第47話 備の国救援〜潮の軍略〜
潮の流れを読む者がいた。それを「理」と呼ぶ者がいた。
神を信じぬ者たちは、今や理を信じて戦う。
——だが、理にもまた、流れがある。
台与は天幕の外に出た。
夜風が頬を撫で、遠くの海から潮の匂いが漂ってくる。
見上げれば、薄雲の合間に満ちかけた月があった。
その光は、戦支度に忙しげな陣の灯をひとつひとつ包み込み、
あたかも誰かの祈りのように、静かに大地を照らしていた。
台与は小さく呟くと、目を閉じて短く息を吐いた。
その祈りを、夜の潮風が運んでいった。
※
同じ頃、香取の宮では――
ウヅは突然呼び出され、大巫女の部屋へと向かっていた。
しずしずと社殿の縁を歩む。
部屋の角まで来ると、大巫女のかすかな声が聞こえた。
ウヅは立ち止まった。
見れば、大巫女が縁側に腰掛け、黙って空を見上げている。
膝の上には外した髪飾りがひとつ、無造作に置かれていた。
茶碗を片手で支え、時折、口に運んでは、ふうと息をついている。
足は少し崩れ、背は戸板にもたれかかっていた。
傍らの盆には、竹筒と、まだ乾いたままの湯呑みが一つ。
ウヅは静かに膝を折り、両手をついた。
「お呼びにより、まかり越しました」
大巫女はゆっくりと顔を向けた。
「おお、ウヅ。そなたもどうじゃ?」
そう言うと、盆の湯呑みに白湯を注ぎ、ウヅに手渡す。
「今宵は月が美しいゆえ、そなたと見とうなっての……」
そして、また夜空を見上げた。
ウヅは両手で湯呑みを抱えながら、その横顔をじっと見つめた。
大巫女はウヅを横目で見て尋ねた。
「なんじゃ?」
「いいえ……その、大巫女様が普段と違って……女の方のようで……」
ウヅがそう答えると、
大巫女は口を尖らせながらウヅを睨んだ。
「わらわは女じゃ。何じゃと思うておった? 憎らしい……」
ウヅは思わず顔を伏せた。
大巫女はくすっと笑い、また月を見上げた。
ウヅはその月を眺めながら尋ねた。
「大巫女様、先ほどは……どなたをお呼びになられたのですか?」
大巫女は何も答えなかった。
しばらく経ったのち、呟いた。
「戦神に仕える巫女とは如何なるものか?
東国の民に仕える者として、如何にあるべきなのか……?
そればかり考えておる……」
ウヅは大巫女をじっと見つめた。
大巫女は、さらに続けた。
「月のようにありたいものじゃ……。
姿は毎夜違えど、元の形を失わない。あの月のように……」
月は大巫女の目元を輝かせた。
※
翌日――
風はまだ冷たく、波は鏡のように静かだった。
水惟は船首に立ち、潮の流れを読む。
その視線は、海ではなく、海の「動かぬ部分」を見ていた。
「……流れが止まったように見えますね」
背後から、台与の声がした。
水惟は首を少しだけ傾けた。
「潮は止まりません。止まって見えるのは、私たちが動いているからです」
「理のようですね」
台与は呟いた。
「止まって見える理も、実は常に動いている……」
水惟はうなずく代わりに、掌を海面にかざした。
「潮も理も、上から見ればただの流れです。
どちらも、逆らえば沈みます。
ですが、乗れば運んでくれる——それだけのことです」
台与はその横顔を見つめた。
風に吹かれて、彼の髪がわずかに乱れる。
「あなたは、潮と理、どちらを信じますか?」
「……潮です。理には、命がありませんから」
短い沈黙のあと、台与は微笑んだ。
「では、私は命を信じましょう。潮に運ばれる命の方を」
水惟は振り向かず、静かに言った。
「そのお言葉が、戦を変えるかもしれませんよ」
帆が上がる音が響き、甲板がきしんだ。
潮が、動き出した。
――戦の理もまた、ここから流れ始めていた。
※
潮は西から押していた。
水惟の号令一下、船団は扇の形に広がり、帆を半ばだけ張った。
「風が変わる……帆を締めろ、まだ走るな!」
船首の兵が素早く縄を巻き取り、全艦がほぼ同時に舵を切った。
彼らの動きには、理のような正確さがあった。
「潮目はこの先で二つに割れます」
水惟は板図に指を走らせた。
「敵の補給船は南から入る。こちらの潮で押し返し、北へ流す」
「流された船は?」久米が問う。
「砂浜に打ち上がる。そこで焼けばいい」
その声音には感情の起伏がなかった。
それを聞いていた台与は、言葉を飲み込んだ。
彼女の瞳に映るのは、戦ではなく『流れ』そのもの。
「……人もまた、潮の一部なのかもしれませんね」
水惟は視線を前に戻した。
「理に従えば、勝ちは確実です」
やがて敵影が見えた。
砂の国の補給船団――数では倍。
だが、潮に逆らって進むその船は、まるで重い荷を引く馬のように鈍かった。
水惟の艦隊が先に潮に乗り、弧を描いて敵の背後に回る。
「――今は、理が勝つ」
呟いたその声が、甲板に響いた瞬間だった。
久米が小さく吐き捨てた。
「……だが、理に人はいるのか?」
水惟は答えなかった。
潮だけが、静かに戦を運んでいった。
※
戦線は、潮の引いた浜辺で膠着していた。
砂の国軍は陸に上がり、水惟の船団は沖で待機する。
風はほとんどなく、海も陸も、息を潜めたように静まり返っていた。
