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「僕」の闇行シリーズ

冀望~キボウ~

作者: 吉田 将

 人にはそれぞれ他人には言うことが出来ない秘密というものがある。

 それは時に趣味、嗜好、才能といった身近なものから野望という大それたものまで様々だ。

 そして、その秘密とは転じて夢や願望へと変化し、更に転じて欲望や軽蔑へと変貌する。

 結果を求め、それが出たら更なる良い結果を求める……それは人間のさがだ。

 人間とは飽くなき目標を次々と作り、それを生きがいとして自分の生を謳歌する。

 他人には決して侵されない不可侵領域……それは希望という華々しい言葉で彩られるが、果たして現実はそうだろうか?

 希望という響きは確かに輝かしいが、それは目標達成というゴールに到達すればするほど無限に湧いて出てくる。

 生の時間が限られる我ら生き物はその幾度も訪れる目標達成というものに幸福と人生の充実感を経て、生を営む上での活力とする。

 だが、それは人間という生き物だけに必要なサプリメントだ。

 他の生き物達……動物や魚や虫、植物はそんな希望などは持たない。

 彼らにあるのは日々を生き抜くことと外敵から身を守ること、己の子孫を残すことだけだ。

 確かに、子孫を残すということは次世代へ希望を託すということだろう。

 だが、人間が抱く希望と彼らが抱く希望とはまた違う。

 彼らは己の種を残すことを主としているが、人間は己の欲望を叶える為だけに希望を抱いているに過ぎない。

 希望という言葉には違う字が使われるものの冀望きぼうというもう一つの言葉がある。

 どちらも同じ意味で、あることに対して強く願い望むことであるが、後者の方は少しばかりおどろおどろしい。

 というのも冀という字が使われる四字熟語にその原因があるのかも知れない。

 梁冀跋扈りょうきばっこ……自分の欲望のまま好き勝手に振る舞うこと。または臣下が権力を握り、我が物顔で振る舞うという意味だ。

 この熟語の由来は後漢の将軍であった梁冀が権勢を振るい、幼いながらも聡明な帝に“跋扈将軍”とあだ名されたのを恨み、その帝を毒殺したという故事からきている。

 どうだろう? いかにもこちらの方が人間が持つに相応しい希望ではないだろうか?

 自身の欲の為なら他者の命が関わっていようと厭わない……それが人間だろう。

 権力、財力、地位、名声……希望とは求めれば求めるほどに争いの渦中へその身を投じる。虎穴に入らずんば虎子を得ず、にもどこか通ずるのではないだろうか?

 そうして、それらの希望を求める中で人はいつしか自分自身を忘れ、手にした時にはもはや以前の自分とはかけ離れたものになっている。

 自分を迷わせ、気が付いた時には崇高な意志を持っていた自分はいなくなり、力を手にして欲望のまま生きる自分に成り代わっている。

 つまり秘密さしずめ希望とは闇そのもの……そして、闇とは更に深くなることで“邪”というものになる。




 ※※※※※※※※※※※※※




 怨霊となった元恋人のゆかりことゆかりと僕が出会ってから月日は三年を経とうとしていた。

 あの頃の僕は死んだ紫に対し、恐怖という感情を抱き、そんな彼女が潜む闇というものに対して嫌悪を露わにしていた。

 しかし、紫と出会ってから色々な闇に近いモノ達と接する内に僕の心はいつしか“恐怖”から“安らぎ”へと変わっていった。

 そして、なぜこの世界はそのようなモノ達を受け入れないのかという疑心が新たに生まれた。

 名も無かった影なる者達、約束を放棄され望まぬ死を強いられた花嫁、偶然が重なり合い人形に魂を封じ込められた少女など……どれも視点を変えてみれば哀れなモノ達だ。

 この世界はそういったモノ達を作り上げては見捨てる……実に残酷な世界だ。

 いや、彼らだけではない。

 世の中には責任を誰かに押し付けたりして自身の権力を維持したり、徒党を組んで一人を食い物にする連中がたくさんいる。

 この世は所詮、弱肉強食……というが、真に強き者達が排斥され弱き者達が力を振るっているのが現実だ。

 コネ、ツテ、媚、お膳立て……上げたらキリが無いがそういったもので上がった者達は真に強いと言えるのだろうか?

