第35話 異端通告
神つ国から三人の大巫女に異端決議が通告された。
駆け引きを展開する阿蘇、和平を模索した伊勢、香取は聞く耳すら持たない。
そして、ただひたすら祈る女が二人ーー
正始元年十二月某日――
伊都国・大殿には冬の冷たい雨が降りそそいでいた。
背後の神棚では、灯明がわずかに揺れていた。
上座には伊都国王・ナギサヒコが座し、神つ国の使者と向かい合っている。
使者は、この度は、明の国の彦尊を伴っていた。
「あの……阿蘇の大巫女様はどちらに……?」
台与は、ナギサヒコの隣から、その使者をじっと見つめた。
「大巫女様は参りませぬ。私が代理としてお話を伺うよう、仰せつかっております」
「さようでございますか……では、申し上げまする……」
その若い神官は震える声を抑えながら、言葉を読み上げた。
「阿蘇の大巫女、神意を曲げ……虚偽の託宣を為したること、明らかなり。
よって、我ら神つ国はこれを異端と……断ずる!」
殿内の空気が張り詰めた。
神官は、さらに続けた。
「大巫女は直ちに身を退き……神のご意向をお問い……問い直されよ」
しばしの沈黙ののち、ナギサヒコがゆっくりと立ち上がった。
その声音は、怒りよりも冷ややかであった。
「神つ国が、我らの神を裁くと申すか。……そちの首を刎ね、返答といたす」
居並ぶ従者たちが一斉に息をのんだ。
その神官は一瞬背を反らしたが、それでも声を振り絞った。
「……我は、ただ、神つ彦尊の御意を伝えるのみ……」
台与は腰を浮かせた。
――お待ちください!
その声は、明の彦尊の声と重なった。
台与は、手を差して呟いた。
「どうぞ……」
「では……」
明の彦尊は軽く一礼したのち、ナギサヒコを見上げた。
「この者が申すには、神つ国の中にも、不満を抱く者が多くおるそうにござる」
ナギサヒコは、鋭く目を細めた。
「ほう?」
「その者共いわく『ヤマトが神つ国をお討ちになるならば、これに応ずる』と……」
「……神つ国を……討つ?」
ナギサヒコは座に戻り、ゆっくりと座りなおした。
明の彦尊はさらに続けた。
「いかがでござろう? その際は、我がご案内いたす」
ナギサヒコは唇をかみ、再び神官を見据えた。
「……今の話、真か?」
神官は無言のままだった。
ただ、その瞳の奥に、冷たい炎が一瞬だけ揺れた。
台与は静かに二人を見つめていた。
彼女の声は、風のように穏やかだった。
「私は、信じてよいかと存じます。
神が沈黙を保つとき、人の声に耳を傾けるのも、また道……それに」
「……それに?」ナギサヒコが横目でちらりと見た。
「ご使者殿は、本心から仰っているようには見えませんでした」
「ふむ……」
ナギサヒコは息をつくと、神官に告げた。
「……ご使者殿、いずれ返答をいたす。それまで、ここに留まられよ」
神官は、ふと瞳の奥に、燃え尽きたような光を宿して言った。
「我はただ……神が、誰の側にも降りませぬようにと、祈っております」
殿内の誰もが息をのんだ。
明の彦尊だけが、薄く笑みを浮かべていた。
※
それから少し経った、正始二年二月・初旬――
伊勢の社にも、寒風が吹きすさんでいた。
榊の葉は凍り、鈴の音も凍えつく。
それでも伊勢の大巫女は、朝の祈祷を欠かさなかった。
「……ホヒも、ワカヒコも、なぜ帰らぬのじゃろうのう……」
独りごとのように呟いた声が、襖の内に沈む。
長い沈黙の後、傍らのクジャクが静かに言った。
「返事がないことこそ、吉兆……とも申しまするし、今しばらくお待ちになられては?」
「そうじゃのう……」
大巫女はゆっくりと手を合わせた。
その時、外から大きな足音が近づいてきた。
イセエビだった。
「大巫女様! 報せにございます!」
板壁が揺れ、白い息が入り込んだ。
「何事じゃ?」
「今朝、門前に……このようなものが……」
イセエビは、血に染まった矢と、
女のものと思しき髪の束を盆に乗せて差し出した。
その場が一瞬で静まり返った。
「……これは……ワカヒコに渡した『天之羽々矢』……」
伊勢の大巫女は息を詰め、震える手で矢を取った。
乾ききった血が朱塗のように、なお赤黒く光っていた。
イセエビは、目を伏せた。
「……髪は、ナナキメ殿が着ていた衣の生地に包まれてございました……おそらくは……」
クジャクが歯噛みした。
「おのれ、ワカヒコめ! 寝返りおったか……!」
伊勢の大巫女は膝の上で拳を握り締めた。
しかし、すぐに力を抜いて天を仰いだ。
「ナナキメ……すまぬ……」
社殿の外で、風が唸り声を上げた。
榊の葉が鳴り、灯明の火が細く揺れた。
伊勢の大巫女は、震える唇で呟いた。
「……神よ、なぜ沈黙なさるのじゃ……?」
※
その頃、東の香取では、神は沈黙していなかった。
いや、むしろ……喚いていた。
神つ国の使者は、香取にも至った。
その壮年の神官は、勝ち色の声で口上を述べた。
大巫女が怯んで屈すると見越している調子だった。
ウヅは、その様子を固唾をのんで見つめていた。
(私たちが異端……? そんな……!)
