第51話 備の国救援〜和の調停〜
理は沈んだ――
そして、新たな理が立ち上がる――
凡人・金玄基にも、同じように……
その日の夜――
海にはまだ火の匂いが残っていた。
焦げた帆布が砂に張りつき、波が静かにそれを洗っている。
遠くで兵たちが残骸を片づけていたが、その音も風に溶けていた。
ムラオサは、傍らに来ぬ国の紋章を記した旗を立て
小さな焚き火の前に座っていた。
台与は、ゆっくりとそこへ歩を進めた。
互いに警護の者は連れず、二人はただ見つめあった。
ムラオサがおもむろに口を開いた。
「……理は沈みました」
焚き火の光がその顔を照らし、皺の影を濃くした。
台与は少し間をおいてから、静かに口を開いた。
「理は、人を救うと思っておりました。
けれど、理に従う者ほど、心を失うのですね」
ムラオサは黙って火に薪をくべた。
火がぱちりと鳴る。
「理を悪と断ずるは、ちと早いかと」
「……?」
「理は秩序の言葉。
理を持たぬ国は、流砂の上に大殿を建てるが如し。
我らはそれを『測る』ために、ここへ来たのです」
「測る……?」台与は首を傾げた。
ムラオサは手のひらを火にかざした。
「熱を知らねば、火は使えませぬ。
理も同じ。使うのではなく、量るのです。
量れる者こそが『和』を名乗るにふさわしい」
台与はしばらく黙っていた。
やがて、火を見つめたまま小さく言った。
「ならば、私は『和』を量る者になりましょう。
理にも、情にも呑まれぬように」
ムラオサは目を細めて静かに頷いた。
「良きお考えです。
クニトラ王が『秩序の座』を名乗るのも、それゆえにございます」
夜風が吹き、火の粉がひとつ空へ舞い上がった。
二人はその跡をしばらく見つめていた。
「明日、会談の場でお目にかかりましょう」ムラオサが立ち上がった。
「和を量るため、まずは理を埋めねばなりませぬ」
台与は小さく頷いた。
「……理の墓標に、和の種を植えましょう」
風が火を消した。
二人はそのまま、無言で海を見つめていた。
※
その翌日――。
ヤマトの陣と備の邑との間、かつて戦場だった地に四方が整えられた。
中央には簡素な卓が置かれ、上には焼け焦げた旗の切れ端が置かれている。
かつて砂の国の紋であったものだ。
その場に集ったのは四人。
来ぬ国代表としてムラオサ、
備の国より備の彦尊、
砂の国より、やつれ果てた砂の彦尊、
そして、実質的にヤマト連合を率いる台与。
それぞれの背後にはわずかな随員が立ち、
沈黙の中、海風だけが吹き抜けていた。
最初に口を開いたのはムラオサだった。
「我ら来ぬ国は、この地を再び火に包むつもりはない。
ただ、焼けた理を埋め、秩序の座を整えるために参った」
砂の彦尊が唇を震わせる。
「……秩序を語るか。
理を掲げて国を焼いたのは、我ではない。
理を理解せぬ者どもが、情に流され戦を起こしたのだ」
その声は枯れていたが、まだ誇りを帯びていた。
備の彦尊は拳を握りしめ、低く言った。
「理を説くなら、民の骨を見てからにせよ。
そなたの理が焼いたのは、国ではなく人の暮らしだ」
砂の彦尊は立ち上がり、拳を叩きつけた。
「ならば貴様は理なき和を選ぶのか!?
