第2章:展示と囁き
次の展示室へと進む通路は、わずかに下り坂になっていた。
廊下は無音だった。耳が詰まったときのように、自分の心音だけが鼓膜に触れていた。だが、廊下の途中、どこからともなく“擦過音”が聞こえた。砂利を踏みしめるような、濡れた紙をくしゃくしゃにするような、音とも音でないものが、どこかから流れてきていた。
最初の展示室は、間接照明が天井の縁に沿って設置された、だだっ広い空間だった。正面には一枚の大きな集合写真が掲げられていた。年代は昭和初期か、それより古い。兵士たちが並ぶ、いかにも古典的な戦中写真だ。だが、不気味なのは、その顔のすべてに微細なズレがあったことだ。
正確には、顔の輪郭と瞳の位置が、ほんの少しだけ、合っていなかった。
視線が合わない。顔が、ゆっくりと自分に向かって動いているような気配がある。見続けると、どの顔も私の顔に似てくる。最初は気のせいだと思った。だが、一人ひとりをじっくり眺めるたび、どこかで見たような輪郭が現れる。
その部屋の隅に、蓄音機が置かれていた。木製の箱型。針はもう磨耗しているようだったが、スイッチを入れると、子どもの声が再生された。
「……せんせい、もう帰ってきたの?」
言葉の内容も、音質も、ありふれたものだった。ただ、声が再生された瞬間、私は体の奥底で何かが“ひとつ戻ってくる”ような感覚を覚えた。
私の記憶のどこかに、この声は存在していた。
蓄音機は続けた。
「おかえりなさい。あたし、ずっとここにいたよ。……あなたは、いつ戻ってきたの?」
私は再生を止めた。途端に部屋の空気が重くなった。
照明が一瞬、脈打つように明滅し、壁の一部が微かに光った。
そこには、肉眼では見えない程度の彫り込みがあった。私はスマートフォンのライトを近づけてみた。
そこに浮かび上がった文字は、私の名前だった。
それも、漢字も読みも完全に一致するフルネーム。血の気が引く感覚が、首の後ろから尾てい骨に向かって走った。
書かれていたのはそれだけではない。その名前の下に、小さな文字でこう刻まれていた。
> 「帰属記録:完了」
> 「次回転送予定:不定」
何のことだろう。なぜ私の名前がこんな場所に?
私はまだ何もしていない。記録しているだけだ。そうだ、ただ見に来ただけだ。
しかしその瞬間、背後で蓄音機が再び音を発した。
「……記録、つぎは、だれの番かな?」
私は振り向いたが、蓄音機の針は外れていた。回っていなかった。
音が鳴ったのは、蓄音機の外だった。
私は展示室を出ようとした。が、出入り口が変わっていた。入ってきた扉はいつの間にか“白い壁”にすり替わり、別の場所に新たな通路が開いていた。導線が勝手に変化しているようだった。
私はノートを開き、今見たものを記録しようとした。しかし、ページが数枚分消えていた。確かに書き込んだはずの内容が、白紙になっていた。
代わりに、そのページの余白に、こう書かれていた。
> 「記録される人間に、記録する自由はありません」
筆跡は私のものではなかった。が、不思議と思い出せる感覚があった。
これは、私がいつか書いた文章だった。
次の部屋には、床に無数の靴跡があった。それも全部、同じサイズ。私の靴と、まったく同じサイズだった。靴底の摩耗も、私の履いているスニーカーと一致していた。
その部屋の展示は、モニターだった。再生されていたのは、固定カメラによる監視映像。
しかしそのカメラのアングルは──この部屋の天井の位置だった。
つまり、今この瞬間の私を、上から見下ろしている“現在進行形の映像”が、展示されていた。
私は自分の姿が映っているモニターを、モニター越しに見つめた。画面の中の私もまた、同じように首を傾げていた。
それだけではない。画面の隅に、私の背後に立つ人影のようなものが、一瞬だけ映った。
振り返った。誰もいなかった。
が、画面の中では、その人影が“こちらを見ていた”。
私はもう、ただの見学者ではない。
この展示室に足を踏み入れた時点で、私という存在は“記録媒体の一部”となり、すでに私の情報は、“何か”に取り込まれていた。
この場所は、見に来る場所ではない。
ここは、“戻ってくる”場所だ。