水化
朝の光はいつもより重く、カーテン越しの陽射しさえ濁っているように見えた。目覚めると、肌を撫でるのは汗ではなく、ひんやりとした水の感触だった。掛け布団の端をそっとめくると、そこには畳の上に広がった水たまりがあった。自分の足先が冷たく沈み込み、指先の輪郭はぼやけ、水面にぼんやりと青い影を落としている。
(何だ、これは……?)
驚きの中で立ち上がろうとしたが、水の中に沈む足は抵抗もなく、するりと滑って畳の目に吸い込まれる。慌ててベッドサイドのスマートフォンに手を伸ばし、画面を照らして足元を確かめる。だが映るのは、足の形をなした一瞬の波紋だけで、その先は水に飲み込まれたように見えない。
その日は遅刻を覚悟して出社した。ズボンの裾をまくり、足首にビニール袋を詰め込み、濡れた床の上を慎重に歩く。だが駅へ向かう通勤路でも、雨は降っていないのにアスファルトは濡れており、水たまりが点在していた。通行人は皆、首をすくめて傘を閉じ、こちらを不信そうに見つめていく。
会社に着けば、事態は一層深刻だった。会議室の床に足を踏み入れた瞬間、床板がきしむ音とともにビニール袋の隙間から水が染み出し、靴下を濡らしていく。周囲の同僚がざわつき、隣の席の女が小声で「何か漏れてる?」と囁く。上司の冷えた視線が胸に刺さり、頭の中が真っ白になる。午前中の会議が終わるや否や、俺は「体調不良で……」と早退を申し出、背後の視線を浴びながら息をついてビルを飛び出した。
帰路で見かけたのは、傾斜した側溝からあふれ出す濁った水と、そこに映り込む自分の顔だった。引き返して側溝に近づくと、顔の輪郭は波打ち、頬は青く透け、唇は湿った土のように色あせている。思わず後ずさりすると、側溝の水面から小さな泡が浮かび上がった。
自宅に戻ると、身体の変化は明らかだった。腰のあたりから下が、すでに透明な水のように変質し、室内のあちこちに水滴を落としている。鏡の前に立つと、自分の姿はもはや人間のものではなかった。額からこめかみにかけては透けた水膨れのような膜が張り、瞳はくもるように濁っている。口を開けば、水音だけが「ぽちゃん」と乾いた木の床に響いた。
日が経つごとに家は浸水していった。床と畳は水を含んで膨張し、壁紙は湿気で剥がれ落ち、天井からは水滴がぽたりぽたりと滴る。隣家の老婆が何度も安否を訪ねてきたが、ドアに触れる俺の指は水の滴となって床に落ちるばかりで、応答すらできなかった。スマートフォンのバイブレーションも、濡れた机の上で空回りし、連絡の糸口は断たれたままだ。
夜が深まると、身体の最後の部分──胸から上の皮膚感覚までもが希薄になっていった。鼓動に代わり、耳に届くのは「ぽちゃん、ぽちゃん」という水の跳ねる音だけ。意識のすみで、自分が溶けていくのをじっと感じる。視界は次第に波打ち、部屋の形も色彩もすべてが水のゆらめきに置き換わっていった。
ある晩、かすかな光の中で俺に気づいた存在があった。隣家の老婆が、窓越しに揺れる水面をのぞき込み、目を細めていた。その視線は恐怖なのか、哀れみなのか、はたまた興味なのか──判別できないまま、老婆は小さく首を振り、そのまま帰っていった。その背中を見送るうち、俺の胸に最後の人間らしさが焼き付いた気がしたが、それもすぐに水の中に溶けて消えた。
早朝、管理人がようやく異変に気づき、部屋の扉を開けた。彼は予想通り「また漏水か」と呟き、特に調査もせず水をかき出し始めた。だが、一面の水たまりの中央で、小さく揺れる波紋──それは人の形を残したまま、薄く笑っていた。
いま、俺はその波紋の中心にいる。
水面に映る蛍光灯の冷たい光の下で、かつての記憶とともに、静かに揺れる微かな存在。次に誰かがこの部屋を開け、水たまりに足を踏み入れるとき。その足音に合わせて、俺はまた「ぽちゃん」と響くだろう。
そして、次の変身が始まるのを、ひたすら待っている。