第48話 備の国救援〜砂の妻〜
焼け跡にまだ熱が残る浜で、ひとつの命が理の外へ抱き上げられた。
理は線を引き、情はその線を越える。月は等しく照らすが、剣は選び取られる。
救いの手と裁きの剣――どちらも人が握るものだ。
「……というわけで、お連れいたしました。砂の国の王妃・蘆名様です」
そう言うと金玄基は、台与に深々と頭を下げた。
その背後には、布を噛まされたまま、縄で縛られた女がひとり。
砂の国の衣、焼け跡の匂い。
あまりにも生々しい現実が、そこにあった。
台与はしばらく言葉を失った。
「それで……近くに泊めてあった船に乗った、と……」
「はい」
「どこへ行こうとしたのですか?」
「とりあえず、火のない所へ……」
「……その方をぐるぐる巻きにして?」
「あまり暴れるものですから……」
金玄基の後ろでは、布を噛まされ縄で縛られた蘆名が唸っていた。
「……っ……! んんっ……!」
台与はゆっくりと立ち上がった。
「これではあまりにご不憫です。縄を解いて差し上げなさい」
兵士の一人が蘆名の縄を解くと、蘆名は両手をついて何度か咳をした。
金玄基がゆっくりと頭を上げると、
台与はすぐ近くにおり、立ったままこちらを見ていた。
金玄基は、少しはにかんでみせた。
◇◇◇
その晩は、焼けた匂いが、まだ風に混じっていた。
砂の国の浜は灰色に沈み、空も海も同じ鈍い色をしている。
潮風は重く、焚き尽くされた木々の残り香が、喉の奥を刺した。
金玄基は、浜辺に散らばる瓦礫を見つめていた。
焦げ跡のついた布を強く握った。
ほんの数刻前まで、人が暮らしていたであろう家々が、いまは足元に転がっている。
(……これが理の果てか)
この国の人々は口にしていた。「理を正すための戦」だと。
だが、目の前にあるのは、「生活」の死骸であった。
ふと見ると、波打ち際では、蘆名がひとり膝をついている。
煤で黒くなった袖、乱れた髪。
顔の半分に煤がつき、唇は乾いている。
やがて、かすかに首を傾げた。
「……火が、夫の館にも……」
争う者の叫び声が近づく。
金玄基はそっと近づき、手を伸ばした。
「ここも、もう危のうございます……」
「……まだ、あります。夫が戻るまで、ここを離れません」
その声には、静かな狂気と祈りが混ざっていた。
玄基は息を詰めたまま、彼女の腕を掴んだ。
「……失礼いたします!」
次の瞬間、彼は蘆名を抱き上げた。
そのまま焼け跡を離れ、船へと走る。
背後では、崩れた梁が音を立てて倒れ、火の粉が再び舞い上がった。
「理の火は、まだ消えない……」
玄基は、焦げた空を見上げながら呟いた。
潮風の向こうでは、松明の灯りがぽつりぽつりと浮かんでいた。
◇◇◇
金玄基は蘆名のいる方を振り返った。
水を差し出され、少し落ち着いた様子に胸を撫で下ろす。
蘆名が金玄基の視線に気づく。
だが、蘆名はじっとこちらを睨みつけた。
◇◇◇
蘆名は夢を見ていた。
それはまだ、砂の館が燃える前の夜のこと――
夫・砂の彦尊は、月の光を背にして言った。
「理こそ、この世を正す秩序だ。
神託を女が語る世は、やがて乱れる。
我が身をもって、理を示さねばならぬ」
その時の夫の眼差しは、恐ろしいほど澄んでいた。
蘆名は、ただその背にすがりながら問うた。
「……では、理のない愛は、罪なのでしょうか?」
夫は答えなかった。
ただ、夜風の中で「理」という言葉を何度も繰り返した。
その声が消えるたび、彼との距離が一寸ずつ遠のいていく気がした。
◇◇◇
蘆名は椀を静かに傍らに置くと、目を伏せた。
(……どうして、こんなことに……)
体中の力が抜けた。
両の手をつき、頭を垂れた。
◇◇◇
あの火の夜――
炎の赤が天を染め、理の旗が焼け落ちる。
蘆名は庭に散らばる器の破片を拾い集めていた。
それはかつて、夫が好んだ杯。