 否、そんな者達が上役になったところで現実は何も変わらない。その者達が行うのは自身の立場を強固なものにすること……すなわち、改竄かいざんと邪魔者の始末だ。

 そして、そんな者の下で働く者達は都合が悪くなったらトカゲの尻尾のようにいともたやすく切り離される。

 不条理で理不尽……それが“現実”という名のこの世界だ。

 こんな残酷な世界に裏切られ、捨てられた者達はどうなるだろうか?

 恨み、憎み、呪い……だが、それだけのことで実際に世界そのものを滅ぼそうという気は無いだろう。

 なぜなら、その者達もその世界に生かされているからだ。

 その世界で生まれ、希望を持って日々を生き……ふとしたきっかけから失望し、やがて絶望する……その経緯から彼らは“救い”という新たな希望を見つけ、それにすがり再び生きていく。

 救いとは様々だ。

 人によってはそれは思い出といえるし経験によって得たものともいえる。

 だが、その“救い”を信じて本当に救われた者はほとんどいない。大半は救われずに生涯を終えるのだ。

 そう考えるとその者達はもはや世界の奴隷と言うべきだろう。

 その“救い”を人質にされ、日々を無為に生きる哀れな奴隷だ。

 そうすると、未だ“縁”という未練を持つ僕もこの世界の奴隷なのだろう。

 そして、彼女との過去の日々を反芻する僕はさしずめ二重の鎖に繋がれた奴隷だ。

 だが、その世界から死んだ縁との再会を拒絶された僕はその内の一つの鎖を壊すことが出来た。

 あとはもう一つの鎖を壊せば自由の身となれる。

 その為には過去を断ち切らなければならない。

 縁との出会いを含めて僕がこの世界で生きてきた全ての過去を―――。

 けれど、今の僕じゃ過去を壊すことは出来ない。

 過去は未来を壊すことは出来る。しかし、未来の力で今までの過去を壊すことは出来ない。

 過去を壊すことが出来るのは過去の力だけだ。

 その為に僕は鏡の中にある境界の世界を使い、再び自身の故郷に戻ってきた。

 日本の北の地……岩手。ここで僕は生まれた。

 この地には僕の友達がいる。

 縁と出会う前から付き合っていた者達だ。

 僕にとっては愛だの憎しみだのそういった感情が無い真に輝かしい日々を生きていた場所だ。

 以前に僕はこの地で親友の吉田将陰と出会っている。

 だが、今回僕が訪れた場所は彼と出会った街では無かった。

 今回僕が訪れた場所は昔ながらの風景を残す田舎町だ。

 町については特に紹介するほどでも無い。何もなく何の変哲もない山々と田畑に囲まれた田舎……強いて述べるなら僕の生まれ故郷とだけ言えば十分だろう。

 僕はこの町で生まれ、この町で育った……いわゆる、過去の集大成がここにあるといっても過言ではない。

 とはいえ、別に過去を壊すからといって自身の生家を訪ね、壊す訳でもなければこの地にいる友を殺す訳でも無い。

 そんなことをした所で何の意味も無いからだ。

 僕は僕自身の過去を断ち切る為にある物を取りに来ただけなのだ。

 その物がある場所というのは僕の田舎町から少し山奥に行った所にある寂れた廃寺の中にある。

 なぜ、そんな場所までわざわざ物を取りに行くのかというと、これもまた昔の輝かしい思い出のせいなのだ。

 その昔、僕がまだ小学四年生くらいの頃……僕は友人達と共にその廃寺を遊び場にしていた。

 俗にいう秘密基地というやつだ。

 周囲には森があり、大人達ですら滅多にやって来ない場所……その場所は子供の僕らにとっては格好の遊び場であり、口煩い大人達から逃れ、自由にのびのびと過ごすことが出来る楽園のような所であった。