理を棄てれば、獣と変わらぬではないか!」
台与は静かに手を挙げた。
「理が人を正すのではありません。人が理を選ぶのです」
砂の彦尊は彼女を睨んだ。
「女の口から『理』を聞くとはな……神託の巫女が、理を語るか。」
台与は微かに笑んで、まっすぐに答えた。
「神託ではなく、現を語っています」
しばしその場に沈黙が流れた。
海からの風が吹き、卓上の焦げた旗を揺らした。
ムラオサは、焼けた布片を手に取ると、呟いた。
「これなるは焼けた理の残り。ならば、新しき理を示す者は誰か」
砂の彦尊は、立ち上がったまま答えなかった。
ただ、海の方を見つめていた。
ムラオサはゆっくりと布片を台与の前に置いた。
「では、これより現の話をいたそう」
台与が続いた。
「ヤマト連合は、備の彦尊の交代を認めません。
砂の彦尊は直ちに兵をまとめ、国元へお帰りを」
備の彦尊は黙したまま頷いた。
砂の彦尊はゆっくりと着座した。
ムラオサが口を開いた。
「それはよいが、備の国と砂の国の間にはしばしば争いが起こる。
そこで、我の国……来ぬ国は、砂の国に兵を留める。常に監視、仲裁にあたる」
備の彦尊は目を丸くした。
「来ぬ国は、『砂の国に味方する』と申されるか?!」
「そうではない。砂の国が先に動けば、我らが砂の国を討つこともありうる」
台与が割って入った。
「ならば、備の国の側にも、同じ役目を持つ者が必要となりましょう。
その役目、ヤマト連合が引き受けましょう」
備の彦尊は目を丸くしたまま、台与に向いた。
「我の国にヤマトが留まると?!」
「しばらくの間です。今、水軍が留まっている島を拝借いたしたく……」
「しばらくの間とは?」
「我らが留まる必要がなくなるまで、です」
そう答える台与を、ムラオサはじっと見つめていた。
台与も、ムラオサの目をじっと見つめ返した。
二人はしばし黙したまま睨み合った。
ムラオサは睨むようにして低く言った。
「宜しいのですかな、それで……?」
「もちろんです……」
台与は薄く笑いながら答えた。
その声は静かだった。
焦げた旗が、再び小さく風に揺れた。
砂の彦尊が絞り出すように言った。
「理を棄てる者に、未来はない……!」
ムラオサは振り返らずに答えた。
「ならば、理と共に去れ。
この地に残るは、理ではなく人の息じゃ」
風が吹き、砂の彦尊の衣がはためいた。
やがて彼は、元来た方――備の国の邑へと歩き出した。
誰も呼び止めなかった。
彼の歩いた跡には、ただ焦げた土が残っただけだった。
※
数日後――
備の彦尊は、久しぶりに自国に戻った。
従者や兵たちの家族は表に飛び出し、身内との再会を喜び合う。
その中を堂々と歩みながらも、その表情には笑顔はなかった。
屋敷に帰り着くと、十歳の弟と対面し、固く抱き合った。
一人になってからは、高楼に登り、ただ黙ってヤマト水軍の船が浮かぶ島を眺めていた。
※
その数日後の夜――
|金玄基《》は陣中の片付けを終え、横になった。
(明日でようやく撤退……無事に帰れるなあ……)
そう思った時だった――
「――はっ!」誰かが近くにいる気配がした。だが、見渡しても誰もいない。
金玄基は見えない気配に尋ねた。
「……カゲマルさん?」
※
翌日、金玄基はこの件を台与に告げた。
◇◇◇
砂の邑は、夕闇に染まった灰色の海のようだった。
焼け残る屋根、曲がった旗竿、焦げた香りが風に混じる。
その中を、砂の彦尊は歩いていた。
かつては民が道を開けて敬礼したはずの路だが、今は誰も頭を下げない。
行き場を失った視線だけが、彼の周りをぐるりと囲んでいる。
「我が理は、汝らを守らんとしたのだ!」
彦尊の声は虚空に向かって響く。
だが返ってくるのは、囁きと罵声だ。
「守られた覚えがない!」
「飢えと火で家を失った。何が理だ!」
「理の名で子を奪われた。もう聞き飽きた!」
兵たちの列も揺らいだ。
何人かが俯き、何人かが唇を噛む。
理を説く幟は、かつての力を失い、影のように旗竿に垂れている。
彦尊は立ち止まり、民の顔を一つずつ見た。
