Track.2
「お疲れ様でした」「お疲れ様でしたー」
職員室で仕事を終えると、あたしはスマートフォンの画面を見ながら時間を確認する。まだ間に合うなと思いながら昇降口を出ると、そのまま「仕事いま終わったから少し遅れます」と一報を入れると、青い自家用車のキーを解除して運転席に乗り込む。もう慣れた動作で車を運転すると、ラジオをつけた。
夕飯時にやっている、クラシック音楽を紹介する番組が柔らかなピアノ曲の音色とともに流れてくる。音楽家の生涯とともに名曲を紹介するその番組は、あたしが帰宅中にいつも聞いている番組だった。何曲か知っているものから知らないものまで、時には口ずさみながら車を運転していると
『……続いては、ドイツの作曲家ヨハン・パッヘルベルの3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調から、カノンです。パッヘルベルが活躍した時代は、バロック音楽の時代とも呼ばれ────』
タイミングよく流れてきたクラシックに思わず吹き出すと、先程の彼女……日内地さんのことを思い出す。柔らかな音色や優し気な表情とは対照的な、あの酷く動揺した表情を思い出してくすりと笑った。
「……で、なに。そのドラマみたいな出来事を聞いて俺に何を言って欲しいの、ケイは」「最近の高校生って可愛いもんだなと思ったって話だろ。そうカリカリしないでよ」
夜八時、S県のスタジオで楽器を弾く片手間にカイ相手に今日の出来事を話していれば、大学の講義の課題をやっているカイは酷く胡散臭そうな顔で「あのさぁ」と呟く。五つほどしか離れていないからか、彼とは姉弟のように話すことが多かった。
「その、マジなわけじゃないよな?」「何が」「だからー……」
あのさと言い辛そうに口ごもるカイに怪訝な視線を向ければ、少し離れた位置にいたハルカさんがくすくすと笑いながら「カイは心配してるんだよね」という言葉とともに、少し色気を含んだ瞳でこちらを流し見る。
「高校生相手に本気になったんじゃないかって」「はぁ?」
チューニングをしながら呆れた声を出せば、カイは口ごもりながら「バンドメンバーが逮捕されたら夢見が悪い」なんて呟く。その言葉に呆れながら「子供相手に本気になるわけないだろ」と返せば、カイは少し気まずげな顔をしながら「まぁ、そのくらいの分別はあるよな。ケイでも。いくらケイでも」と酷く失礼な言葉を吐く。
「それで本気になってるんだったら流石にキモイって言うところだった」「キモイは言いすぎだろ」「いやでも、その子だっていやだろ、教師が自分にそう言う感情があるんだって知ったらさ」
カイは「俺の知り合いでも昔の教師と付き合ったやつとかいるけどさー」とチューニングをしながら呟く。「やっぱ世代間ギャップって言うの? そう言うのってなかなか埋まんないし、親からは反対されたとかで結構早いうちに別れたよ」と呟く。「そう言うもんかな」と返せば、「現実問題、大人と子供が付き合うってそれだけの色んな問題があるんだよ」と小さく呟いた。
「おつかれー」
のんびりとした声とともにスタジオに入ってきたユタカさんに「お疲れ様です」と口々に返せば、ユタカさんは「そう言えば、チャリティーフェスの話だけどさ」とドラムを叩きながら少し声を張った。
「新曲で出てみない?」「新曲? 今から作って間に合うの?」「12月の頭だから間に合うよ」
ねぇケイくんと言うユタカさんに「ユタカさん作るの早いから大丈夫ですよ」と返せば、ユタカさんはにこにこと笑みを崩さないまま「いや、今回俺は作らないよ」と返す。「じゃあミナさんかカイ?」と言えば、ユタカさんはにこにこと笑みを崩さないままこちらを真っ直ぐに指さす。
「ケイくん」「何ですか?」「だから、今回曲を作るのはケイくん」
順番から言ってもちょうど良いでしょとのんびり返す彼に、思わず「なんで?」と言いたい気持ちを堪えて「曲、作ったことないんですけど」と言えば、「だからだよ」なんて無慈悲な言葉が返って来る。
「俺は、いつまでもやったことないからできないじゃよくないと思うんだよね」「……チャリティーフェスが新曲じゃなくてもいいでしょ」
