Track.3
「……では、次に学年主任の先生方からお話があります」
八月下旬の体育館には、夏期休暇明け特有の気だるげな雰囲気が漂っていた。体育館の壁側に立ち生徒ひとりひとりの様子を見ながら、大きく様子の変わった生徒がいないかをチェックする。
夏期休暇明けはこどもの変化が起こりやすい。始業式は学校の生徒が一堂に会するからこそ、一目で変化に気付くことが出来る。服装や髪型、髪色や提出物の提出率やちょっとしたグループの交友関係などにも顕著に現れるものだ。特に学年が上がっていけばいくほど、いち生徒の交友関係を教師が全て把握することは難しい。だからこそ、些細な変化にも目を配ることが必要だと言ったのは、新任の頃の指導教諭だった。とは言え学生時代はその指導教諭の胃を痛めていた自分がそんなことを言われることに、内心居心地の悪さを感じていたのだが。
「……九月には星花祭がありますが、その後すぐに中間考査が控えています。必ず勉強との両立を行ってください。わからないところがあれば、先生方に聞きに行くようにしてください。それと、各教科からそれぞれ提出課題が出ているかと思います。提出物も成績に反映されますので、必ず提出すること。どの課題をいつまでに提出するのか、試験範囲のプリントを確認してくださいね。連絡事項がありますので、各学年の担任の先生方はこの後体育館に残ってください」
解散の声かけとともに、生徒たちがそれぞれ体育館から出ていく。あくびをしながら出ていく生徒や、久しぶりにあった友達と話ながら出ていく生徒などそれぞれだ。生徒がいなくなったあとの体育館はやけにがらんとして見えて、その場所に自分がいることが何だか不思議だった。
「……ではここで簡単なミーティングをしますので、指定された場所に集まってください。中等部は壇上の近くのここから、一学年、二学年、三学年。高等部は後ろから――――」
「――――じゃあ国語科の課題は最初の授業で集めます。さっきも話があったけど、星花祭が終わったらすぐに試験があるからね。星花祭四日前から準備期間が始まるから、短縮日課になります。お昼前に授業が終わったら残りは文化祭準備になるけど、申請を出さないと下校時刻過ぎても残れないから、遅くなる場合は必ず申請をしてね。あと、帰りは必ず方面が同じ子と固まって帰ること。危ないからね」
プリントを配布しながら今月の日課表を確認すると、生徒たちは校内にただようお祭りムードに、どこか浮き足立っているようにも見える。自分の時はこんな感じだったっけなんて思い返すも、もうぼんやりとしか覚えていない。大人になっていくということは、案外そんなものなのかもしれないと思った。
教室の隅には段ボールやハケ、ペンキの空き缶や畳んだブルーシートなどがところ狭しと置かれている。授業に支障がないように整理してくれていたらしい。「綺麗に使ってくれてありがとう」と言えば、彼女たちは少し照れ臭そうに笑った。
「文化祭の準備費は出ているから、何か追加購入したら必ずレシートを持ってきてね。あと試験範囲の勉強も、何か質問があればいつでも来てください。……先生からはそれくらいだけど、何かほかに連絡事項のある人はいる?」
教室を見回すと、生徒たちは首をふる。時計をみると、ショートホームルームの終了5分前だった。
「少し早いけど、今日は終わりにしようか。まだやってる教室もあるから、静かに移動するんだよ。何度も言って申し訳ないけど、文化祭準備で残る人は完全下校時刻を必ず守ることと、なるべく家が近い子達と集団で下校すること。帰る人も気をつけて帰ってね。じゃあ号令、お願いします」
クラス委員の方をみると、少し慌てた様子で「起立!」と声をあげる。ガタガタと音をたてるのを聞いて、「今さっき言ったばかりなんだけどな」なんて苦笑した。
「きょー先生、さようならー!」「うん、さようなら。気をつけて帰るんだよ」
