第11話 市場の童女たち
「朝貢の儀」は無期延期ーー帰れない!
だが、ナカツヒコには秘策があった。
台与様は?難升米は?都市牛利は?各々がとった行動とはーー。
「……できない」
時は景初三年正月。
那可登古と名乗る謎めいた男が、魏の役所を訪れていた。
藍色の長衣をまとい、頭には幘、足には革靴を履き、胴に回した腰帯には小さな銭袋と印章袋、さらに筆簡をぶら下げている。
見た目は魏人と見紛う装いであったが、男は「倭国から来た商人」と名乗った。
その男が今、魏の担当役人と話をしている。
用件は、絹織物生産にかかる蚕卵と養蚕道具の輸出規制の緩和について……。
「おおせはごもっとも。しかし、これは魏の富を増す道でもあります」
「法は法だ」
「法を曲げよとは申しませぬ。ただ、たとえばーー」
那可登古は声を落とし続けた。
「ーー呉や蜀に流れるより、魏の市に入った方が宜しいのでは?」
役人はぴくりと眉を動かした。
しかし、すぐに那可登古は
「ご安心を。これは大魏に差し出す取引でございます」
と言って、にやりと笑った。
その笑みは、どこか別の算盤を弾いているようでもあった。
役人は黙したまま、視線を落とした。
那可登古はさらに続けた。
「倭には良質な桑の木が多くございます。養蚕業を育成すれば、必ずや品質の高い絹織物を生産し、ご提供できましょう」
「……桑の木、か」
役人はようやく顔を上げ、じろりと那可登古を見た。
その目には、ただの商人以上の何かを見抜こうとする色があった。
「はい。これはその試作品でございます」
那可登古は懐から小さな布切れを取り出し、机の上に広げた。
役人は指先で生地を撫で、光にかざした。
「ほう……確かに糸は細く艶やかで質は良い。だが……織が甘いな」
「はい。いまはまだ試みの段階にすぎませぬ。しかし、生産力が向上すれば、洛陽の市にも出せるほどの量をご提供できるかと……」
そこまで言うと、那可登古は穏やかな笑顔に戻った。
「魏が笑ってくだされば、倭も安心して商いを続けられますゆえ」
言葉は従属的に響いたが、その声色には妙な確信があった。
役人は、ややしばらく黙って試作品という生地を眺めていた。
だが、最後に那可登古に告げた。
「……話は聞いた。だがすぐに許すわけにはいかぬ」
「ははーっ」
那可登古は、そこまでで引き下がり、役所を後にした。
洛陽の路地裏にある貸衣装屋からナカツヒコが出てきた。そして
「よーしっ、ここまで食い込めば十分! あとは別の筋で……」
ひとりほくそ笑んだ。
同じ頃ーー
金玄基は、宿舎の庭先で胡人の女中さんと話す難升米を、遠目に眺めていた。
しかし、難升米は程なく真っ赤な顔をして戻ってきた。
「おい、うそつき!……ぜんぜん通じんやったばい!」
「えっ……おかしいですね……」
「『名前を教えてくれ』って漢語でなんて言うの?」と尋ねられたので、その通り教えたのだが、通じなかったようだ。
代わりに聞いてあげましょうか?と言うとーー
「ーーそれは絶対ダメ!」
と、さらに真っ赤な顔をして怒られた。
そうは言っても、これが仕事だ。
金玄基は難升米がいなくなったのを見計らい、女中さんに声をかけた。
「すみません……あなたのお名前をお伺いしたいのです」
その女中さんは短く微笑むと、無言で去って行った。
(台与様の呪いか?!……俺はまだ呪われてるのか?!)