ユタカさんはにこにこと笑みを崩さないまま、動画サイトを開く。動画サイトには眩しい笑顔の高校生くらいのバンドや中高年のバンドが映っていて、そのどれもが最近よくテレビやライブハウスで見る有名なバンドだった。
「チャリティーフェスとは言ってもさ、結構凝ってるんだよね、今回のフェス。S県出身の有名どころのバンドとか、実力派のアマチュアバンドとか呼んでてさ。この子たちも高校生くらいだけどこの間のティーンズロックで優勝した子たちだし、S県出身の有名アーティストも何人か出るよ。ここで気に入ったバンドに声をかけてるって話もあるし」
ユタカさんはすっと目を細めると、「俺はさ」と小さく呟く。
「俺はもっと、このバンドを知って欲しいよ。仕事でアマチュアバンドを取材する度に悔しいって思ってる。俺たちだってもっと有名になっていいし、もっと多くの人に知って欲しいよ」
SNSとか、動画サイトだけじゃ限界があると呟くユタカさんに共感の気持ちもありつつも、今の仕事を辞めてバンド一本で食べていく気にもならなくて。それは他のふたりも一緒のようで、皆一様に同じような表情をして黙り込んでしまう。
「……てか、そんな有名なフェスに俺らが出れるわけ?」
至極当然なことを呟くカイに同じように頷けば、ユタカさんはしれっと「大丈夫」と言ってビラの一文を指した。
『経験・経歴不問。音楽を通して人生を楽しもう』
ユタカさんはそう言うとあたし達にビラを手渡して、そうして真っ直ぐにあたしたちの目を見た。
「これに出よう。……正確には、これに出られるレベルを目指して練習しよう」
今まで楽しければそれでいいと思ってたけど、それだけじゃやっぱり駄目だとユタカさんは言う。楽しいだけでは成長することは出来ないという言葉にどこか納得したような、それでいてどこか不満げな気持ちを持ったのだけれど。みんなの表情を見ていたらそれも言い辛くて、そのままみんなと同じように頷いた────ところまではよかったのだが。
「……はぁ」
自分の住むマンションで適当に曲を弾きながらため息を吐く。時刻は22時を回っていた。
いくら曲を作っても、全てどこかで聞いたようなフレーズを継ぎ接ぎしているような気がする。何だか納得がいかなくて、ベッドに上半身とギターを投げ出すと、スマートフォンをいじる。半乾きの髪がエアコンの冷風に揺れる。火照った体に冷たい風を感じながら好きなインディーズバンドの曲を気分転換に聞いていると、その関連動画に手元だけが映ったピアノのサムネイルが出ているのを見る。恐らく同じ音楽関係で出てきたのであろうその動画の手元は、まだどこか幼さを感じるような手元。何の気なしに動画をタップすると、柔らかなピアノ曲が流れてくる。
それはリストの愛の夢だった。バンドしかやってこなかった自分でも聞き覚えのある曲だ。動画の投稿主は、ピアノの鍵盤を柔らかく指でなぞるように押しながら音を奏でてゆく。卵を握ったような柔らかな弧を描いた手が奏でる音を、どこか息を詰めるように聞いた。何だかそれが、今日の日内地さんのピアノ曲に重なって聞こえるような気がした。
(……明日は来ません)
ふと、あの年相応に少し拗ねたような表情を思い出してふっと笑う。それと同時に、先程のカイの「本気になったわけじゃないよな?」という言葉を思い出して小さく鼻で笑った。
「何考えてんだか。……子供だよ、日内地さんは」
馬鹿馬鹿しいと思いながら、髪を乾かすために携帯の画面を落としてベッドから立ち上がる。僅かに伏せた瞼には、あの柔らかな表情がどうしてか離れなかった。
夏休みの日内地さんとの出会い以降、彼女と顔を合わせる頻度はそう高くなかった。あたしが学校に来ないときに彼女が来ていることもあるし、その逆も然り。それでもあの演奏が聞こえた時には何となく胸の奥がくすぐったいような気持ちになって、つい彼女を構いに音楽室へ出向いてしまうものだった。最初は迷惑そうな、戸惑ったような顔をしていた日内地さんも、何度か顔を出すたびに呆れているのか諦めたのか、それとも少しは存在を許せるようになってくれたのか、以前のように逃げ出すことは無くそのままピアノを弾いていて。いつの間にか、軽音部が終わった後に彼女と話すことが少しずつ日課になりつつあった。
「……鷺ノ宮先生って、どうしていつもここに来るんですか。星花祭の準備とか、あるでしょう」