職員室で軽音部の鍵をとると、廊下を出て部室棟へむかいながらすれ違った生徒たちに声をかける。はーいと返した声は弾んでいて、そんな様子に少し笑ってしまう。
文化祭が近付きだすと、校内はどこか見知らぬ場所になってしまったような気がする。見知った校舎も教室も、まるでどこにもいなくなってしまったみたいだ。変わっていくのはいつだって風景ばかりで、自分だけが取り残されているような気もするのだけれど。
(……新曲、どうしようかな)
朝ケースに入れて置いたままのギターを思い浮かべながら部室の鍵を開ける。赤いアンプ内蔵ギターは、ユタカさんに譲ってもらったものだった。「音は微妙かもしれないけど、いつでも練習できるから」と言われて譲られた、エレクトリックギター。貼られているステッカーは、ユタカさんの好きだったバンドのものばかりだ。結局ライブハウスではアンプに繋がないとあまり音が聞こえないから、本格的に色々なライブハウスに参加し始めてからはみんなで新しいギターを買ったけど、それでも今もずっと大切に使っていて、なにか煮詰まったときに触れるものはこのギターだった。
ケースを開けて電池が入っていることを確認すると、ミニスイッチを上げて適当に何曲か弾く。テレビや街中でよく聞くメジャーな曲から、インディーズバンドの曲。昔からずっと好きなバンドの曲。今はもう、なくなってしまったバンドの曲。
働き始めたころに彼らと出会ってから今まで、一緒に作ってきたものにいつだって不満はない。仕事も趣味も今のところ楽しいし、同僚との関係も特筆するほど悪くない。逆に言えば、だからこそあの頃作っていた吐き出すような苦しさも、青臭くて泥臭いひたむきさも、なくなってしまったとも言えるけど。
ピックを持つ手を止めると、小さく息を吐く。壁掛け時計に目をやると、ふっと目をそらして再度弦を抑えた。
ざわざわと出入口のほうから声がして、思わずピックを持つ手が止まる。「こんにちはー」と顔をのぞかせた軽音部の生徒たちに「こんにちは、お疲れ様」と返してギターを片付けようと肩からストラップを外していると、彼女たちは互いに顔を見合わせてから、「先約がありました?」と尋ねてくる。
「ないよ。どうして?」「なんか……誰か、待ってたみたいだったんで」
「お疲れ様でした~」「お疲れ様。戸締まりはしておくから、先に帰っていいよ。星花祭まであと少しだから、体調には気をつけて」
はーいと言いながら帰っていく部員たちを横目に自分も帰ろうかとギターケースを片付けると、簡単に部室を掃除してから施錠する。"軽音部"と書かれたプラスチックが、ドアに当たってカツンと音を立てた。
夕暮れに染まった校内は普段の校舎からすっかり姿を変えて、色とりどりの装飾に覆われている。それをどこか懐かしく思いながら、新校舎の職員室へ向かおうと昇降口を出ようとすると、
「……鷺ノ宮先生?」
夏休みを最後に聞かなかった声に、いぶかしげに名前を呼ばれる。声のしたほうを見れば、そこには日内地さんが一眼レフを首から下げて、戸惑ったように立っていた。
「日内地さん。部活?」「あ、はい……あの、星花祭で作品展示があって。でも、私まだなにを展示するか決まらなくて。展示用のパネルとかは、準備したんですけど」
日内地さんはそう言うと、少し俯いて手元のカメラをいじる。何か言いたげな表情をして顔を上げるけれど、口を開こうとするとまた何かを悩むようにわずかに眉間に皺を寄せて目を伏せた。その表情の変化の理由を指摘して聞いた方がいいのか、それともあえて気付かないふりをするべきか一瞬迷って、無難に話を続けながら指摘をしないことに決める。
「そう、日内地さんが写真部なんて知らなかったな」「言ってないので、誰にも。聞いてくるような友達もいないし」
日内地さんは目を伏せたまま、小さく返す。遠回りな言い回しだったが、恐らくそこまでの親しい間柄の友人がいないということなんだろう。少し考えて、そこには触れずに「そっか」と言って流しながら話しの矛先を逸らす。
