閑話49 娘夫婦の道のりを振り返りながら(鈴木明彦視点)
日本シリーズが終わり、再び特別強化合宿が設けられることとなった11月。
そんなタイミングで1冊の本が出版された。
タイトルは『野村秀治郎・茜夫妻の軌跡』となったらしい。
少々微妙な言い回しをしたのは、俺もそれに少しばかり関わっているからだ。
とは言っても、作者という訳じゃない。
この本は地元山形県のスポーツ記者が編纂したもので、タイトルにもある通り秀治郎と茜のこれまでの道のりが関係者の視点を交えて事実ベースで描かれている。
俺と妻の加奈も取材を受けており、事前に内容も確認させて貰っている。
本も自腹で購入した。
感想としては、とにかく自分達の知らない2人の様子が何とも興味深かった。
と同時に、秀治郎のおかげで人生が一変した人間の多さに改めて驚嘆もした。
しかし、いずれにしても。最初の1人が俺達の娘の茜だったのは間違いない。
そして俺達自身もまたそうだ。
「もし秀治郎と出会えてなかったら、茜はどうなってたんだろうな」
「たとえ秀治郎君と出会えていなかったとしても、もしかしたら少しは元気になっていたのかもしれないけれど……」
俺の問いかけに、自分で言っていて全く信じてないような口調で加奈が答える。
常識的な考え方をするなら、先天性虚弱症と診断された茜がここまで元気になることができた理由を秀治郎に求めるのは少々非現実的だ。
けれども、俺も加奈も秀治郎のおかげだと今でも思っている。信じている。
特に加奈。
彼女は病の影響で弱々しく無気力だった茜の様子が劇的に変わる瞬間を目の当たりにしたものだから、秀治郎への信頼度は最初から上限に達していたように思う。
それでも、取材の時はかなりオブラートに包んで話してはいたが……。
「少なくとも、あんなにも幸せそうに生きてはいなかったんじゃないかしら」
記者にも口にしたこの発言は、相手が気圧されてしまうぐらい本気だった。
「うん。それは確実だな」
俺も全く否定する気はないし、心の底から同意している。
保育園で出会った時から今に至るまで。
茜は常に秀治郎の傍にいて、微力ながら彼を支えようと懸命だった。
小学生の時分から既に尋常ではない道を今日まで共に駆け抜けてきた。
誰がどう見ても普通の人生じゃない。
きっと、これからも平凡な道を歩むことはないのだろう。
それでも秀治郎の隣にいれば、茜は一生幸せでいられる。
そう俺達は深く信じていた。
まあ、早々に娘の信頼度ランキングの1位をかっさわれてしまったことには、当時は思うところがなかった訳ではないけれども。
茜が元気になったことで2人目を考えることができ、暁という息子を得ることもできた訳だから、秀治郎にはそういった意味でも感謝している。
義理の息子になってくれたことも、本当に誇らしい。
「それにしても、改めて振り返ってみると美海ちゃんに昇二君、正樹君と小学1年生でクラスメイトになったのも運命的よね」
本をパラパラと捲っていき、小学生時代の章を開きながら加奈が言う。
才能のある子達がたまたま集まった……と普通なら考えるところだが、誰の証言を見ても3人共運動が得意なタイプの子供ではなかった。
特に昇二君と正樹君は学外野球チームの上位クラスに進むことすらできなかったと、当時のクラスメイトや学外野球チームの指導者達は口々に言っていたそうだ。
かと言って、小学生であれば義務的に参加するクラブ活動チームの指導を行っていた担任の藤木先生が特別優れた指導者だった訳ではない。
それこそ当人が否定している。
一方で、彼女は秀治郎が3人を指導していたとも証言している訳で……。
「単なる偶然を運命的なものにまで昇華したのは秀治郎の力だ」
「そうね。……どことなく、正樹君を隠れ蓑にしてた感じもあったけれど」
苦笑気味に加奈が言った通り、当時の秀治郎は正樹君を中心としたチーム作りをするなど自分が表立って活躍することを避けている節があった。
その結果として、全国小学6年生硬式野球選手権大会でクラブ活動チームが全国優勝した功績は正樹君に集約され、彼は神童として知る人ぞ知る小学生となった。
その後、東京プレスギガンテスジュニアユースチームにスカウトされて1人秀治郎達から離れ、彼もまた波乱の人生を歩むことになったのは誰もが知るところだ。
その辺りの話は今回の本には詳しく描かれていないが、機会があれば同じように本として纏められて出版されることもあるだろう。
大きな怪我やリハビリ、そして復活とドラマ性があって別方向で人気だからな。
あるいは、既に出版社から打診されているかもしれない。
「そして中学校では磐城君と大松君。高校では倉本さんと出会って導いた」
正樹君の時と同様に自分が目立たないようにするためのスケープゴートにしていた感もあったが、メインは打倒アメリカの仲間集めだったと振り返れば分かる。
小学校で野球の実績を積んだのに茜と一緒に進学校に行くと言った時には驚いたけども、誰からも見向きもされなかった才能を発掘するためだったのだろう。
自分が目立って強豪チームに行くよりも、その方がWBW日本代表の戦力の底上げに繋がると考えていた訳だ。
……なんて、当時小学生の判断とはとても思えないんだよなあ。
