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第14話 逃げた鹿たち Take 2

洛陽の街に放たれた鹿たち。それを追う難升米たちーー。

鹿を捕らえねばならない使命。

けれど走る先には、思いもよらぬ気づきが待っていた……。


「……お客さん、困りますよう……」



景初三年正月。

洛陽の街角、飴屋の前に置かれた大きな壺からは、甘い匂いが漂っていた。


一頭の鹿が、その前に立っていた。

飴玉を山盛りにした籠を、じいっと見つめる。

鼻を近づけて「ふんふん」と匂いを嗅ぐ。


やがて、我慢できなくなったのか、首を伸ばして籠に噛みつこうとしたーー


ーーとすっ。


籠の下から、都市牛利の右手人差し指が突き出た。

秘孔を正確に突かれた鹿は、二歩三歩よろめいたのち、ばたりと倒れた。


都市牛利は何事もなかったかのように姿を現すと、頭の上にあった籠をそっと持ち上げ、元の位置へ戻した。

その時、難升米が荷車を引いて駆けつけてきた。

二人がかりで鹿を二台に積み込むと、都市牛利は一人、どこかへと駆けて行った。




ここは通りの反物屋ーー

色鮮やかな絹が棚いっぱいに並んでいた。


一頭の鹿が、反物の山に顔を突っ込み、鼻をすりつけている。

まるで「どれが似合うかな?」と選んでいるかのようだ。


その様子を見た客の女たちは、口元に扇を当ててささやき合った。

「まあ……鹿までおしゃれに目覚めたのね」


「やめてくれ!」店主が青ざめて叫んだ、その瞬間。

鹿はその場に足を折り、ばたりと倒れ込んだ。


反物棚の裏から、都市牛利が静かに姿を現した。

手には小さな匂い袋が握られている。

どうやらあらかじめ反物に仕込んであったらしい。


彼は口に指を当て、ひゅぅ……と息を吐いた。

それは不思議な笛の音のように通りに響き渡った。

そこへ、またもや難升米が荷車を引きながら駆けつけてきた。




市の広場ではーー

楽人が胡弓を奏でていた。


人々が円をつくり、静かに聞き入る中、その鹿は前に進み出て立ち止まった。

目を閉じ、耳をぴくぴくと動かしながら、旋律に酔いしれるように身じろぎする。


楽人はちらりと鹿を見て、満足げに微笑んだ。

観衆は笑いながらも、なぜか誰も声を上げず、広場は妙な静けさに包まれた。


そこへ、面具(めんぐ)を被った大男が躍り出た。

観衆はどよめき、楽人はさらに音色を高める。

その舞は胡弓の拍にぴたりと和し、観客から拍手が沸き起こった。


やがて面具の男は、右手を裏返しに立てて鹿に向け、挑発するように手招きした。

鹿はすっくと立ち上がり、男と相対する。


「おおっ、踊り手と鹿の舞比べよ!」


群衆の声が高まり、子らは真似をして石畳を打ち鳴らした。

広場は熱気に包まれ、楽人は徐々に拍を速めた。

面具の男が木靴で石畳を打ち鳴らせばーー鹿も負けじと蹄を打ち鳴らす。

男が右手だけで逆立ちし足を絡めて決めの姿を見せればーー鹿も前脚を踏ん張り逆立ちをーーああっ、転倒!


「ーー勝者、面具の男!」


観衆の惜しみない拍手、喝采は鳴り止まなかった。

互いの健闘を讃えるかのように、一人と一頭はしばし向き合い、そして抱き合ったーー


ーーガシッ!


面具の男は鹿の首の手綱をしっかと掴むと、自ら面具を外した。

現れたのは、都市牛利であった。


「ンモー! ンモーー!」

鹿は泣き叫びながらも、しっかりと引き連れられていった。




夕暮れの城壁脇ではーー


二頭の鹿が寄り添って立っていた。鼻先を擦り合わせ、互いの首筋を優しくなめ合う。

鹿もまた、出会えば恋をする。


二頭はしばらく、見つめ合った。

その目には「一緒にいたい」という光が宿っていた。


その頭上の闇から、かすかな軋みがした。

鹿たちは気づかない。だが、ゆっくりと二つの影が降りてきていた。


城壁の上から長い縄が垂れ、難升米と都市牛利の巨体が静かに降下してくる。

二人とも体を水平に保ち、まるで宙を泳ぐようにスルスルと下りてきた。

次の瞬間、二人は鹿の真上でピタリと停止した。


ーーガシッ!


