第45話 備の国救援〜砂上の王〜
理屈の上に築かれた国は、しばしば神を否定しながら、
その実、誰よりも『声』を欲する。
神の声、男の声、理の声——
けれど、そのどれでもない「人の声」が、いま試されようとしていた。
神つ国の大殿前では――
出陣を前にした大勢の兵士が立ち並び、口々に声を上げていた。
「台与様、神託を!」
「我らに勇気をお与えくだされ!」
台与は黙したまま、その声を聞いていた。
神も風も応えず、ただ空だけが澄み渡っていた。
雨上がりのような空気の中、
台与はゆっくりと息を吸い込んだ。
その背には、祭壇より下ろした出雲聖剣――「神つ剣」があった。
だが台与は、それを祈りの象徴ではなく、責の証として背負う。
神の声を待たぬと決めた者にとって、それは「神を斬る剣」でもあった。
難升米が尋ねた。
「台与様、祝詞を上げてくださらぬのですか?」
それでも台与は、じっと立ち尽くした。
そして、兵士たちを見つめた。
隣にいたルナが静かに尋ねた。
「あなたは神を否定しているのではなく、人を信じようとしているのですね」
台与は振り向くと、静かに頷いた。
その瞳の奥に映るのは、まだ誰も見たことのない未来だった。
※
その頃、金玄基は――
奴津に戻ってきていたナカツヒコから話を聞いていた。
「いやあ、玄基さん。また儲かっちゃったよ……」
だが、ナカツヒコはなかなか本題に入らない。
(誰かが来るのを待っているのだろうか?)
金玄基は思った。
その時――
ナカツヒコの背後に、薄い影が見えたような気がした。
金玄基が目を凝らすと、ナカツヒコは呟いた。
「うん……うん……分かった。引き続き、頼む」
言い終わると、その気配は消えた。
金玄基は目を丸くして周囲を見渡し、そして尋ねた。
「ナカツヒコさん、今のは……?」
「カゲマルだよ。我の配下で……まあ、何人もいるんだけどね」
ナカツヒコがこちらをじっと見つめた。
「此度は、ちと危ない役目なんだが……やってもらえるかな?」
「危ない……?」
「砂の国に潜伏してもらう。
詳しいことは船の中で水惟から聞いてくれ」
金玄基は黙って頷いた。そして、どうでもいいことを尋ねた。
「ナカツヒコさんは、また洛陽に戻られるのですか」
「いや、次は建業だね」
「呉にも出入りしてるのですか?!」金玄基には初耳だった。
「儲けのあるところには、どこにでも行くのさ」
ナカツヒコは、にやりと笑った。
※
水惟は船底にどっかと座ると、金玄基に隣を勧めた。
「聞くところによると……」
◇◇◇
砂の国でのこと――
砂の彦尊は、群衆を前にして高らかに叫んだ。
「男が国を治め、女は神の声を借りてはならぬ!」
――うおおおおお!
群衆の男たちは拳を上げて吠えた。
一方、女たちは皆、黙っていた。
砂の彦尊は高々と拳を突き上げた。
「我はこれより、大巫女に媚びへつらい財を貪る、備の彦尊を討つ!
これは先王からの、我の国の悲願である!」
砂の国の兵士たちは手にした武器で盾を鳴らし、
群衆の半分は拍手喝采で砂の彦尊を見送った。
◇◇◇
「……ということで始まった戦のようです」
水惟はそう言うと、両手を広げた。
「普段からそう言ってる人物なので、内々では警戒していたのですが」
金玄基は俯きながら、その話を聞いた。
(アヤメさんやスミレがその国で生まれていたら……)
そう思うと鳥肌が立った。
「そういう思想って、どこから来るのでしょうね?」
水惟は、金玄基を横目で見ながら呟いた。
「神も潮も、上から見ればただの流れです。
……要は『自分の声だけ』をこの世に響かせたいのです」
水惟はゆっくりと立ち上がると、遠くを眺めた。
そして、細めた目で金玄基の顔を覗き込んだ。
「目的の島が見えてきました。
……ここからは、あなたの戦場です」
金玄基は頷いてみせた。
(俺の戦場か……台与様の方は、どうなっているのだろうか?)
※
その頃には――
都市牛利を総大将とする台与らの一軍は、備の彦尊の陣に到着した。
ルナが馬に引かせた荷車から下りながら呟く。
「車に乗ってるのも疲れますね。あちこち打ちました……」
そう言うと、腰を擦った。
台与は胸を撫で下ろすと、前方を見つめた。
そこでは、備の彦尊が叫んでいた。
「――砂の!
王が代わったとか、嘘をついておるそうじゃが……
十歳の子供が、そんなことするか!
さっさと出ていかんと、攻め滅ぼすぞ!」
遠く邑の内から、砂の彦尊と思しき高唱が風に乗って届く。
その声は大きく、しかも狡猾に甘い。
「はっはっは! 女にへつらう奴の末期よ! 汝たちの言葉など耳に入らぬわ!」
櫓の上から、そう笑うと高らかに声を張った。
「女に媚びる備の王など、国を滅ぼすだけじゃ!
