第4話 台与 vs 司馬懿〜襄平の戦い〜【序盤戦】
襄平に到着した台与たち。
司馬懿の本営で、まさかの囲碁勝負が始まる――。
その時、難升米は? 都市牛利は? ナカツヒコは? そして、使えない通訳・金玄基は……?
倭人の一行が魏軍本陣に到着した翌日ーー
「囲碁……ですか?」
台与は、司馬懿からの唐突な提案に少し驚いた。
急に呼び出され、通訳の金玄基を伴って司馬懿の本営幕舎を訪れた時のことだった。
「うむ……ご存じかな?」
司馬懿は笑みを浮かべながら、卓上の碁笥に手を置いた。
その後ろにいる司馬昭は不思議そうな顔をしていた。
司馬懿はおもむろに碁盤を置いた机に座り、向かいの席に座るよう促した。
席に着くと、司馬懿が尋ねた。
「……そなた、戦を見たことはあるかな?」
台与はふるふると首を横に振った。本当だった。
だが、こちらを見つめる司馬懿から目を離せなかった。
「だが、知っている目だな。戦というものを。その匂いを」
司馬懿はそう言うと、ぱちり、ぱちりと碁盤に白黒の石を置き始めた。
──では教えてやろう。
『兵は詭道なり』……そなたの国にも通じる教えであろう。
これは『布陣』
これは『陽動』
──これは『捨て駒』
「お分かりかな?」
司馬懿は一通り説明し終わると、再びこちらに目を向けた。
台与は黙って目を逸らし、盤面の『布陣』の白石に黒石を付けた。
「ほう……これは、見事な……」司馬懿は低い声で唸った。
「父上……お戯れを……」司馬昭は苦笑していた。
「打てそうですな、台与殿……ただの遊戯には見えませぬ」
司馬懿は穏やかな表情でそう言ったが、一瞬その目は鋭く光った。
「ーー拙い手ですが、お相手いたします。」
台与は膝に両手を置き、深々と頭を下げた。
※
「ーー太尉殿!」
碁石をかき集めていると、幕舎の外から大きな声が聞こえてきた。
「何者か?!」
「ええい、どけい!」
「待て!勝手にーーうっ!」
「………………!」
「ーーぐわぁ!」
入口の戸が勢いよく開き、難升米と都市牛利が飛び込んできた。
二人はその場に跪き、両手を付くと、ぜえぜえと息を吐いた。
難升米は片手に篠笛を、都市牛利は小太鼓を抱えている。
「ーーいかがなされた、大夫殿?」
司馬懿は腰を浮かせ、難升米の方を向いた。
「いえ、それが……斎女をお召しと承りまして、楽の一つも無くては、と思い………」
難升米は息を切らしながら言った。
「大丈夫、囲碁のお相手を仕るだけです」
台与は難升米たちを見つめ、軽く微笑んでみせた。
※
同じ頃ーー
ざくっ、ざくっ、ざくっ……
土を掘る音が、じっとりと湿った空気の中に響いていた。
地表近くの土は乾いているが、少し掘り進めると、ひんやりとした湿土が顔を出す。
生ぬるい風が頬を撫で、どこかで甘ったるい匂いが漂った。
穴の縁に置かれた亡骸は、すでに鎧や武具を外され、麻布で覆われていた。
傷口は黒ずみ、布の下からは虫が這い出して土へ落ちていく。
ナカツヒコは視線を逸らさず、その亡骸を抱え上げ、穴の中へそっと横たえた。
「おい、そこの農夫!」
突然、背後から鋭い声が飛んできた。
魏軍の将が、数人の兵を従えてこちらに歩いてくる。
その手には、錆に覆われた胸甲がぶら下がっていた。
「錆びた鎧は良品と混ぜるな。使い道はないのだが、後で片付けさせる」
「へい」
ナカツヒコは何気ない顔でそれを受け取り、布袋の底へ沈めた。
周りの兵も、村から借り出された者たちも、口を開かない。
汗が土に落ち、小さな黒い染みを作った。
誰かが柄の長い鍬で土を寄せ始めると、他の者もそれに倣う。
やがて、亡骸の輪郭は土に覆われ、小さな盛り土の膨らみだけが残った。
ナカツヒコは黙ってその前に立ち、額にかかった汗を拭った。
空には真白な雲が流れ、陽は無情にもじりじりと地面を焼いていた。
※
いよいよ、始まるーー
金玄基は固唾を飲んだ。
台与と司馬懿が、全ての石を取り去った碁盤を挟んで向かい合った。
金玄基はその傍に、司馬昭と二人並んで控えていた。
司馬懿が先番を譲り、台与先手で対局が始まった。
ーーぱちり。
台与が黒石を置く音が響いた。
ーー 初手、天元?! ーー
(台与様、それは無理です!……門外漢ですが!)
金玄基は思わず叫びたくなったが、必死に堪えた。
隣の司馬昭は、うっすらと口を開けたまま、盤面を見つめていた。
司馬懿も目を丸くして黒石を凝視していたが、やがて
「はは……ははは……」
その口から、乾いた笑いを漏らした。
「台与殿……打ち直しても結構ですぞ」
少し引き攣った笑みを浮かべながら、司馬懿は言った。
「いいえ。このまま」
台与は、きっぱりと言った。
その目には決意が滲んでいるように見えた。少なくとも金玄基にはそう映った。
しばし、幕舎の中にいた誰もがひと言も口にしなかった。
※
碁石の触れ合う軽い音が響いた。
司馬懿は白石を手に取り、碁盤の上に手を伸ばしかけたが
「いや、待て……」
思い直し、膝の上に手を戻した。
(これは……ただの布石か?)