理を語る前の、ただの「人」だった頃の名残。
(理に従うと言いながら、誰も救われなかった……)
手にした杯の底に、灰がこびりついていた。
それをそっと指で拭うと、蘆名は微かに笑った。
だが、目からはひとつ、涙がこぼれ落ちる。
「この灰も……理の一部なのですね」
蘆名はその破片を手に、火の中を歩んだ。
「お方様!」遠くから声がした。金玄基だった。
彼の声が現実を呼び戻す。
蘆名は振り返る。灰の舞う風の中で、髪が揺れた。
理の名の下に燃えた世界で、まだ『人』が自分を呼んでいる。
(ならば、私も生きねばならぬのでしょうか……理の外で……)
一瞬の迷いが脳裏をよぎる。
だが、次の瞬間、目の前の影が腕を掴んだ。
息を呑む暇もなく、世界が揺れた。
理に従って焼かれた国の中で、ひとつだけ『理ではない手』が彼女を救い上げた。
◇◇◇
台与は静かに歩み寄った。
蘆名は肩で息をしながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……貴方が、ヤマトの……」
「台与と申します」
台与は深く頭を下げた。
「理を越えて命を救った者が、ここにいる。それだけで十分です」
その言葉に、水惟が横から口を開いた。
「理の上では、この方は敵です。保護すれば、戦の障りとなります」
「承知しています」台与は目を細めた。
水惟はわずかに眉をひそめた。
「理を欠けば、戦は泥になる」
「理が過ぎれば、人が死にます」
一瞬、天幕の中が静まり返った。
焚き火の音だけが、会話の余韻を照らしている。
金玄基は、そっとその火を見つめながら口を開いた。
「理は線を引きます。
その線を越えた先にいる人を、私は見たくなかった。
けれど……この方を抱えた時、私はようやく『理の外』に出られた気がしました」
台与は微笑んだ。
「……貴方はもう、理を生きる人ではありませんね」
金玄基は肩を落としながらも、ほっと息を吐いた。
「はい。生きて戻れるなら、理でなくても構いません」
蘆名はその会話を黙って聞いていた。
やがて、うつむき、呟いた。
「私は……夫を信じておりました。けれど、理は私を守りませんでした」
その声は、涙よりも静かだった。
台与はゆっくりと手を伸ばし、その肩に触れた。
「理は人を縛ります。けれど、人は理を越えて生きられる。
……貴女がここにいること、それ自体がその証です」
その言葉に蘆名は、かすかに息を呑んだ。
※
夜は深く、潮の音がかすかに聞こえていた。
台与は天幕を抜け出し、焚き火の名残を踏みながら、浜辺へと歩いた。
波の向こうには、まだ煙が細く立ち上っている。
その前で、ひとり、蘆名が座っていた。
「眠れませんか?」
台与の声に、蘆名は振り返った。
火に照らされたその顔は、どこか静かな悟りを湛えていた。
「理を信じる者は、夜に眠れぬものですね……」
「それは、罪のせいですか?」
「いえ、信じるものを失った者の癖です」
蘆名はかすかに笑った。
台与はその隣に腰を下ろした。
波が二人の足元を洗い、月光がその上を滑っていく。
「……信じたものに焼かれるとは、こういうことなのですね」
台与は黙って海を見つめた。
遠くの波間で、光が一筋揺れていた。
「理は、誰かが作った秩序です。
でも、その秩序の中に、貴方のような人が取り残される……」
蘆名は首を振った。
「理を掲げたのは男たちです。
女の言葉は『情』と呼ばれ、理の外へ追いやられました。
けれど……私には、その『情』しか残らなかった」
その言葉に、台与はそっと微笑んだ。
「ならば、情こそが真の理かもしれません」
蘆名が顔を上げる。
その目に、涙が一粒だけ浮かんでいた。
「理は私を裁き、情は私を赦しました。
貴女のような方に会わなければ、私はまだ燃えていたでしょう」
台与は月を見上げた。