やっぱり何か、神がかったものがあるような気がしてならない。
だからこそ、茜のことも秀治郎のおかげだと一層信じてしまうのだ。
「茜にも仲のいい友達、仲間がたくさんできてよかったわ」
「そうだな。チアリーディングチームに加わってくれたり、球団職員を志望してくれたり。今後も長く関係が続いてくれそうな存在だから尚のことな」
インターンシップで来てくれた子達の中にも中学高校の先輩がいて、彼女を切っかけにするような形で交流を深めている。
こういったことも、秀治郎と出会わなければ得られなかったものだろう。
そう思っていると本のページを捲る加奈の手がとまる。
クラブチーム編の始まりのところ。
恐らく頭に思い描いていた通り順風満帆に来ていた秀治郎にとっても想定外、青天の霹靂のような出来事が起きたのは記憶に新しい。
「秀治郎君が高校に入ってしばらくして、お父様が倒れられた時にはどうなることかと思って本当に心配したわ」
「ああ。人生一寸先は闇。その言葉を強く意識させられたよ」
病というものは本当に突然訪れるものだ。
多くの人間はその時になってみないと分からない。
そして、実際にその時になったら既に手遅れということもままある。
どん底まで転がり落ちていき、這い上がることもできない。
そんな不幸は世の中にざらにある。
しかし、秀治郎は踏みとどまった。ほとんど自らの力で。
「振り返ってみれば最善の形に収まって……クラブチームだった村山マダーレッドサフフラワーズにとっては、大きなターニングポイントになったんだよな」
まるで最初からそう描いていたかのようだった。
まあ、さすがに病は予見できないだろうし、こればかりは偶然だろうが。
いずれにしても子供の頃に茜と3人で交わした約束。俺自身の夢が実現に向かって一気に進んでいったのはそこからだった。
その切っかけが病だったことには複雑な気持ちを抱かざるを得ないものの、どうあれ秀治郎に対する感謝の大きさが変わることはない。
まさか娘と義理の息子が自分の球団をプロ1部リーグに、何より日本一にまで押し上げてくれるとはそれこそ夢にも思わなかった。
「娘とファーストピッチセレモニーまでできたし」
秀治郎と健也さんの感動的な場面の陰に隠れて話題には全くならなかったが、個人的にはかなり大きな出来事だった。
それこそ秀治郎と出会う前の茜を思い出し、実は目頭が熱くなっていた。
ただ、この話題は加奈がちょっと不機嫌になる。
理由は母の日に自分も同じことをしたかったところ、今シーズンは日程的にホームゲームではなかったためにできなかったからだ。
ちなみに父の日もビジターゲームで、2年連続はできなかった。
もっとも、ホームゲームだったとしても俺達はやらなかっただろう。
昨シーズンの秀治郎のそれが大々的に取り上げられたことで、他の選手やその家族からも希望が殺到しているためだ。
来シーズン以降はそちらを優先することになるはずだ。
それもあって加奈の機嫌を取れないので、話を逸らすことにする。
「日本一になって特別強化合宿に参加して……後はWBW編が加われば完璧なんだけどな。俺達の戦いはこれからだ、みたいな終わり方なのは唯一不満だな」
「このタイミングに合わせて無理に出した感じがあるわよね」
そう。だから俺は少し穿った見方をしている。
この本がこのような時期に出版されることになったのは、今が最も売り上げが伸びるタイミングだと出版社が判断したからではないかということだ。
もう間もなくWBW本選。
そして決勝トーナメント。
秀治郎達という最強の世代が日本代表に加わり、打倒アメリカの可能性が日本野球史上最も高まっていると日本国民の誰もが感じている。
この一連の盛り上がりの中で秀治郎達の軌跡を記したノンフィクションが発売されれば、皆こぞって買い求めるだろうというのは俺も理解できる。
ただ、盛り上がりも売り上げも、最高潮になるのは間違いなく今ではない。
秀治郎達が、日本代表が打倒アメリカを、そしてWBW優勝という日本の悲願を成し遂げたタイミングこそ最適なはずだ。
あるいは、完全版を改めて出すつもりなのかもしれないが。
もし決勝トーナメントでアメリカに負けてしまったら。
高まっていた期待感は霧散し、売り上げも伸びなくなってしまう。
そのように判断したが故に、このタイミングで発売することを決めたのだろう。
たとえ不完全な状態であっても。
商売をする上でリスクを可能な限り小さくするのはセオリーだ。
だから、そういう判断をしていたとしても理解はできる。
身内として納得できるかは別の話だが。
勿論、これに関しては完全に俺の推測でしかない。
とは言え、この盛り上がりとは裏腹にアメリカには絶対に勝てないと頭の片隅で無意識に考えているような雰囲気が社会の一部にあるのは事実だ。
俺の心にだって存在している。
先の大戦以後、積み重ねてきたアメリカの実績はそれだけ重い。
更に言えば、現代表はそんなアメリカにおいても史上最強の呼び声が高い。
厳しい戦いになるのは間違いない。
しかし、だからこそ。
秀治郎と茜には俺達に、日本に新しい夢を見せて欲しい。
そう思いながら、今を再び見詰めるために本を閉ざしたのだった。