そこには怒りだけでなく、深い失望が宿っていた。
自分のために生きてくれたはずの者たちが、今や自分を突き放す——
その事実が、彼の胸を深く穿った。
「理は正しき秩序だ!」
彼は最後の力を振り絞り叫んだ。
しかし声は折れ、言葉は風に攫われる。
誰も応答しない。
やがて、遠くで子どもの哭き声が聞こえ、それが一斉に小さな呟きへと変わっていった。
「追い出せ!」「去れ!」「もう要らぬ」——
その声は瞬く間に波となって押し寄せ、彦尊を取り巻いた。
彼は震える手で冠を押さえたが、冠は既に象徴に過ぎなかった。
彦尊はゆっくりと首を振ると、足を引きずるようにして邑の外へ出て行った。
誰ひとり見送る者はおらず、振り返ることもなく、彼は暗い道を去った。
残されたのは、灰と、そして立ち上がろうとする民のざわめきだった。
◇◇◇
「……という次第だそうにござりまする」
伊勢に向かう船を待つ間、台与は浜辺に置いた石に座り、黙って聞いていた。
「……砂の彦尊は、そのまま行方をくらました……と」
「はい」
台与はゆっくりと立ち上がる。
やがて、小さく息を吐き、呟いた。
「私はこの剣を伊勢に届けなければなりません。ですが……
理が人を見限るとき、何が残るのでしょうか……?」
台与は風に髪をなびかせた。出雲聖剣はその背で沈黙していた。
ルナはそこに歩み寄り、側から声を掛けた。
「理の灯は絶えました」
「ええ……。でも、風はまだ残っています」
台与は海を見た。
焦げ跡の浜に、わずかに緑の草が芽を出している。
ルナもその芽に気づき、微笑んだ。
「理が燃え尽きた跡に、和が息をするのですね」
台与は頷いた。
「和は、理の正しさではなく、共に在る勇気のこと。
……それを、私はここで学びました」
ルナはその言葉を聞きながら、海に沈む夕陽を指さした。
「ならば、まだ終わっていません。
理の国でも、情の国でもない――『和の国』が始まるのです」
二人の影が長く伸び、波が足元を洗った。
風が再び吹き、遠くの空には鳥が群れを成して飛んでいった。
※
戦の煙も遠くに消えた――
金玄基たち、帰還兵を乗せた船は何事もなく奴津に着いた。
金玄基はようやく自分の家に戻り、戸口を開けた。
家の中には、煮炊きの匂いと、火の灯りがあった。
「おかえりなさい」
アヤメがいつも通りの声で振り向いた。
髪をまとめ、土の器に湯を注いでいる。
スミレはその傍らで静かに眠っていた。
「……帰ってきたよ」
金玄基は靴を脱ぎながら、黙ってその手元を見ていた。
火の明かりがアヤメの横顔を照らす。
その姿に――炎の中、首を垂れた蘆名の面影がよぎる。
アヤメは、それには気づかぬまま、湯気を見つめて言った。
「ねえ……女は、旦那んために変わらんといかんやろか?」
金玄基は、はっとしたように顔を上げた。
「えっ、誰のために?!」
「……あなたのためたい……」
アヤメは苦笑した。
「あなたは戦に行く人……やけど、うちは戦も政も、よう知らんやろ?」
玄基はゆっくりと歩み寄り、アヤメの前で立ち止まった。
「いいえ。アヤメさんは、アヤメさんですよ」
アヤメは湯気の向こうで瞬きをした。
「……なに、それ?」
「器じゃない。誰の理も背負わなくていい。
貴女はそこにいてくれるだけで、もう十分なんだ」
アヤメはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
その笑いには、悲しみも安堵も、そして祈りのような静けさもあった。
「……また、悲しかもんば見たっちゃね……」
金玄基は黙って頷いた。
外では風が鳴り、遠くからは波が砕ける音がした。
その夜、金玄基はアヤメの肩にすがり、ひとしきり泣いた。
そうすると、理の火がようやく消えるような気がした。
お読みくださりありがとうございました。
「備の国救援」編は、半分は自分で読むために書きました。
書いてばかりいるとアホになりそうな気がしまして……いや、もう手遅れですが。
次回「第52話 」
(月曜20時ごろ更新予定です)