 現在は鬱蒼と茂る木々が光を遮り、廃寺ということもあって心霊スポットだの自殺の名所だの妙な噂が立っている。

 そんな場所に僕はこうしてやってきた。

 廃寺は昔、僕が遊んでいた頃よりも更に寂れて床の木々は腐って穴が空いており、柱も何本かが折れている。

 辛うじて大黒柱と呼べる立派な柱は腐ってもいない様子であったが、この柱が折れてしまったらこの寺ももうお終いだろう。

 僕はそんな危険な廃屋と化した寺の中に躊躇なく入ると、その奥に鎮座する木彫りの仏像の前にやってきた。

 普通、寺が人の手から離れるとその中にある仏像も離れる筈なのだが、この寺の中にある仏像はなぜかこの場所に留まっていた。

 貰い手が無かったのか、それとも何か曰くがあるのか……だが、僕にはそんなことは関係ない。

 僕は仏像の近くにある引き出しを開け、その中に入っていた古びた菓子箱を取り出す。

 そして、その菓子箱の蓋を開けて自身の探していた物を取り出した。

 菓子箱の中には何枚もの写真があった。

 僕の小学校から高校までの写真……その数々だ。

 その写真の中には僕と一緒に映った将陰の姿もある。

 これらの写真は僕にとって唯一の宝物であった。

 もう戻れない……けれども確かに輝いた日々を送っていた頃の記憶。

 家に置いても良かったし、岩手を離れる時も持っていっても良かった物ではあるが、当時の僕は何を思ったのか、この自分が映った写真をこの廃寺の秘密の場所にしまっていた。

 自分で自分を見るのが照れくさかった……親に自分の恥ずかしい過去を手元に保管してもらうのが嫌で仕方がなかった……思春期の少年の理由としてはそんなものだろうが、僕は少し違った。

 宝物とはいったが、宝が自分の好きなものだったり大切なものだとは限らない。

 宝の中には他者には知られたくない秘密や他人の目に触れさせてはいけないものも含まれている。

 僕の場合は後者だ。けれども、何も秘密を持っている訳では無い。他人に自分の一端を見せるのが嫌だったのだ。

 俗にいう黒歴史……といえばまだ聞こえは良いが、あいにく僕には恥ずかしい思い出というものは無い。

 平凡でありきたりの思い出……寧ろ、縁を求め、様々なことをやっている今この時が黒歴史というべきかも知れない。

 昔を知る者……特に将陰にでも知られたら「なにやってるんだ?」と呆れるだろう。

 だが、僕はそれでも構わない。

 荒唐無稽だろうが、ありきたりなつまらない現実……抑圧された世界などつまらない。

 非現実だが寧ろ今の方が充実している。

 そんな今を生きているからこそ、この昔の写真は僕が真っ当な人間であった頃の唯一の物的証拠だと言える。だからこそ取りに来た。

 なぜなら、これから僕は人間では無くなるかも知れないのだ。

 実際、生身の人間はまだ殺してはいないが人形となった人間を使い様々な人体実験を行っている。そして、僕はもう一人の僕自身を殺した。

 先に自分自身を手に掛けたのだ……人間では無かったかも知れないが、僕としては前と比べて非道なことをしていると思う。

 けれども、後悔は無い。寧ろ、なぜだか清々しい気分さえ覚えるほどだ。

 もう心は人のものに非ず……そうなるといずれこの身も人間のものでは無くなるかもしれない。

 いや、鏡の中に入り様々な場所に行ったり、ヌルを使役したり、怨霊となった紫の力を使っている時点で僕はもう普通の人間では無い。

 他の一般人から見れば充分に化物だろう。

 そういえば……化物というと僕のこの故郷にはこんな昔話がある。

 人里離れ、濃霧に包まれた幽玄なる山奥に一軒の古い屋敷があるという。

 その屋敷の中は見た目よりも広く、中に入って進んで行く内にその者はなぜ自分がここにいるのか、自分は何者なのかを忘れてしまうという。

 そうして、自分自身を完全に忘れ、理性も何もかも失った者はその屋敷から出てくることは無いという。

 だが、一方少しでも自分自身を残したまま屋敷の最深部に辿り着くとそこには自身の望みを叶える為の物があり、それを手にすることが出来るという。

 手にせず屋敷から出ても、その物は川から流れてきたり、いつの間にか自分の手元にあったりと必ずその者の手に渡るようになっていて決して無くすことは無いという。

 それ故にその屋敷は化物の住処……あるいは化物が作り出した異質な場所と言われ“マヨイガ”とも呼ばれている。

 この話しはあくまでも昔話だが、その舞台となっているのは今僕がいるこの廃寺周辺の山奥だ。

 自身の望みを叶える物ではなく、叶える為の物……つまり叶えるも叶えないも自分自身ということもあり、この話しは夢物語として伝わっているが、僕は逆にこの話しには何か信憑性があると感じていた。

 火が無い所に煙は立たない……というのもあるが、その言い回しが妙であるというのが理由だ。

 多くの昔話では必ず望みが叶うとされているが、この話しはあやふやな形で終わっている。

 つまりこれは実際に体験した者達がいて、同じ条件と同じ状況が起こり、そこで自ら行動を起こした者と起こさなかった者で実際に望みが叶った者と叶わなかった者がいたのではないか?