だが、香取の大巫女は不敵な笑みを浮かべた。
「ほほう……我が異端とな?」
そして、傍らにおいた二振りの剣を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
「ここに研ぎたての剣がある。それが神のお言葉ならば、我はこの剣の錆となろうぞ」
そう言うと、一振りの剣を使者に渡した。
「さあ、表に参られよ」
香取の大巫女は、剣を片手に社殿の庭へと降りていった。
従者たちは、使者を引きずり下ろしながら、口々に声を上げた。
「大巫女様がお相手なさることはございませぬ!」
「さよう! 某が仕る!」
だが、大巫女は鋭く言った。
「――助太刀、無用!」
大巫女は剣を抜き、構えた。
使者は震えながら渡された剣を抜き、おどおどと構えた。
二人は、しばらく黙ったまま睨み合った。
やがて――
「いざ!」
「やああああ……!」
使者が飛ぶ。風が鳴る。榊が一斉に揺れる――
――ザシュ!
大巫女の一閃は、使者の胴を切り裂いた。
大巫女は叫んだ。
「――義は我らにあり! これが神の真意じゃ!」
香取の従者たちが口々に歓声を上げた。
「大巫女様! 我らはどこまでもお伴仕りまする!」
「おう! 黄泉の国まで参りましょうぞ!」
ウヅは、いつの間にか、膝を立てて見入っていた。
(これが、香取の大巫女様……なんて、お美しい……)
一見すると残酷なこの光景に、ウヅは魅せられた。
東の空が燃えたその頃、北の山では、冷たい風が吹いていた。
※
神つ国の神殿では、まだ冷たい風が吹いていた。
厚い黒雲が垂れ込め、灯明の火が青く揺らいでいた。
神つ彦尊はその上座に座り、そこに集まっている者たちを眺めていた。
傍らには長子コトシロを座らせ、従者たちは左右に別れて居並んだ。
右列には次子タケル――その若さに似合わぬ胆力で知られ、神つ国きっての豪の者と讃えられる。
左列には三男のミノル、入婿のワカヒコとホヒ。
いずれも無言で神つ彦尊を見つめていた。
神つ彦尊は低く問うた。
「……各地の王たちは?」
従者が恐る恐る答えた。
「今のところ、我らに応ずると返しましたのは……
越の国の一部の者と、羽の国のみにございまする」
「……神を恐れぬ無信心者どもめ。天の裁きが下る時が来た」
神つ彦尊はゆっくりと立ち上がり、天を仰いだ。
「天つ神は沈黙せり。ならば我がその声となろう。
――挙兵じゃ! 神を護るために!」
「おう!」
神つ彦尊は次々と命を下した。
「コトシロ、我が傍にあって稲佐の浜を守れ」
「はっ」
「他の者は、ヤマトを迎え討て!」
「ははっ!」
「タケル……そなたを総大将とする……」
その名が呼ばれた瞬間、場の空気が一変した。
灯明がふっと揺れ、影が幾つも交錯した。
ワカヒコが、わずかに口の端を吊り上げる。
「……我らが導くは『神の軍』にございますな。ふふ……」
神つ彦尊はゆっくりと裏の祭壇に歩み寄り、黒布に包まれた剣を取り出した。
「この剣……天の神すらも恐れたる刃……」
それは神代の昔より封じられていたという、出雲聖剣。
「これを、そなたに預ける! 神を、守れ……」
タケルは両の手を掲げて受け取ると、深々と頭を垂れた。
「このタケル、神とこの剣に誓い……命尽きるまで戦いまする」
神つ彦尊は静かに頷いた。
「よい。天も地も見ておる」
灯明が一斉に揺れた。
それはまるで、神々が息を呑んだようだった。
※
同じ頃――
阿蘇の社にも、冷たい風が流れていた。
社殿の奥、祈祷の間では、台与が一人、灯明の前に座していた。
目を閉じ、掌を合わせ、言葉にならぬ祈りを胸の奥で繰り返していた。
(……あの時の神託は……本当に神の言葉だったのかしら……)
榊の葉が揺れ、火の粉がひとつ跳ねた。
その小さな音に、台与ははっと目を開いた。
焚き火の炎が揺らめく。
その時、背後から声がした。
「イヨ……何をしておる?」
阿蘇の大巫女だった。
手にした桶の水を、ぱしゃりと火に浴びせた。
炎は音を立てて消え、白い煙が立ちのぼった。
「あっ!……大巫女様……」
台与は、手を合わせたまま大巫女を見上げた。
大巫女は、煙の向こうからゆっくりと台与を見つめた。
「もう、始まったのじゃ……後はナギサヒコに任せておけばよい」
台与はすっくと立ち上がった。
「ならば、私も参りとう存じます」
そして一歩、前に出た。
「これは神をめぐる戦い……ならば、神が勝敗を決しましょう」
阿蘇の大巫女は目を丸め、しばらく黙っていた。
だが、やがて笑った。
「イヨが参ると申すなら、これほど心強いことはない」
その笑みは、老いと覚悟を滲ませていた。
煙が静かに立ちのぼり、二人の間を隔てた。
※
別の場所では――
アヤメは膝に布を広げ、白い糸を通した針をゆっくりと動かしていた。
その隣で、金玄基が鎧の紐を締め直している。
火鉢の灰が、かすかに落ちる音を立てた。
「……これば縫い終わったら、また行ってしまうとね」
アヤメの声は静かだった。
針の先が一瞬止まり、糸が揺れた。
「うん……」金玄基は短く答えた。
言葉を選ぶように、しばし沈黙があった。
「そんな人だと知っとったら、うち一緒にならんかったとよ……」
アヤメはうつむき、指に当たった針の跡を見つめた。
血の気のない白い跡が、まるで古傷のようだった。
金玄基は、そんなアヤメをじっと見つめた。
「生まれてくる子には、『玄宗』と名付けてくれ」
「女の子だったら?」
(……しまった!……考えてなかった!)