その沈黙を裂いたのは、突如として響いた太鼓の音だった。
遠く山の上に、突如現れた一団がある。
「……何だ?」水惟が眉をひそめる。
「登の彦尊だ!」久米が叫んだ。
白い軍旗を掲げ、砂の陣へと突き進んでいった。
「神に宣戦するとは、許せぬぞぉおおおおっ!!」
その叫びは、もはや祈りではなかった。
怒号と共に、登の兵たちは突撃を開始した。
砂軍の槍が向きを変える。混乱が波のように広がる。
水惟は舳先に立ち、目を細めた。
「……理は潮に勝てぬが、神もまた理を知らぬか」
その言葉に、台与は目を伏せた。
「神も人も、怒りに溺れれば、潮と変わらない……」
丘の上では登の彦尊が天を仰ぎ、再び叫ぶ。
「我は天の代弁者なり! 神罰ここに下る!」
その瞬間、空に光が走り、突風が陣を吹き抜けた。
砂塵が舞い上がり、視界が真っ白に染まる。
人の理も神の怒りも、同じ風の中に呑まれていった。
※
数日後、来ぬ国では――
大殿の広間に、湿った風が吹き込んでいた。
海の方角から届くその風は、戦の匂いを含んでいる。
クニトラはその上座に、静かに腰を下ろした。
「ムラオサ殿、久しいの。ヤマトの様子は、いかがじゃ?」
ムラオサは両手を着いたまま、深々と頭を下げた。
「はっ。ヤマトが、砂の国に上陸いたしましてございまする。
そこに、登の彦尊も暴走……三つ巴の争いにて。
……もはや、理の争いではございませぬ」
クニトラは目を閉じた。
「理を唱える者が理を失い、神を掲げる者が神を汚す……か……」
アラツヒコが声を低くした。
「……これでは、両国を和睦させた我らの面目が立ちもはん……」
クニトラは頷く。
「理を欠いた争いは、秩序を乱す病に等しい。
正さねば、他の国にも伝染する……」
そう言うと、ゆっくり立ち上がった。
「ウネビヒコ、兵を整えよ。この戦、我らが『調停』する」
「はっ!」
広間の外で、雷鳴が一つ轟いた。
それはまるで天がこの決断を試しているかのようだった。
クニトラはその音を聞きながら、呟いた。
「理を欠く者どもを裁くのは、理にあらず。
――我が剣じゃ」
風が吹き込み、燭台の炎が揺れた。
光と影の間に立つクニトラの姿は、まさに「中庸の王」のそれであった。
※
それから数日間――
金玄基は、同じことしか叫んでいない。
「――お方様!
「隠れて!」
「火が出ました! こちらへ!」
「逃げて下さい!」
そして、蘆名と共に屋敷の中を走り回っていた。
その日は、口ごもりながら、呟いた。
(この国の者は……王妃ともあろう人を守ろうともせぬ……)
屋敷の男たちは出払い、下働きの女たちがわずかに残っていた。
だが、ついに――
「お方様! 油桶に火が……もうダメです! お逃げ下さい!」
金玄基は叫んだ。
だが、蘆名は居間に膝を折ると、こちらを見据えた。
「いいえ。ここで、夫の帰りを待ちます」
金玄基は絶句した。
気を取り直し、大声を張り上げる。
「でも! 屋敷が燃えています! お方様も……げほ、げほっ!」
「それでも、待っておらねば……けふ、けふっ……」
金玄基はしばらく蘆名を見つめた。
だが、意を決して飛びかかった。
「……ならば、失礼いたしますっ!」
「あっ! 何を……!」
――ガラガラッ、ドッシャン!
屋敷の中のなにかが崩れ落ちる音が響いた。
金玄基は、暴れる蘆名を抱えながら走った。
※
その夜――
台与は備の国の陣営に戻ってきていた。
そこでは、風の音だけが流れていた。
浜辺は静かだが、海の向こうではいまだ火が灯っている。
台与は、焚き火を見つめるルナと、その前で腕を組む久米とを見つめていた。
「……報せによれば、クニトラが兵を起こしたそうですね」
久米が頷く。
「はい。『理』を保つため、と」
ルナは小さく笑った。
「理の秩序とは、面白いものですね。
人が理を使うために作ったはずの言葉が、今では理に人が使われている」
その言葉に、台与はゆっくりと顔を上げた。
炎がその瞳を赤く照らした。
「理が理を守るために戦を呼ぶ……」
ルナが静かに口を開いた。
「理の理屈が理そのものを壊す……のですね」
台与は目を伏せたまま、小さく頷いた。
「正しさを争う者たちは、やがて『正しさ』を疑うことさえ忘れる。
それが……戦の本当の恐ろしさです」
遠くで、波がひとつ砕けた。
音はゆるやかに消えていき、再び夜の静寂が戻る。
「水惟が言っておりました。明日あたり、潮が変わる……と」久米が呟いた。
「……ええ」台与は立ち上がった。
「潮が変わるなら、人の理もまた、変わらねばならないのです」
風が吹き、火の粉が夜空に散った。
その赤は、まるで理の崩れゆく輝きのようだった。
お読みくださりありがとうございました。
理屈を言って戦を始めると、やがて理屈によって戦に駆り立てられる……
戦争に参加したことはないですが、似たような経験は何度かありました。
私も何かを間違えていたのかも知れません。
次回「第48話 備の国救援〜砂の妻〜」
砂の国を、もう少し掘ってみたいと思います。
(月曜20時ごろ更新予定です)