同時に二頭の首筋へ手を伸ばし、手綱を握り取る。

鹿たちは「ンモー! ンモー!」と鳴きながら暴れたが、すでに縄に絡め取られていた。


「都市牛利……城壁の上から釣ってもらう必要あったとやろうか?」

「………………」

「ええ……必要欠くべからざるっち……そやろかいな?」


難升米は少し不服そうに呟いた。


「ーー雲梯(うんてい)もう引き上げて良いですか?!」城壁の上から大声がした。

「はいーーありがとうございました!」難升米は大声で叫び返した。


難升米と都市牛利は、捉えた鹿を引き連れて、静かな城壁をあとにした。

夕陽の下、恋に落ちた二頭の影だけが、まだ地面に寄り添って残っていた。




「これで九頭ね……」


台与が鹿たちに餌をやりながら呟いた。

鹿たちはその餌をもぐもぐ食べながらも、視線だけはずっとこちらを向いていた。


最後の一頭は、どうしても見つからなかったーー

難升米からそう告げられた台与は、ぽつり呟いた。


「逃げてもいいのでは……?」


その言葉に一同、目を丸くした。

彼女は鹿の額にそっと手を添えながら、静かに続けた。


「……逃げても良いのよ。檻からでも、人からでも。逃げて、それでも帰りたくなったら帰ってくればいい」



難升米はしばし黙ったまま、拳を膝の上で握りしめていた。

彼の視線は鹿ではなく、台与の小さな背中に向けられていた。

何かを噛み締めるような目で。


その場にいたシャリムは、そっと視線を落とした。

「……帰りたい場所……」小さくつぶやく声は、誰の耳にも届かないほど弱かった。




難升米が湯船に浸かって歌う声が聞こえる……。

都市牛利もいるのだろう。別の人が水を跳ねる音も聞こえてくる。


金玄基は一人、庭先に残り、上りかけた月を見上げていた。

だが頭の中は、台与の言葉で一杯だった。思い出す度、胸の奥がざわつく。


(……逃げてもいい、か)


逃げても辿り着く先には、自分はいてもいいのだろうか。

今いる場所と、何が違うのだろう。結局、同じではないのか。

逃げている間だけは楽しいのかもしれない。

どこかに辿り着いてしまえば、また苦しいのではないだろうか。


「鹿はいいよな……」


牛舎の様子をちらっと見ると、鹿たちは地べたに座り込みこちらを見ていた。

その目は「ちっともよくないよ」と言っているかのようだった。




その夜ーー。

洛陽の宿舎の庭先は、月明かりに白く照らされ、あたりはひっそりと静まり返っていた。


台与は布団にくるまり、目を閉じても眠れなかった。

胸の奥でざわめくものがあり、瞼を閉じても昼間の鹿たちの姿ばかりが浮かんでくる。


砂を踏む小さな足音が、その静寂を破った。

台与は布団から顔を出し、しばし耳を澄ました。


「……?」


そっと身を起こし、板戸を開けて庭に出てみると、そこに昼間逃げ出した鹿の一頭が、月光に浮かび上がっていた。

鹿は立ち止まり、真っすぐに台与を見つめている。

その黒曜石のような瞳には恐れも敵意もなく、ただ何かを探すような切なさが宿っていた。


「……あなた、帰ってきたのね」


台与はゆっくりと歩み寄った。

鹿は逃げるでもなく、むしろ一歩近づいてきた。

やがて、互いの影が重なったとき、鹿は小さく鼻を鳴らし、台与の手のひらに額をそっと押し当てた。


驚いた台与は、やがて静かに微笑んだ。

その背に手を添えると、鹿はまるで母を慕う仔のように身を預け、膝を折って静かに座り込んだ。


「人も鹿も……同じなのね。みんな、帰る場所を探している」


月明かりに照らされるその横顔は、どこか寂しげで、同時に慈しみに満ちていた。

鹿は瞬きを繰り返しながら、再び台与の肩に顔を預けた。



冬の空気は澄み、かすかに燃え残る松明の煙が細く棚引いていた。

月影の中、庭先には鹿と少女が寄り添う影だけが揺れていた。




数日後ーー


「あー……難升米殿……おられるかな?」

例の受付の役人が、この日も鼻にかかった声で宿舎を訪ねてきた。

廊下を歩くたび、ギシギシと床が鳴る。


難升米以下一同全員が出迎えると、役人はふんぞり返って背を逸らし、いつもの芝居がかった間を置いて告げた。


「あー……誠に残念ながら……貴国の申請は却下されました。やはり、生口は牛馬以外は……人間でなければならぬ、と相成りまして……」



一同、目を丸くしてその役人を見つめた。

息を呑む音すらなく、空気は一瞬で凍りついた。


役人は、わざとらしく肩をすくめて笑った。

「いやはや、規則でしてなぁ……」



お読みくださりありがとうございました。

古代にも鹿使いがいたら、何が起こるかと考えたら、こうなっちゃいました。

次回は、難升米が号泣……そして、アレへの一歩が始まります

(木曜曜20時ごろ更新予定です)


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