金玄基は、思わず背を丸めた。
いつの間にか、アヤメがこちらをじっと見ていた。
「生きて帰ってくるのよ。今度は……ちゃんと」
(ちゃんと帰ってきたじゃないか、この間も……)
金玄基はそう思ったが、言葉は飲み込んだ。
そして顔を上げると、ほんの少し笑みを浮かべてみせた。
「帰るさ。アヤメさんが縫ったその衣を着て、ね」
アヤメは微笑み、針をもう一度動かした。
糸が光を受け、まるで春の川のようにきらめいた。
※
それから数日後――
その日、神つ国の神殿には冷たい風が吹いていた。
雲は低く垂れこめ、光はなく、影ばかりが濃かった。
壇上に立つ神つ彦尊の姿は、まるで岩のように動かなかった。
だが、その瞳は赤々と燃えていた。
「阿蘇の巫女は、神を欺いた! 何故か?!」
殿内が震えた。ざわめきは波のように広がる。
やがて、それが歓声に変わっていった。
中には静かに呟く者もあった。「婆やだからさ……」
彦尊は腕を広げ、声を張り上げた。
「神はヤマトに在らず! 神は我らと共に在る!」
その語り口にはもはや祈りではなく、命令の響きがあった。
「見よ、沈黙する天を! それは、我らに試練を与えているのだ!
すなわち、神を偽る者を討て、との天命である!」
群衆が一斉に叫ぶ。
「討て! 討て! 討て――!」
彦尊は再び天を仰いだ。
その顔には涙にも似た汗が光っていた。
「我らは選ばれし国、神の国!
この地こそ神つ国なり!
阿蘇の巫女は神を奪い、ヤマトは天を盗もうとしておる!」
人々は狂ったように叫び、拳を突き上げた。
太鼓が鳴り、角笛が応える。
「ゆえに、我らは立ち上がる!
神を奪われたままでは生きられぬ!
我らの信仰を、我らの神を、
再びこの手に取り戻すのだああああああ!」
殿内の熱は炎のように渦を巻いた。
外では風が唸り、社の屋根を叩きつけた。
その瞬間、群衆はひとつの声になった。
「神つ国に栄光あれ! 栄光あれ! 栄光あれ!」
彦尊は腕を下ろし、静かに目を閉じた。
唇の端に、かすかな笑みが浮かんでいた。
「……これでよい。天は、我らを見捨てぬ」
※
時、同じくして――
伊都国では、大勢の兵士がひしめいていた。
金玄基もその中にいる。
大殿の縁では、ナギサヒコ王が片手を振り上げ、何かを叫んでいた。
その度に兵士たちは武器を掲げ、声を合わせて吠えた。
しばらくして、大殿の奥から台与が現れた。
その姿が見えた瞬間、ざわめきが止み、兵たちの視線が一斉に彼女へと向かった。
台与は静かに、しかし、よく通る声で告げた。
「神を試す時が来ました。……参りましょう」
雲間から一筋の光が差した。
その光は、剣の刃のように大地を貫いた。
伊都国の兵たちが一斉に槍を立て、同じ方角を見つめた。
「進め!」の一声は、万の叫びよりも深く空を震わせた。
金玄基は馬を引き、台与の前に跪いた。
台与は白衣を翻し、その馬に跨った。
その頬を撫でた風は、阿蘇の方角から、確かに吹いてきていた。
お読みくださり、心より感謝申し上げます。
次章「第3章 倭国争乱」では、いよいよ人の世が動き出します。
神をめぐる争いが、国と人とを巻き込み、
信仰と欲、愛と裏切りが交錯してゆくでしょう。
10分後には予告編を公開いたします。
新たな章の気配を、どうぞ少しだけ覗いてみてください。
年内は準備期間をいただき、
第3章は新年1月5日(月)20時頃の開幕を予定しております。
本年も倭の物語にお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。




