310 隠し玉を増やせ
最近の俺の心境は、言わば重要なテストの前にやり残しがないか心配になって益体もない焦燥感に苛まれているようなものだった。
まだ何かできることがあるんじゃないか。
どこかに重大な見落としがあるんじゃないか。
そんなことを思いながら絶えず頭を回転させ続けているものの、ことここに至っては恐らく次のWBWのためにやれることはおおよそ限られている。
後はもう、これまでやってきたことの延長線上で足掻く以外にない。
それを積み上げていくしかない。
そんな風に開き直ることができれば、精神衛生上はいいのだろうが……。
年単位ではないにせよ、まあまあ時間が残されている中途半端なタイミング。
それもまた、あれやこれやと余計な考えを抱いてしまう要因の1つだろう。
長期的で大規模な計画を始動させることはできなくても、短期的なものであればどうにかこうにか新しいことを始められそうな気がしてしまうからな。
実際は気がするだけだろうけど。
WBW本番が来るまでは、取りこぼしてしまったものがあるんじゃないかという不安が完全に消え去ることはないに違いない。
だからこそ――。
「とにかく、できる限り隠し玉を増やさないと」
少しでも心にゆとりを持つことができる材料を手に入れるために。
今の延長線上にあるものを確実に形にして、手札を作り出さなければならない。
それが窮地に陥った時の切り札にもなり得るはずだから。
「それは分かるんだけど……僕達、ちょっとハード過ぎやしない?」
思わず口にした俺の呟きに反応して、昇二が若干不満げに問う。
5月。ホームゲームが続いた移動日の月曜日。
村山マダーレッドサフフラワーズは休養日だが……。
俺達は我が家に備えた運動場に集まっていた。
面子は俺とあーちゃんの他に正樹と昇二の瀬川兄弟と、理学療法士の国家試験に合格して晴れてスポーツトレーナーになった青木さんと柳原さんだ。
美海ちゃんと倉本さんは呼んでいない。
彼女達の負担を更に増やすのもどうかというのもあるし、余り人員を増やしては人の目を引きかねないというのもある。
いわゆる秘密特訓だ。詳細を知っている者は少ない方がいい。
敵を欺くにはまず味方から、という奴だな。
今回蚊帳の外に置かれる形となった2人には後で色々と文句を言われそうではあるけれども、それは甘んじて受けるしかない。
「下手したら怪我しそうなんだけど……」
「心配するな。ちゃんとリスクは最小限になるように配慮してるからさ」
「その何か軽めの言い草がさ。もう既に浜中さんとかの時とは違うよねって」
ジト目を向けてくる昇二には返す言葉もなく、ついつい目を逸らしてしまう。
事実として彼に関しては肉体面への配慮は不要なのだが、それが無意識的に言葉の端々から滲み出てしまっていたようだ。
「この2人もサポートしてくれるんだ。リスクが最小限なのは確かだろう」
と、正樹がフォローを入れてくる。
彼は言いながら青木さんと柳原さんに視線を向けていた。
「それは分かってるけど……何で兄さんは秀治郎側なの?」
「秀治郎側とかそういうことじゃなく、単純に客観的に判断しただけだ」
長らくリハビリにつき合って貰っただけに彼らのことを信頼しているのだろう。
しかし、常識に即しているのは実際には昇二の言い分の方だ。
俺が課したことながら、相当な負荷がかかってしまうのは間違いない。
ただ、この場では非常識的な与太話の方が勝ってしまう。
俺も昇二も【怪我しない】以上、どれだけ負荷をかけても怪我のリスクはない。
「にしても、何で僕なの?」
「俺もだぞ」
「兄さんはそこまでの負荷じゃないでしょ?」
「俺はリハビリ明けだぞ?」
正樹の軽口染みた返しに対し、昇二は不満げに口をへの字にした。
当たり前と言えば当たり前だけど、兄の前だと次男味が一層強くなるな。
まあ、それはともかくとして。
そんな昇二に、とりあえず用意していたスキル云々抜きの言い訳を口にする。
「現時点で十分な伸び代があって、尚且つWBW日本代表の中で全容が明らかになっていないというか……それこそ隠し玉を作りやすい筆頭ってのが大きい」
「それでまずは昇二の二刀流という訳か」
「ああ。とは言っても、そこはさすがに次々回のWBWを見据えての長期的な計画にしかできないだろうけどな。昇二は投手経験が乏しいし」
これに関しては、何かやってる感で精神安定を図ろうとしている側面もある。
本命は正樹の方だ。
「けど、秀治郎はものになると思ってるんだろ?」
「それは当然」
正樹の確認に首を縦に振って肯定する。
その隣では昇二が「うーん」と首を捻り、今一信じ切れない様子を見せている。
昇二の二刀流自体は構想としては初期からあって、以前多少なり練習をさせたこともあったものの、公式戦では結局投げていないからな。
彼自身、プロ野球やWBWの舞台でマウンドに上がる考えはなかったのだろう。
野手としてプロ入りした選手が二刀流へモデルチェンジ。
現実のプロ野球で実例があった中で最も近いものは、野手からピッチャーへのコンバートというところだろうか。