それを聞かれたのは、彼女と話をするようになって少し経った頃で。夏休みも中盤に差し掛かかり、始業式が近付いてきた頃だった。星花祭の準備でバタバタと学園内を走り回る足音が増えて、それに比例する様に以前よりも日内地さんと二人で話す時間は少し増えた。
ペットボトルから口を離すと「迷惑?」と彼女に対して尋ねる。すると、あからさまに狼狽えた表情をするものだからつい面白くて笑ってしまえば、彼女は少し不満げに頬を膨らませながら拗ねたようにそっぽを向いた。
「ここ、居心地がいいんだよね。静かだし、何より日内地さんの演奏付きだ」「……演奏付きにした覚えはありません」
日内地さんは少し拗ねたような声で呟くと、再び演奏を弾き始める。難しいなと思いながら苦笑すれば、彼女は演奏を弾きながら「……居心地が良いって言われたのは初めてです」と小さく呟いた。
「私、友達いないから。そう言うこと言ってくれる人、いないし」「そう、じゃあ、先生が初めてだ」
彼女は、少し驚いたように前髪を揺らして振り返る。ヘーゼルナッツのような瞳が夕日を受けて煌めくのを見つめながら、「これも迷惑?」と少しわかりきっていることを尋ねれば、彼女は再び鍵盤に向き直り「……わかりません」と呟いた。
「鷺ノ宮先生みたいに人気のある先生が私みたいな人間に構うのも、変」「そんなことないよ、もっと変な人いっぱいいるな」
クスクスと笑いながらそう言えば、彼女は少し困ったような雰囲気で楽譜をめくる。その手が夕日で赤く染まるのを、ぼんやりと見つめていた。
彼女がクラスにあまり馴染めていないのは、何となく知っていた。授業の時も、いつも机で本を読んでいたり楽譜を読んでいる姿を見たことがある。それでもいじめにまでは発展していないと思って、様子見をしていたのだけれど。
「……学校、嫌い?」
ふとそんなことを呟いてしまったのは、彼女の横顔が少し寂しそうにも見えたからで。日内地さんはその言葉を聞くと少し困ったように口元をゆるりとあげて笑う。
「本当のことと、嘘と、……どっちがいいですか?」
珍しく悪戯っ子のような表情に少し頬を緩めながら、「……じゃあ、ちょっとだけ嘘が良いな」と返せば、彼女は少し考えるように顎に手を置いてゆっくりと呟く。
「……じゃあ、今は……夏休みの間は、少しだけ嫌いじゃないです」
そう呟いた日内地さんは、いつもより少しだけ年相応に見えて。柄にもなく、そんなことにほっとしてしまう自分がいた。
────鷺ノ宮先生、至急職員室までお越しください
「おっと」
のんびりしていたら校内放送で呼ばれた自分の名前に思わず声を出せば、日内地さんは「呼ばれてますね」と冷静に呟く。彼女のその冷静な言葉にくすりと笑いながら「嫌だなぁ」と小さく呟いた。
「日内地さん言ってきてよ。"鷺ノ宮先生は忙しくて手が離せません"って」「……何ですかそれ。暇でしょう、先生は」
突拍子もない冗談に、日内地さんはくすりと笑う。そんなことが少しだけ面白かった。
「さ、じゃあ行ってくるか。日内地さんは? まだいる?」「……はい、もう少し」「遅くならないうちに帰りなよ。今日の見回りの先生、厳しいよ」
わざと脅かすようにそう言えば、日内地さんはどういえば良いのか戸惑ったような表情をして。そんな彼女の表情にクスクス笑いながら、音楽室から退出しようとした瞬間、
「────鷺ノ宮先生、私、明日は来ません」
どこか期待するような、それでいてどこか照れくさそうな声が小さく音楽室に落ちた。その先の言葉なんてきっとわかりきっているはずなのに、わざわざ聞くのはどうしてなんだろう。
「……そう、残念。先生も明日は来ないよ。次来るのは始業式かな」「……始業式」
うん、と小さく返す。夏の終わりの匂いが、空いた窓から柔らかく香った。
「じゃあ、始業式でね。日内地さん。気を付けて帰ってね」
そう言うとくるりと踵を返す。日内地さんは、それに何かを答えることもなく再びピアノを弾き始める。夏の終わりの匂いが、柔らかく窓から香った。
音楽室を出ると、また何事もなかったかのようにカノンが聞こえてくる。星花祭に向けて彩られていく校内を歩きながら「気のせいか」と小さく呟いた。
────だから、さようならと言った彼女の声が寂しそうだったのも、きっと気のせいにすぎないだろう。