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第13話 逃げた鹿たち

貢物の鹿が逃げたーー。

大混乱の洛陽……事態を収集するため難升米と都市牛利は走り出す!

その時、通訳・金玄基に思わぬ試練がーー。


人波をかき分け、赤と藍と緑が鮮やかに重なった衣がしっとりと歩いてゆく。


胸元には金糸で花をかたどった刺繍、腰には赤と金の帯、その端から青い房飾りが揺れている。

頭には淡黄色の薄布のヴェールがかかり、下からのぞく琥珀色の瞳が光を受けて輝いた。

耳には銀の輪型の耳飾り、首元には瑠璃とカーネリアンの二連のビーズ。

口元に笛をあて、軽やかな旋律を吹きながら、籠を抱えて市場の奥へと歩いていく。

その姿は、洛陽の雑踏の中でもひときわ異国の香りを放っていた。


籠の中の果物が揺れるたび、甘い匂いが空気に混じる。

その香りに釣られたのか、通りの向こうから一頭の鹿が顔を出した。

縄を引きずりながら、のそのそと近づいてくる。


「……あら?」


シャリムは笛を口から離し、膝を折って鹿と目を合わせた。

琥珀色の瞳と、鹿の大きな黒い瞳が、ほんの一瞬、同じ高さで向き合う。

鹿が鼻先を籠の中に伸ばすと、彼女は笑って手をかざした。


「だめ、これはわたしのごはん」


片言の漢語に、鹿は小さく鼻を鳴らす。

代わりにシャリムは腰帯の房飾りを外し、鹿の鼻先でふわりと揺らした。

鹿は不思議そうに首を傾げ、やがてゆっくりと後ずさった。


「……どこへ行くの?」


その問いかけに答える者はいない。

鹿は振り返ることなく、人波の向こうへと消えていった。



その余韻を胸に、シャリムは宿へ戻った。


だが正門に近づいた途端――


「鹿が逃げたぞぉぉぉ!!」


轟音のような叫び声と共に、大男が門から飛び出してきた。

倭国から来た客、都市牛利であった。


庭先では、難升米という名の客も金玄基(キム・ヒョンギ)という名の客と共に、今にも走り出そうとしていた。

シャリムは同僚の女中に尋ねた。


「どうしたの?」

「貢物の鹿が逃げたんだってさ……今お客さんが捕まえるって飛び出してったよ」


シャリムがもう一度庭に目をやると、台与という名の女の子がポツンと一人立っていた。



景初三年正月ーー

洛陽の街を、一頭の鹿が駆け抜けていた。


ドドドドドドド……

地鳴りのような足音を響かせ、石畳を蹴って疾走する。


スタタタタタタ……

その後を、ひときわ大きな影が追う。


歯を食いしばり、全身を躍動させる巨躯の男ーー。

凄まじい健脚でみるみるうちに鹿へと迫ると、首筋めがけて飛びかかったーー



ーーズザザーッ!



男の体は地面に滑り込み、砂煙を巻き上げる。

鹿はひらりと身をかわし、砂煙を残して遠ざかった。


男はすぐに立ち上がり、追いすがった。




その鹿は頭を低く垂れ、額を突き出して、難升米めがけて突進してきた。

まるで彼を跳ね飛ばそうとするかのようであった。


難升米は敢然と立ちはだかる。

鹿が目前に迫った瞬間、身をひらりとかわし、首に両腕を回して大きく跳ね上がる。

次の瞬間には、その背にまたがっていた。


怒った鹿は立ち上がったり、身をよじったりして彼を振り落とそうとする。

難升米は必死にしがみつき、やがて首に巻かれた縄を掴むことに成功した。


「……来た時より、強うなったばい。さあ、帰ろうや」


そう言って鹿の背から飛び降りると、縄をしっかりと引き、宿舎へと歩を進めた。




その鹿は、屋台の前で干し魚を咥えた。


「おいっ! 盗人だ!」


店主が目を剥いて叫ぶや否や、鹿は一目散に駆け出す。

魚の尾が口端からはみ出し、ぶらぶら揺れていた。


その背を、巨体の男・都市牛利が疾風のごとき速さで追いかける。

踏み鳴らす足音に地面が揺れ、通りは騒然となった。


「……なんだ、あれは……?」


道行く人々はただ呆然と、その異様な光景を見送るばかりであった。




金玄基は水路のほとりまで駆けてきて、そこで立ち止まった。


(はあ、はあ……ここから先には、逃げられまい……)


水路は市街を横断する生活用水である。

幅も深さもあり、足元には洗濯場が並んでいた。

降り口は数か所、橋も数えーー



ーーどんっ!