「ピアノが上手だから、吹奏楽部かと思ってたよ」「……みんなの前で演奏とか、できなくて。失敗するのも、後で何か言われたり笑われたりするのも、」
日内地さんはそこまで言うと、はっとしたような表情をしてまるでこちらの様子を窺うようにそろそろと顔をあげる。その顔にははっきりと”話しすぎた”と書かれていて、意外と素直な表情の変化についくすりと笑ってしまうと、日内地さんは少し戸惑ったような拗ねたような微妙な顔をして、また伏せた。
「ごめん。馬鹿にしたわけじゃないんだよ」「……別に、そういうんじゃないですけど」
日内地さんは手元のカメラをいじると、小さな声で「……鷺ノ宮先生、は」と目線だけを恐る恐る上げる。
「部活、ですか」「あぁ、文化祭前だからね。さっきまでみんなで練習して、鍵を閉めて帰るとこ」
手元の鍵を目の前でひらひらと振れば、日内地さんは「そうですか」と言って、また何か言いたげな表情をする。やがて意を決したように「――――あの、」と口を開いた瞬間、上階から「やばいやばい!」と言いながらバタバタと駆け下りてくる足音が聞こえる。日内地さんはその音に驚いたように口をつぐむと、また顔を伏せた。
「あ、鷺ノ宮先生! さよーならー!」「さようなら。気をつけてね」
はーいと言いながら帰っていく彼女たちを見送りながら「驚いたね」と言うと、日内地さんはふっと小さく息を吐いて、顔を伏せたまま「私、帰ります。……引き留めて、すみません」と言ってくるりと踵を返す。その背中に「日内地さん」と声をかければ、彼女は少し戸惑ったようなぎこちない表情で振り返った。
「写真部、当日見に行ってもいい?」「……いいです、来なくて。恥ずかしいし、私の写真なんて見てもつまらないし」「楽しいかつまらないかじゃなくて、日内地さんの写真に興味があるから見に行くんだよ」
巨勢先生を誘って行こうかなと、新任時代に散々迷惑をかけた当時の指導教員の顔を思い浮かべながら適当なことを言えば、日内地さんは「……巨勢先生と約束してるんですか?」と首をかしげる。「まだしてないんだよね。日内地さんと一緒に誘おうかな」と言えば、微妙な表情をして「一人で誘ってください」と返される。
「残念。先生が誘って来てくれるかな」「……知りません」
そんなとりとめのない話をしていると、表情は大きく変わらないものの先程よりは幾分か柔らかい表情になっていて。それを確認した後、「さ、じゃあそろそろ行こうかな」と言えば、日内地さんははっとしたような表情で時計と交互に見てから「私も、戻らなきゃ」と呟く。「引き留めてごめんね?」と揶揄うように彼女が言っていた台詞を言えば、僅かに顔を顰めたあと、写真部の部室に向かって走っていく。
――――あの、
あの時 彼女が何を言おうとしたのかはわからないけれど、自分の感情や考えをうまく言語化できないのは誰にでもある。一番大切なのは、言葉を待って、安心して口に出せる状況を作ってあげることだと思うし、彼女にとって自分がそう言う場所になれればいいと思う。
――――高校生相手に本気になったんじゃないかって
ふとカイたちに言われた言葉を反芻して、「馬鹿馬鹿しい」と鼻で笑ってしまう。星花の生徒たちは自分にとって大切にしたい生徒たちで、日内地さんもその中のひとりにすぎない。生徒だから健やかに育っていってほしいし、こどもだから、学校生活にうまく馴染めないようであれば手助けしたいと思っている。生きづらいのであれば支えたいし、話も聞きたいし、逃げ道や解決策を一緒に探したい。でも、それは日内地さんだからではなくて、それが教育に携わる大人としての義務だと思っているからだ。
靴を履き替えると、新校舎に向かって歩いていく。夏特有の生温い風が吹いて、頬を撫でて消えていく。学園の入り口では、星花祭に向けて門の組み立てや誘導の動線が組まれている。
――――星花祭は、もうすぐ。