘相手に名乗ってものう……」その男が低く唸る。
ウヅは静かに一歩、歩を進めた。
「我は香取の巫女――ウヅ。ここは通さぬ!」
彦尊は一瞬、黙ってウヅの顔を見つめた。
その眼が、侮蔑と嘲笑に満ちてゆく。
「巫女? 偽りを申すな。女にしては肩が太い。声も低い……」
その時、ウヅの背に冷たいものが走った。
「そうか、汝……『なり損ない』か……」
ウヅの顔が引きつる。剣を抜く手が止まる。
怒りで手が震えた。剣がカタカタと音を立てる。
香取の名を背負う者として、屈辱は受けない――そう思い、一気に抜いた。
「お黙りなされ。汝に言われる筋合いはない」
「ほら見ろ。剣を取れば、無様なものよ」
彦尊は剣を抜いた。
「美しさも、しとやかさも無い。何もかも中途半端な……奇妙なもの」
ウヅは踏み込んだ。
剣術では引けを取らない。訓練は積んだ。
(あの剣さばき……大巫女様のように!)
振り抜いた一閃は、彦尊の脇を切り裂いた。だが、それで終わらなかった。
「はっ!見苦しい。女のくせに力任せか!剣を飾りおって!」
彦尊の罵声が、ウヅの耳を打つ。
「その太い腕、もう隠すな。どう見ても、男の腕だろうが!」
心が揺らいだ。自分でも触れたくない場所を――えぐるような声。
(やめろ……聞きたくない……)
「女になりたいのか、男でいたいのか。どっちつかずの腑抜けめ!」
その一言で、ウヅの中の何かが壊れた。
「うるさいっ!」
感情のままに斬りかかる。
狙いを忘れ、間合いも狂い、足運びも……稽古のようにいかない。
剣の音が風を切った。
彦尊はそれを嘲笑いながら受け流すと、木剣のようにあしらい――
「これが、汝の『理想の女』か? 笑わせるな!」
ウヅの剣を弾き飛ばし、地面に叩き伏せた。
羽の彦尊は背を向けて走り出した。
ウヅの視界を泥が遮る。兜の中からも滴ってくる。
(……何も見えない!)
ウヅは兜を脱いで頭を振った。
足元の水たまりに映る、泥に塗れた自分の姿。
(……これが、僕?)
理想とした「強く、美しい巫女の剣士」の姿ではない。
そこには、言葉に操られ、感情に飲まれた、未熟な戦士の姿があった。
剣はもう、手にはなかった。
「あっはっはぁ! その汚れた顔を洗って出直して来い!」
羽の彦尊の大声が響く。
その後、弥馬獲支の軍が追ってきたが、羽の彦尊の姿はすでに遠くにあった。
弥馬獲支が寄ってきて、ウヅの肩に手を置いた。
「無事であったか。取り逃がしたが……まあ、何よりじゃ」
ウヅは大きく息をしながら、無言で頷いた。
取り逃がしたというより、あわや討たれていた――
ウヅにとっては、敗北だった。
※
陣に戻ったウヅは、天幕の中で一人うずくまった。
そこに、弥馬獲支が湯を湛えた木桶を持ってやって来た。
「ははは、ウヅ殿。戦場ではよくあること、気落ちなさいますな」
そう言って足元に木桶を置くと、さらに続けた。
「とにかく、体についた泥を落としなされ。せっかくの美女が台無しですぞ!」
弥馬獲支が大きく笑った。
そして、顔を寄せ、小さく尋ねた。
「それともウヅ殿も、我らと風呂に……入りませんよな?」
ウヅは黙って頷いた。
弥馬獲支は静かな笑顔になった。
「我も初めはそうでした。次があれば良しとせねば……」
そう言うと天幕を後にした。
ウヅは、その少し冷めた湯に布を浸し、身を清めながら呟いた。
「僕は一体、何を守るために戦ったのだろう?」
布についた土を洗い落としながら、また呟く。
「あの男の言葉を否定するためだけに……僕は剣を振るったの?」
身をひと拭きする度に、ウヅの心は重く沈んでゆくのだった。
お読みくださりありがとうございました。
これは言葉による戦いです。剣より鋭く相手をえぐっていると思います。
次回「第56話 羽越の大将〜戦場の静寂〜」
屈辱的な敗北を喫したウヅ。試練はまだ続きます。
(月曜20時ごろ更新予定です)