これは成功例がない訳ではないものの、野手としてトップクラスに活躍できている者が、となるとまず選択肢にも上らないぐらいあり得ない話だ。
にもかかわらず、昇二の反応がこの程度で済んでいるという風に考えると、むしろ信頼度の高さが透けて見えていると言うこともできなくはない。
「秀治郎がここまで言うんだから、信じていいんじゃないか?」
「それは、まあ、うん……」
兄の言葉を受けて曖昧な感じ残しながらも受け入れる昇二。
正樹の肯定的な言動も含め、正にこれまでの実績のなせる業と言える。
そんな風に思っていると、正樹が何故か少しばかり悪い表情を見せた。
「桐生さんだったか? 彼女にもっといいところを見せられるぞ」
「桐生さんは関係ないでしょ!」
「しかし、連絡は取ってるんだろう?」
「それは……そうだけど……」
沖縄で出会ったという桐生さん。
彼女との繋がりは維持しているが、その窓口は昇二に全て任せている。
他意はある。
ただ、そこを容易く弄れるのは女性陣を除くと兄の正樹ぐらいのものだろう。
ちょっと感心してしまう。
「ぼ、僕よりも兄さんはどうなのさ。浮いた話の1つもなくて」
「酷なことを聞く。これにそんなのある訳ない」
昇二の反撃に便乗するように、横から冷たく言い放つあーちゃん。
相変わらず正樹には辛辣だな……。
まあ、そんな態度を取っても決定的な敵対関係になることはないという、ある種の信頼の形という見方もできなくはないけれども。
実際、正樹の方もフンと鼻を鳴らすだけだしな。
「兄さん、東京時代に誰かいなかったの?」
「……中学に入り立ての頃は神童とか言われてチヤホヤされてたけどな。調子が上がらなくて少しずつ離れていき、大怪我をしてとどめだ。酷い掌返しだった」
これはさすがに揶揄できないと思ったのだろう。
微々たるものながら、あーちゃんも憐憫の情を抱いている様子だった。
「別に当時だって野球第一だったけどな。今は尚のこと、恋愛なんて考えてない」
「でも……」
「俺としては、1番辛い時に相手に寄り添える間柄こそが最良だと思っている。とは言え、あの頃以上に辛い時期なんてもうないだろうしな。検証のしようもない」
「検証って……」
正樹の言葉の選び方に、何とも居た堪れないような表情を浮かべる昇二。
相手を試すようなやり方は男女問わず恋愛としてどうかと俺でさえ思うが、正樹は過去の体験から完全に拗らせてしまったのだろう。
丁度、多感な時期に年齢の近い仲間から大人まで掌返ししてきた訳だからな。
むしろ、もっと性根の部分に至るまで捻くれていたっておかしくはない。
よく踏みとどまったと言うべきだと思う。
「昇二と桐生さんも偶然の出会いだったんだ。未来のことは分からないさ」
「…………そうだな」
「そんなことより練習」
一時の同情心はもう消え失せたようで、飽きたような号令をかけるあーちゃん。
そんな彼女に微苦笑しながら秘密特訓を始める。
まずはバッターボックスに正樹を立たせ、あーちゃんはボール拾い。
俺はキャッチャースボックスに入り、昇二に投げ込みをさせる。
彼に関してはあくまでも慣れの問題だ。
投げれば投げる程、完成度は高くなっていく。
【怪我しない】おかげで単純なものだ。
ただ、まだまだフォーム固めの段階でもある。
時間をかけて、自分の意識も改善して……。
花開くのは、やはり次々回のWBW辺りだろう。
「さて、次は俺の番か」
しばらくして昇二に疲労が見えてきたら交代。
今度は正樹がマウンドに上がる。
グローブは両投げ用ではなく左投げ用だ。
「100%は25球まで」
「了解です」
ウォーミングアップ気味に軽めに投げてから、青木さんの指示を受けて本番。
現在のローテーションだと正樹の登板日は木曜日。
1試合の中で両投げをしていて球数が多いのは基本的に右の方なので消耗はそこまでではないだろうが、昇二とは違って怪我のリスクはある。
負荷のかけ過ぎは厳禁だ。
「秀治郎、行くぞ」
「ああ」
まずは磐城君のような多段変化球。
大松君のようなジャイロ回転の球。
それから――。
「ちっ」
思わず舌打ちが出る。
最後の変化球を、キャッチャーミットに収め切れず弾いてしまった。
「もう1球」
「ああ」
更にそれを重点的に投げさせるが、捕れたり捕れなかったりだ。
体で受けとめざるを得ないパターンもあった。
青木さん達の目もあるので、当然ながら防具はフル装備だ。
「……やっぱり実戦では使えないか?」
「そう、だな。捕りにくいことより、やっぱり制御が利かないことの方が問題だ」
少なくともアメリカ代表には、そんな運任せのようなやり方では厳しいだろう。
「それでも目くらまし程度にはなるんじゃないか?」
「ああ。だから、こうして試して貰ってるんだ。それに、もしかしたら何度も何度も経験すれば、慣れてきて傾向が掴めるかもしれないしな」
勿論、それは希望的観測に過ぎない。
しかし、もしうまく行ったら確実に武器になる。
そんな思惑も含みながら俺達は。
半ば片手間にレギュラーシーズンをこなしつつ、暇さえあればWBWに照準を合わせた秘密特訓を繰り返していったのだった。