我は秩序を取り戻す——男の理を以て!」
その言葉に、砂の兵たちが鼓舞の声を上げる。
だが、備の彦尊は激昂し、剣を抜いた。
「理? 秩序? 汝の言うそれは、ただの愚策だ!
先王の遺志を汚す者を討つ──などと申すが、
その『遺志』を、我らがどれほど守ってきたか知っておるのか!」
備の彦尊の声もまた深く響いた。
群衆の間から、二つの声がぶつかり合う。
砂の彦尊は短く鼻を鳴らし、嘲るように言った。
「守る? 守るというのなら、実行せよ。
女たちに寄り添う王を追放するのは、民の覚醒だ!
女が語る神は飾り物に過ぎぬ。真の決断は男が下すのだ!」
備の彦尊は一歩前に出る。その顔には疲労と怒りが混ざっていた。
「汝は言葉で民を煽る。だが、民の腹を満たすのは言葉ではない。
汝が掲げる『理』は、声の大きさでしかない。
耳を塞いでおる者に、誰の声が届くと申すのだ?!」
砂の彦尊の顔が一瞬強ばる。だが、すぐに嘲笑を含んだ答えが返る。
「耳を塞ぐとは誰のことだ。汝の弁解か?
民は己の尊厳を取り戻すだけだ。女が神の名で政を弄するのを許すな!」
群衆のざわめきが大きくなる。
その時、台与が馬上から静かに声を発した。
「誰か、私の言葉をあの者に伝えなさい」
そう言うと、砂の彦尊をじっと見つめた。
「それは詭弁です。『理』を口にする者の多くは、
自らの欲を覆い隠すために理を振りかざすに過ぎません。
民のためという言葉で、人を縛ることを正義とは言えませぬ」
台与の瞳は真っ直ぐに砂の彦尊を射抜いた。
「我は神託を求められれば与えましょう。
だが、今日の貴方の振る舞いは、神の名を借りた政治的挑発です。
ヤマトは、備の国王の正当な交代を認めません。
――速やかに去りなさい!」
砂の彦尊は高らかに笑った。
「女の言葉などに、男の国が従うものか!」
台与は目を細めた。
「ここに申し上げる! ただ今のお言葉をもって
——ヤマトへの『宣戦布告』とみなす!」
台与の言葉が放たれると、周囲が一斉に静まった。
砂の彦尊の顔色が変わる。備の彦尊の胸が大きく上がる。
馬上の台与は一度だけ深く息を吐き、背後の将たちに向けて短く頷いた。
(ここからが、我らの理を問われる試練だ)
ルナの目が細く光る。
戦の鐘は、もう遠くに鳴り始めていた。
遠方、砂の彦尊の陣に動揺の兆しが見える。
台与は馬上で一度だけ深く息を吐くと、足元にいた備の彦尊を見つめた。
「ヤマトにご協力くださった方の窮地、見逃すことはできません。
今後のことをお話しましょう」
その言葉に、周りの兵たちは固い決意を込めて応えた。
――戦は始まった。
だが、それは神の裁きではない。
人の理が試される戦である。
※
数日後、砂の国で――
金玄基は叫んだ。
「えー……あぶら〜……油はいらんかね〜?」
カゲマルが用意した桶を担ぎ、魚油を売り歩く。
時々、声が掛かる。
不思議なことに、男は誰も声を掛けてこない。皆、女だった。
「くださいな……何と交換ですか?」
「米、麦、芋……あるもので、良いですよ」
「へぇ、それは良心的ね! ええっと……」
実のところ交換するものは何でも良かった。欲しいのは敵の情報だ。
「毎度! えー……あぶら〜……」
再び歩き出そうとした、その時――
「――ちょっと、油屋さん!」
門の内から呼びかける声があった。
そこには、女が一人、立っていた。
「あるだけくださいな。どうぞ、こちらへ……」
女の招きに従って門をくぐる。
金玄基は思った。
(ずいぶんと大きいな……大人の屋敷か?)
その女は、屋敷の奥から盆を持って再び現れた。
「よそから来た方でしょう? この邑の空気は、少し重いでしょうに」
「いえ、そんなことは……」
金玄基はわざとらしく手ぬぐいを取り出すと首筋を拭った。
女は縁側に座るよう勧めた。
「まあ、白湯でもどうぞ……」
女は黒髪を後ろでまとめ、袖口から白い手をのぞかせていた。
目は笑っていたが、どこか人を測るような光を帯びていた。
お読みくださりありがとうございました。
砂の彦尊って……こいつ、何なんでしょうね?
実はこのキャラ、AIにプロットしてもらいました。
AIでさんざん遊んだ後に
「私には作れなそうな敵役の登場人物を作ってください」
と頼んだ結果、生まれたのが、彼(を含む「◯の彦尊」全員)です。
次回「第46話 備の国救援〜砂の民、沈黙す〜」
彼の言う「理」――その意味を、次回で少し掘ってみたいと思います。
(月曜20時ごろ更新予定です)