「はっ!」

次の瞬間、金玄基の体は宙を舞いーー



ーーどぼんっ。



冷たい水しぶきが弾けた。

背中にはまだ、生々しい感覚が残っていた。

まるで鹿に頭突きを食らったかのような衝撃であった。




都市牛利は右手で足元の草を引き抜くと、路地裏に追い込んだ鹿の前で、それをくるくると回して見せた。


鹿は四足を突っ張り、怯えたような目で都市牛利を睨んでいた。

だが、しばらくすると首をふらり、ふらりと揺らし――


ーーぱたり。


そのまま倒れ込んでしまった。


都市牛利は大きく息を吐き、鹿の手綱をしっかと握る。

喉を平手でぽんぽんと叩くと、鹿はすくりと立ち上がった。


路地の入口に戻った都市牛利は、近くに繋がれていた別の一頭の手綱も手に取る。

二頭を引き連れ、無言のまま宿舎へと歩を進めた。




「もう! 通訳さんはここで見ていなさい!」


濡れた服を着替えて戻ってきた金玄基は、出て早々、台与にぴしゃりと叱られた。


難升米と都市牛利は昼食も摂らず、すぐに再び宿舎を出て行った。

午前中の成果は――難升米が一頭、都市牛利は三頭、金玄基は……〇頭。


牛舎に繋がれた鹿の群れは、じっとこちらを見つめている。

台与が桶の水を差し出しても、目を逸らさない。

「飲まないの?」と笑みを向けても、その声にさえ反応しなかった。


よくよく考えれば、鹿を捕らえる手段など金玄基にはない。

縄を掛けられている鹿ならともかく、野放しではどうにもならないのだ。

金玄基は観念して、台与の言葉に従うことにした。



そこに、あの女中さんがやって来て、台与に声をかけた。


「台与……だいじょうぶ?」

「ありがとう、シャリム」


金玄基は、この胡人の女中さんの名前を初めて知った。


「でも……放っておけないの。鹿も、私たちと同じように、帰る場所を探しているのかもしれない」


台与の言葉は、シャリムに向けられたものでありながら、まるで自分に言い聞かせているようにも響いた。

シャリムは一瞬、視線を伏せて、そして呟いた。


「……帰る場所……」



金玄基はふと胸の奥に重たい石を抱え込んだような気持ちになった。


(……そういえば、自分には帰る場所があるのだろうか?)


今は魏の帯方郡に籍を置いているが、生まれは辰韓(しんかん)だと聞いている。

だが、馬韓や倭がしばしば進出する土地で、生まれた時にそこがどこの国だったのかは定かでない。

父は弓の名手だと伝え聞くが、幼い自分を叔母に預けたまま姿を消した。

母の顔は知らない。物心ついた頃に「母は倭人だ」と告げられただけだ。

育ての親は優しかった。だが、どこへ行っても自分は異物だった。


魏に渡ってからも同じである。誰かの言葉を借り、誰かの背を追って生きる。

倭の使節団と旅をしている今は楽しい。だが倭を「自分の国」と思ったことは一度もない。

もちろん魏を自分の国と感じたこともない。

襄平で京観を目にした時は、芯から怒りを覚えた。だが一方で、魏のやり方を理解できないわけでもない自分がいる。


あの鹿が帰る場所を探して走っているように、自分もまた、どこかを探して走り続けているのだろうか。

だが、その先に待っているのは、やはり「ここはお前の居場所ではない」という拒絶の声なのかもしれない。


小さく首を振り、ため息を押し殺した。

鹿の澄んだ瞳が、妙に胸に突き刺さった。



お読みくださりありがとうございました。

洛陽を鹿が疾走したら、何が起こるかと考えたら、こうなっちゃいました。

次回も、鹿!鹿を追え、金玄基!

(月曜20時ごろ更新予定です)


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