第17話 邪馬台国へ
帯方郡を発った使節団は、ついに倭国の中枢へと足を踏み入れる。
荒ぶる山々、その霊威に包まれた社で、女王卑弥呼との対面が待ち受けていた。
しかし、そこに立つ彼女は、想像していた姿とは大きく異なっていて……。
年号改まって、正始元年ーー
金玄基は塞曹掾史・張政と二人、港の桟橋に佇んでいた。
洛陽を去り、この場所で難升米たちを見送ってから、はや幾月か。
今度は建中校尉・梯儁を正使とする使節団が倭国へ向けて出航する。
金玄基は、その使節にも通訳として同行することとなった。張政は居残りである。
船乗りは既に船に乗り込み、何事か慌ただしく働いている。その中には、水先案内人としてナカツヒコの姿があったが、彼は桟橋には降りて来なかった。
だが、金玄基は彼の姿があるだけで安心した。
港の風に髪をなびかせながら、張政は言った。
「……梯儁殿は、魏の使者としての重みを噛みしめておられるのだろうよ」
そして、静かに空を仰ぎ、少し声を張った。
「玄基……無事に帰ってこいよ。命を賭ける覚悟までは求めん。だが――生きて戻れ」
そう言うと、張政は背を向け、歩きながら最後にひと言。
「帰ったら、例の役務帳簿の件、続きが残ってるぞ。逃げられると思うなよ」
そう告げて、また元の仕事に戻って行った。
その頃ーー
梯儁は、尚書郎・裴世春と並び、新太守・弓遵から訓示を受けていた。
「……従って、此度の返使は単なる使者ではない」
弓遵は長々と話した後、こう締め括った。
「邪馬台国の実情を入念に調査せよ。
必要があればいつでも攻め込める体制を構築するためじゃ……よいな」
「はっ」梯儁は拱手礼を取り、軽く頭を下げた。
しかし、隣にいる裴世春は違った。
「太守様……コホン……承知仕りました、弓遵閣下」
一礼しながらも、その瞳の奥にはわずかな火を宿している。
「詔書と印綬が示すは恩威並び立つ道。恩が及ばぬとあらば――威をもって律する覚悟」
裴世春はそう言うと、ちらと弓遵の表情を伺いながら続けた。
「……そのためにも、奴らの『中枢』を正確に把握せねばなりますまい。
誰が実権を握り、誰が操られているのか……その目、濁らせぬようにいたします」
そして最後に、すっと姿勢を正した。
「――ご安心あれ。帰還の際には、魏にとって有益なる『実情』を携えて参りましょう」
梯儁は、裴世春が話す間、ずっと黙っていたが、内心穏やかではなかった。
裴世春の言葉が、魏の真意を代弁しているかのようで、梯儁の胸に重くのしかかった。
※
「ーー出立!」
梯儁は船に乗り込むと、武官らしい勇ましさで声を張り上げた。
船は出港した。左手に見える陸影を見ながら、荒波を蹴立てて進む。
春とは言え、海の風は冷たかった。
金玄基には揺れる船底がなぜか心地よい。
常に不安定な立場にいるせいだろうか。自分一人だけでなく、全員の足元が揺れている環境に、言葉にできない感動すら覚えた。
もっとも、周囲の者たちはすでに全員船酔いを起こしている。
梯儁も、初めは堂々としたものだったが、陸上の将である。船旅には慣れていないらしく、早くも口数が減っている。
「わ……倭国は……まだか……うえっ」
裴世春に至っては、だいぶ前から船べりにしがみついたままだ。
洛陽暮らしが長かったせいだろうか。
一方、ナカツヒコはさすがに慣れたもので、鼻歌を歌っていた。
「たたずむ〜釜山港に〜」
「ナカツヒコさん、その歌は……?」金玄基は尋ねたが
「ん……?」明快な返事はなかった。
「ナ、ナカツヒコ殿……そこに寄ろう……」
すかさず梯儁が食いつき、その言葉どおり狗邪韓国に寄港することとなった。
港に着くと、魏将たちは我先にと船を降りて行った。
金玄基は、下船の順番を待ちながら、遠く佇む街並みを眺めていた。