その光は穏やかに二人を照らしている。
「……私も、理の中に生きてきました。
けれど、理に導かれた先で見たのは、人の痛みでした。
理が人を正すのではなく、人が理を選ばねばならないのです」
潮の音が静かに返した。
蘆名はその言葉を胸に刻むように目を閉じ、深く息を吐いた。
「戦は終わるでしょうか?」
「終わらせましょう。理ではなく、人の手で」
二人は同じ月を見上げた。
※
「台与様、こちらでしたか……」
背後から、ルナの声が届いた。
台与は静かに振り返った。
ルナも静かに笑って頷いた。
その次に蘆名を見やると、尋ねた。
「あなたは、なぜ彼を愛するのですか?」
ルナの問いに、蘆名はゆっくりと目を伏せた。
潮風が、燃え残った陣幕をかすかに揺らしている。
蘆名はしばらく口を閉ざしていたが、やがて小さく笑った。
それは嘲りでも誇りでもない、疲れ切った女の微笑みだった。
「愛しているのではありません。……見限れないだけです」
「見限れない?」台与が問い返す。
「ええ。あの方はいつも正しいと信じています。
私がそれを否定すれば、あの方は一人になってしまう。
だから、私も間違いを選ぶしかないのです」
言葉の端が震えていた。
だがその震えすら、彼女の中の『理』によって押し殺されているようだった。
「それが、妻の役目だと?」
蘆名は頷いた。
「男が理を掲げるなら、女はその理を疑ってはならぬ。
それが私の国の秩序でした。
……私は、それを壊す勇気を持てませんでした。
あの方は正しいと思っている。だから私も間違いを選べない」
その言葉に、ルナが一歩前に出た。
焚き火の赤が、彼女の髪を淡く照らす。
「理は、人を裁くためにあるのではありません。助けるためにあるのです」
静寂が落ちた。
潮の音が三人の間を流れていく。
蘆名はその声を聞きながら、ぽつりと呟いた。
「ならば……助けられぬ理に生きる私は、どうすればよいのですか……?」
台与は答えなかった。
ただ、膝の上で手を組み、静かに目を閉じた。
ルナは蘆名の肩に手を置いて、静かに言った。
「それでも、貴女は生きてここにいる。
理を壊したのではなく、越えてきたのです。
……貴女のその命が、もう理の証です」
蘆名はその言葉を胸に刻むように、目を閉じた。
※
その頃、備の国の邑に立て籠もる砂の彦尊は――
暗闇の中ひとり、対岸を包む炎を眺めていた。
(我の国が……理の国が……)
砂の国の兵たちが囁き合う。
「近ごろ、糧が届かぬそうな……」
「我らはこの地で飢え死にか? 理は海を渡らなんだか……」
「理で腹は満たせぬ。しょせん無理だったのじゃ……」
砂の彦尊にも、その声は届いた。
「理が……我が理が……何とかしなければ……」
※
その翌日、来ぬ国にて――
クニトラはゆるやかに立ち上がった。
その瞳には怒りも情もなく、ただ光だけがあった。
「理を欠いた争いは、病と同じ。放てば国を蝕む。
――ゆえに、我らが理をもって裁かねばならぬ!」
外では、遠雷が鳴った。
「ウネビ、ムラオサ殿と共に海路を征け」
「はっ!」ウネビヒコとムラオサが頭を垂れた。
「タギリは、我と共に参れ」
「はっ!」タギリヒコが胸を叩く。
「我も彦尊に従いまする……」アラツヒコが膝をついた。
クニトラはそれに黙って頷くと、一歩、広間の外へ出た。
「これは報復ではない――理を示す戦じゃ!」
風が衣をはためかせ、燭台の炎が揺れる。
月光がその背に差すと、影は長く伸び、壁に淡く映った。
それはまるで――
『理の化身』が、赦しの光を踏み越えて歩き出す姿のようであった。
お読みくださりありがとうございました。
プロット通りに書くのが辛かったので、少し寄り道しました。
次回「第49話 備の国救援〜砂の妻〜 Take 2」
う〜ん……つらい……
(木曜20時ごろ更新予定です)




