第4章:曖昧で鮮明な記憶
資料館の入口に戻ったとき、建物はまるで前より古びていた。
コンクリートのひび割れは深くなり、入り口を塞いでいたはずの鉄扉は、すでに倒れていた。
それは“壊された”というより、“存在の役目を終えた”ような、不可解な静けさを纏っていた。
館内は以前より明るかった。だがその光は人工照明ではなく、天井から差し込む “どこかの風景”のような光だった。空ではなかった。屋外のようでもなかった。ただ、記憶の中で見た何かが光になって、室内に降り注いでいた。
私は、あの蓄音機のある部屋に戻った。
だが、蓄音機はなく、そこには一台の映写機が設置されていた。回っていた。
誰が電源を入れたのかはわからない。ただ、私は導かれるように、その前に立った。
スクリーンが無いにもかかわらず、壁に映像が投影されていた。
白黒の粗いフィルム。古い記録映像──戦時中の実験映像のようだった。
防空壕の中で、何人もの技術者が何かを組み立てている。
その中の一人が、私だった。
背格好も、髪の流れも、顔も、すべて私と一致していた。
最初は似ているだけかと思った。だが、映像の中の男は、机の上に “今、私が持っている記録ノートと同じもの”を置いた。
私はスクリーンの中の自分がページをめくるのを見た。
そこには、数分前に私が記した文が、完全に一致する筆跡で残されていた。
映像はさらに続いた。
男──私──は、どこかから戻ってきた兵士たちを記録していた。
彼らの瞳は空洞のように乾いていたが、みな口を揃えて言っていた。
「日追町は、安全です」
再生は止まった。映写機が息を吐くように回転を終えたとき、部屋の天井から微かな振動が走った。
私はそのまま、次の展示室へ向かった。
そこには、かつて見た集合写真がまた展示されていた。
だが、人物の顔が変わっていた。すべての顔が、私だった。
私が十代の頃、大学時代、初めて自主製作映画を撮った日の顔、母が死んだ日の顔──
すべての“私”が、並んでこちらを見ていた。
写真の下には、手書きの文字があった。
> 「これは日追涼の記録である」
> 「時間ごとの収録顔写真 進行中」
混乱は極まっていたはずなのに、私の中に恐怖はなかった。
代わりに芽生えたのは、“納得”だった。
私は次の部屋へ進んだ。そこは、自室だった。
資料館の地下にあるはずのその部屋は、私が現在暮らしているワンルームの間取りと完全に一致していた。
同じデスク、同じキーボード、同じ観葉植物。ベッドの上には、昨日脱いだ服が置かれていた。
「これが、展示だとしたら──私はいつからここに?」
私は壁に設置された鏡を見た。
そこに映る私の顔は、少し違っていた。目の位置がほんのわずかにズレていて、まるで誰かの顔を借りているようだった。
鏡の下に、小さなタグが貼られていた。
> 展示番号:S-041
> 所属:記録保持区域(内包個体)
> 備考:外部観測可能。ただし帰属後は不可逆
私は震える手でノートを開いた。
だが、そこに書かれていた文字は私のものではなかった。読みづらい古風な筆記体の日本語で、こう記されていた。
> 「ようこそ、日追町へ」
> 「ここは、あなたがかつて住んでいた場所です」
> 「忘れないでください。戻ったのです」
ページをめくると、余白に一枚の写真が貼られていた。
それは、私がこの資料館に入っていく瞬間を、後ろから撮った写真だった。
誰が撮ったのか? なぜ持っているのか?
私は声にならない音を漏らした。
そして、気づいた。この部屋こそが、最初の展示室だった。
私はすでに、展示の一部だった。
私が取材していたのではなく、取材されていたのでもない。
最初から、ここにいた。
かつて、ここに戻ることになっていた。
そしてようやく理解したのだ。
「私は、いつここに来たのか」ではない。
「私は、いつからここを離れていたのか」なのだと。