そこへ、ナカツヒコが寄って来た。
「こんなところで止まってたんじゃ、先が思いやられますよ」
ナカツヒコは目だけは笑っていたが、すぐにその目を逸らし、遠くを眺めた。
どうやら軽口を言いに来たのではなさそうだ。何か別のことを言いたそうな表情に見えた。
「ナカツヒコさん、どうしましたか?」
金玄基は尋ねたが、彼はなかなか切り出さなかった。
やがて重い口を開いた。
「……どうです? 懐かしいですか?」
「えっ?(懐かしい? ここが……?)」
金玄基には意外な質問だった。
「……いいえ、初めて来る場所です」
そう答えると、ナカツヒコは一瞬目を丸くした。
だが、すぐにまた遠くを眺めると無言で頷いていた。
「体が冷えたでしょ? 美味い鍋でも食べに行きましょ!」
この後、ナカツヒコは馴染みの店に案内してくれた。
※
台与は、祈祷を行う大巫女様の傍に控えていた。
御簾の向こう側では、幼子を抱き抱えた親子が大勢並んでいる。
男親と女親とが肩を並べ、息を潜めるように大巫女様の祈祷を見守っていた。
子どもはみな、三歳から六歳ほどの女の子である。
阿蘇の社では、本年の「巫女選び」の儀式が執り行われていた。
台与は、斎女として、この儀式に初めて立ち会っている。
「……カカカッ……オオオーー!」
大巫女様は叫ぶと、三枚の札を台与に手渡した。
台与はそれを恭しく受け取ると、御簾の脇をくぐって表に進み出た。
「本年、巫女に選ばれましたのは……」
札を読み上げた瞬間、控える親たちは一斉に腰を浮かせ、大きなどよめきが広がった。
「おめでとうございます!」
選ばれた親に向かって、その隣の母親が笑顔で声をかける。
「あ……ありがとうございます!」
選ばれた子の親は、笑い泣きをしながら応じていた。
(……私の時もこんなふうだったのかしら)
台与は、自分がこの社に来た日のことを覚えてはいない。
(……私の時も、あの人たちのように……。もしそうなら、嬉しい……)
やがて巫女たちが親に祝いの言葉を述べ、選ばれた子の手を引き、あるいは抱き受けて、次々に社殿の奥へと下がっていった。
多くの親は幼子を抱きかかえて社殿を後にする一方で、選ばれた子の親は、我が子が扉の向こうに消えるまで、その場に立ち尽くしていた。
中には、崩れ落ちそうになる母親を支える父親の姿もあった。
しばらくすると、その親たちからも笑顔は消え、ただ黙って社殿を後にして行った。
台与は、社殿の表に立ち、帰ってゆく親たちの背中を見送っていた。
(……あの人たちは笑っている。でも、胸の奥では泣いているのかもしれない)
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
その痛みと呼応するように、山の頂から突風が吹き下ろし、榊の葉や裾をはためかせた。
台与は思わず顔を背けた。
※
その山の頂には、四人の若者がいた。
その中央に立つ若者は、深い藍の外套をまとい、肩口には真紅の刺繍が走る。
腰には黒光りする大刀を佩き、胸元には青銅の飾り板が光っていた。
派手さの奥に静かな、海と山とを司るかのような威厳が漂っている。
風が吹くたびに衣が翻ると、あたかも山そのものが姿を現したかのようだ。
「彦尊、見るべきものとは、まさか……」
「今さら『巫女選びの儀』やっち、ちっとも珍しかごつなかやろ……」
二人の従者が声をかけても、その若者は黙したまま社を見つめていた。
すると、漆黒の仮面と鎧を身につけ、背後に控えていた護衛がおもむろに口を開いた。
「ウネビヒコ、タギリヒコ。主が見に来はったんは、そげんもんじゃなかど」
「……アラツヒコ殿」
「じゃっどん、ほかに何が見えるち言うとや……アニキ?」
彦尊と呼ばれた若者――来ぬ国の王・クニトラは、社よりもさらに遠方を指差した。