金玄基の漢語は、本当に通じないようであった。
そこに、裴世春がやって来た。
「金玄基! 何をしておるか?」
「裴世春氏、お暇なのですか?」
裴世春は少しムッとした顔をしたが、この日は正直だった。
「暇なのだ……曹詢様と曹芳様で宮中が揉めておってな……まったく仕事にならぬ」
ーーそこで
「洛陽の街でも案内して進ぜようと思うが、どうだ?」
「いや……台与様が何とおっしゃるか……? 聞いてきます」
裴世春と街歩きなんてとんでもない。だが、身分の差もあり、自分では断れない。
倭の人たちもきっと嫌がるに違いない……。
そう思って、金玄基がお伺いを立てに行くと、台与はーー
「ーー行きます!」
意外にも即決であった。
街に繰り出すと、香辛料の香りや焼き栗の匂いが風に混じり、行き交う人の声が四方から響いてきた。
大道の真ん中では曲芸師が綱渡りを披露し、子どもたちが歓声を上げている。
「見よ、あれは西域の胡人が売る香だ。あれは蜀から来た絹だ」
裴世春はいちいち「あれはこうだ、ああだ」と説明してきた。
都自慢のつもりらしいが、倭の人たちは聞き流し、それぞれ好きな方を見ていた。
「良いものがありました!」
台与が指差したのは、ゲテモノ屋だった。
「……干したヤモリですが?」と金玄基が恐る恐る聞くと、台与は即答した。
「呪術に使うのです」
(食べる物なんですよ……)と言うべきかどうしようか迷う間に、台与は次々と買い込み、袋が一杯になった。
「あれは洛陽名物の……天下一品でな……」裴世春の都自慢は続く。
通りの両脇には商人たちが軒を連ね、色鮮やかな絹や陶器、薬草までが山のように積まれていた。
物売りの声が重なり合い、時折、胡人の楽士が笛を吹いて通り過ぎる。
そんな雑踏の中、都市牛利は一軒の武具屋の前に立ち止まり、じっと剣を見ていた。
「お客さん、お目が高い! そいつは蜀漢昭烈帝の剣だよ!」
ーー ウ・ソ・だ ーー
金玄基と裴世春は慌てて都市牛利の元に駆け寄った。
「そんなものあるか!」
「今なら銀千両!」
「高えよ!」
金玄基と裴世春は、叫んだのもほぼ同時だった。
振り返ると、都市牛利はすでに剣を鞘に収めて、別の剣に見入っていた。
「それは無名の鍛冶が打った剣だね。買うなら百両で良いよ」
店主は吐き捨てるように言った。
だが、都市牛利は構わずその剣を凝視し続けた。
刃を裏表にしたり、傾けたり……その眼光は徐々に鋭くなっていった。やがて……
「…………くれ」
ぽつりと言った。
(都市牛利さんーーしゃべれるんだ!)
この時、金玄基は初めて都市牛利の声を聞いた。
裴世春は腕組みをして頷いていた。
台与はこちらを見て首を傾げていた。
「………………」
「へえ、蜀漢昭烈帝が履いててもおかしくない剣なの……良かったね、都市牛利」
都市牛利と台与が歩きながら何か話しているようだ。
こういう時は何も言っていないように聞こえるのは何故だろう。
台与が休憩しようと言いだした。
裴世春は一行を洛陽の路地裏に導いた。
「ここは、わたしの馴染みの店でしてな」
その声色にはいつもの居丈高な響きはなく、むしろ少年のような得意気さがあった。
木の机に並んだのは、胡麻をまぶした餅に蜂蜜をとろりとかけた甘味。
店主が「裴様」と慣れ親しげに声を掛けると、彼は軽く会釈し、穏やかに笑みを返す。
「洛陽の者は、これで一息つくのです。どうぞ召し上がれ」
すすめられた台与が恐る恐る口にすると、甘さに思わず頬を綻ばせた。
都市牛利も珍しそうに箸を伸ばし、金玄基はその光景を眺めながら心の中で首を傾げた。
(この人も、こういう顔をするのか……)
裴世春は満足げに腕を組み、いつもの自慢は一切口にしなかった。
ただ、自分の好きな店を他人に紹介できたことを、心から誇らしく思っているように見えた。
足休めにもなり、とても良い時間だった。
この時ばかりは、裴世春と一緒に来て良かった、と思った。
店を出ると、正面からナカツヒコが歩いて来るのが目に入った。
「あっ、ナカツヒコさ……」
金玄基は声をかけようとしたが、彼はこちらには目もくれず足早に通り過ぎた。
そして、路地に入ると、何一つ商品を並べていない店にすっと入っていった。
金玄基は一人、ナカツヒコを追って店の前まで行った。
だがその瞬間、黒布で頭を覆った数人の男に取り囲まれた。
いつの間にか迫っていたのだ。
男たちは無言のまま、ただ金玄基に体を寄せてくる。
「……すみません……すぐ戻ります……」
思わず頭を下げると、男たちはあっさり囲みを解き、背を向けた。
結局、店の中は見えなかった。
背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、金玄基は慌てて戻った。
「どこ行ってたの、もう」台与が首を傾げていた。
お読みくださりありがとうございました。
古代にもロビー活動があったら、何が起こるかと考えたら、こうなっちゃいました。
次回は、ナカツヒコがとんでもない行動に!?今回の続きです
(月曜20時ごろ更新予定です)