もう一度、台与を見据えた。幼いその目は、真剣な眼差しで自分を見つめていた。
再び、盤面に目を落とす。
中心以外には何もない碁盤、唯一中心に置かれた黒石を凝視していると……最近まで見ていたあの光景が……遠目にしか見たことがない、しかし忘れられない男の姿が思い浮かんだ。
ーー 五丈原 ーー
そこで見た夕日……
西日に照らされた高台にそそり立つ将帥旗……
おそらくその元にいたであろうあの男の、あの顔が、あの声が……
司馬懿は目を瞑り、腕組みをして、天を仰いだ。
「ーー申し上げます!」
「報告せよ!」
「ーー敵、動きありません!」
「ご苦労!」
「ーーはっ!」
(昭と伝令のやり取りが聞こえる……そうか、確認……)
司馬懿は、もう一度、台与の目を見た。
先ほどと変わらない、真剣な目。
今度は目尻を下げて見せる……しかし、その表情は変わらなかった。
(策ではない……そうか、この子は問うておるのか……何を?)
天元……この世の中心にあるものは何か?……か。
(では、帝王の道で応じようーー童よ!)
司馬懿は白石を手に取ると、今度は勢いよく叩きつけた。
※
夕陽が沈むーー
難升米と都市牛利は、帳幕の外で足を抱えて、遠くを眺めていた。
二人の視線の先には襄平城が、もうもうと炊煙を上げていた。
「腹減ったばい……」
「………………」
「斎女……遅かのう……」
都市牛利は遠くをじっと見据え、手元の小太鼓をぽん、ぽん、と叩いた。
難升米は傍の白詰草を引き抜いて、しばらく眺めた後、ぽいっと捨てた。
それを見て、都市牛利も太鼓を叩くのをやめた。
その視線は相変わらず城壁の方角に注がれたままだった。
※
別の場所ではーー
魏軍が去った後のまだ真新しい塚の前に、地元の村人が整列していた。
ナカツヒコもその中にいた。
ナカツヒコは掌を胸の前から天へと押し上げるように掲げ、大きく息を深く吸い込んだ。
「魂魄安昇、歸於天官……」
指先で空に円を描き、四方へ印を切る。
「東は青龍、南は朱雀、西は白虎、北は玄武――邪を祓い、魂を護れ。
風よ運べ、土よ抱け……行けや、故郷まで……」
最後に両手を地面に押し当て、低く囁く。
背後にならんだ村人たちは一斉に頭を垂れた。
夕靄の中、ナカツヒコは一度だけ深く息を吐いた。
振り返ると、駱駝に乗った旅商人の車列が近づいてくるのが見えた。
「おう、ナカツヒコ」
「バフラム親方……こいつだ」
バフラムは頭巾を押し上げ、袋の山を見やると口笛を一吹きした。
「鎧か……悪くない。溶かせば良い鉄になる」
袋の口をひとつ開け、中身を確かめると、腰から銀貨が入った袋を取り出した。
ナカツヒコは袋をずしりと受け取り、振って音を確かめた。
「確かに」
「じゃあ、またな」バフラムは口元を緩めた。
ナカツヒコはその袋からざらりと銀貨をひと掴み取り出し、村長の掌に押し込んだ。
「手間賃だ。みんなで飲め」
村長は一瞬、目を見開き、それからにっこりと笑みを浮かべた。
※
「……参りました」
対局は終わった。
台与が深々と頭を下げた。その表情は氷のように静かだった。
司馬懿も「うむ。」とひとつ頷いた。その表情には少し疲れが滲んでいるように見えた。
金玄基は、しばらく碁盤から目が離せなかった。
終局の盤面は、ほぼ白一色に染まっていた。
ただ、両者の気迫からは鬼気迫るものを感じた。
(凄い対局だった……)
金玄基は、余韻に浸った。
司馬懿が台与を労うように言った。
「台与殿も疲れたであろう。自舎に戻ってゆっくり休まれよ」
「はい……さようなれば、これにて失礼いたします」
台与は澄ました顔でそう言うと、立ち上がって再度一礼し、幕舎の出口に向かった。
金玄基も一礼して、すぐに台与の後を追った。
「父上……?」
「……昭、ちと肩を貸せ……」
背中の方から、司馬昭と司馬懿の話し声が聞こえた。
※
台与は、金玄基の数歩先をスタスタと歩いてゆく。
どんどん離されてゆく。
「台与様?」
声をかけても振り向かず、何も答えず、足早に歩いてゆく。だが、方角が違う。
「台与様、そちらではございません……」
台与に駆け寄り、肩に手をかけたところ、台与は振り向きざまにーー
ーーぱちーん!
金玄基の頬を平手で打った。
台与は真っ赤な顔をして、目に涙を溜めていた。
※
「全て『理』で返されました……」ひとしきり泣いて腫れた目で、台与は呟いた。
「司馬懿太尉に理で挑んでは……敵いません」ナカツヒコは台与を慰めていた。
難升米は安堵の表情を浮かべながら、その様子を黙って見ていた。
都市牛利は無表情のまま、黙って見ていた。
「台与様は卜で未来が見えるのでしょう?」
太尉の手を先読みしてしまえば宜しいのでは?ーーと金玄基が進言すると、四人揃って
ーーそんなのダメだよ!
と返されてしまった。
お読みくださりありがとうございました。
台与様と司馬懿が出会っていたら、何が起こるかと考えたら、こうなっちゃいました。
次回は、台与様 vs 司馬懿!リベンジなるか?!
(木曜20時ごろ更新予定です)