「ーーあれじゃ」
その先には、伊都国より陸路を南下して来た、梯儁の使節団の列があった。
「この国は、いまーー動き出す」
※
時折、硫黄の匂いを含んだ風が吹きつけ、金玄基の頬を打つ。
鼻腔を刺すその臭気は、山そのものが噴き上げる息吹のようだった。
阿蘇の山々は、燃えさかる炎のごとく連なり、黒々とした稜線を空へ突き立てていた。
大地は広く、岩肌は荒々しく裂け、まるで天地を押し分けるかのようにそびえ立つ。
その圧迫感に押し潰されそうになりながらも、金玄基は目を逸らすことができなかった。
この荒々しさこそが、一国を動かす力を宿しているように見えた。
「ここが……邪馬台国か!」
裴世春が、おもむろに大声を上げた。
かと思うと、詩のようなものを吟じ始めた。
「霧深山中社 (霧深き山中に社あり)
焚煙映白衣 (焚火の煙に白衣を映す)
少女臨火坐 (少女は火に臨みて坐し)
此地即邪馬 (此の地こそ、まさに邪馬なり)
……!」
言い終わると、目を細めて遠くを見やりながら顎を撫でる裴世春。
「だが……」
しばらくすると真顔に戻り、ひとりごちた。
「洛陽とは似ても似つかぬのう……」
金玄基は黙って聞いていたが、それには同感だった。
台与は確かに言っていた。洛陽はヤマトのようだ、と。
しかし、自然の力が充満したこの空間は、洛陽の整えられた景色とはあまりにも違う。
やがて、目指す社が間近に迫ってきた。
歩を進めるにつれ、周囲の空気は次第に張り詰めていく。
それは堀や柵、立ち並ぶ衛兵のせいではない。
ただそこに社があるだけなのに、見上げると胸の奥が妙にざわめく。
(……ここに、卑弥呼がいる……)
そう思うだけで、足が鉛のように重くなった。
※
使節団は、社の一室に通され、卑弥呼の出御を待った。
足を崩して板床の上に座っている。そこは冷たく、坐骨にじわじわと痛みが伝わってくる。
倭国式の正座までは求められなかったのは幸いだった。
金玄基が試みにやってみると、すぐに足が痺れ、横倒しになったからであった。
「……」
誰も声を発せず、ただ御簾の向こうを見つめていた。
外の風の音すら遠く、耳に届くのは自分の心臓の鼓動ばかり。
金玄基は思わず背筋がこわばった。
裴世春は唇を結び、視線を逸らさずに座っていた。
やがて、御簾がふわりと揺れた。
その向こうに、ようやく女性らしき人影が現れた。
「こちらが……倭国女王・卑弥呼にございます」
ナカツヒコは、手のひらで御簾の向こう側を指し、そう言った。
梯儁は胡座のまま拱手礼を取ると、卑弥呼に口上を述べた。
「勅を奉じて魏国より参りました、私は正使・梯儁と申しまする……」
梯儁の口上が終わると、儀礼に則り、卑弥呼に親魏倭王印が差し出された。
ナカツヒコはそれを受け取ると御簾の向こう側へ行き、卑弥呼の前に差し出した。
「おお……なんと。美しい……」
女王の声が漏れ聞こえた。
その声はしわがれていたが、不思議と耳から離れなかった。
そして、胸の奥をざわつかせる力があった。
ただ、想像以上に年配のようだ――だが、それでも抗いがたい威を帯びていた。
「これは……伊勢の大巫女にも見せてやらねばならぬ……」
金玄基は、女王のこの発言を梯儁と裴世春に通訳した。
すると、二人は一様に目を丸くした。
「……なんじゃと?」
「ーー何故じゃ?」
(女王が印綬を見せなければいけない相手……伊勢の大巫女って何者だろう?)
それは金玄基だけでなく、この場にいる誰もがそう思ったことだった……に違いない。
お読みくださりありがとうございました。
狗奴国って和語だとどう言ったんだろう?と考えたら、こうなっちゃいました。
次回「第18話 死の海峡」、関門海峡に敵が待ち受けます。
(月曜20時ごろ更新予定です)