 しかもその事例が幾度もあり、様々な考慮がされ危険だと判断された為に昔話として語り継がれたのでは無いか? ということだ。

 事実、この廃寺は何のためにあるのかは分からない。

 昔、様々な文献を調べても寺の名前はおろか詳細についても一切分からなかった。

 これは何かあるのかも知れない―――時間もあり、僕はその周辺を調べてみることにした。

 実際、この廃寺周辺を歩いて回ったのは幼い頃のみ……ただし、本当に近隣だけしか歩き回っていない。

 この周囲は森が深く、探索することが困難だったからだ。

 だが、今の僕は大人……体力もあるし時間もある。

 僕は足を止めずに森の中をひたすら歩く……熊や猪に遭遇するかも知れない、とも思ったが遭遇した所で何も変わりはない。

 襲ってきたら殺すだけだ。

 そんなことを思いながらひたすら歩く内に僕の頭の上にポツリポツリと水が滴り落ちる。

 木々に囲まれていた為に気が付かなかったがどうやら雨が降っているらしい。

 しかし、僕の頭上には葉の生い茂った木々……周りには顔を覆うまでの背の高い藪があり傘を差すまでも無かった。

 そうして、ひたすらただ歩き数時間……いつの間に日も暮れて辺りは宵闇に包まれる。

 しかし、薄ら明かりの一つも無い。本当に黒というべき真っ暗闇だ。

 何も見えず、ただ藪を掻き分ける感触と音が僕に伝わっている。

 それでも、僕は足を止めなかった。

 なぜ、休まずに進み続けるのか僕自身にも分からない。

 ただの好奇心……そして、それを確かめたいというだけならすぐにでも止めていただろう。

 けれども僕の身体は思考に反して動き続ける。

 無心に……疲労も喉の乾きも空腹も何も感じない。そんな空虚さだけを感じていた。

 ただ山奥にある屋敷……そんな手がかりでも何でもない情報だけを元に僕は何かに引き寄せられるように歩き続けた。

 そこまでして僕は何を求めているのだろうか?

 いや、もしかしたら僕の本能がそこに求めているものがあると感じている為に身体を勝手に動かしているのかも知れない。

 そんな漠然としたことを考えながら進み続ける内に僕の視界は急に拓けた。

 藪を抜けたのだ、そう思った瞬間……僕の身体はあるものを前にしてようやくその動きを止めた。

 僕の目の前には相当古い二階建ての大きな日本家屋があった。

 その周囲はさっき僕が入っていた背の高い藪に囲まれている。

 空は……なぜか真っ白い。どうやら、歩いていて気が付かなかったが濃霧が発生しているようだ。

 確かにこの状況なら誰にも見つからないだろう。とはいえ、これが本当に昔話にあった屋敷なのかは分からない。

 けれども、それらしい場所は確かにあった。

 僕はゆっくりとその家の前まで行き、古い引き戸を開ける。

 見た目に反して引き戸の立て付けは悪くなく、スムーズに開けることが出来た。

 中は二階へ通じる階段と広く長い廊下が二つある。

 一つは直進に、もう一つは左へと伸びる廊下で右側には階段があった。

 僕は玄関で靴を脱ぎ、家に上がるとまずは直進の廊下を進んだ。

 廊下には様々な果物の絵が額に納められ等間隔に飾られており、進む者を飽きさせないよう配慮されている。

 そんな廊下の天井には白熱電球が吊り下げられ、程よい明るさを放っている。やがて進んでいくと廊下は左へと曲がる。

 その廊下の先々にも何かの絵が飾られている。だが、不思議なことに小部屋の一つも無い。

 見落としたのだろうか? そう思って振り返ると背後の廊下は暗がりの口をぽっかりと開け、玄関すら見えなくなっていた。

 窓の一つもなく、白熱電球だけが照らしているからだろう。そう思いながら僕は先を進んだ。

 曲がり角のその先に飾られていた絵は今度は花ではなく、妖怪や幽霊といった怪奇的な物になっていた。

 知る限りでは絡新婦じょろうぐもや巨大な蛇、生首や両手を垂らした幽霊、化け狸に犬神といったものだ。

 先程に比べておどろおどろしい。

 そして、おどろおどろしいのは絵だけでな廊下そのものも同じであった。

 廊下の照明が先程は白熱電球であったのに対し、今度は蝋燭へと変わり、床はギシギシと軋む鶯張りとなっている。どこから入ってきたのか、生暖かい風まで顔を撫でる始末だ。

 造りは変わっているがこれはこれでおもむきがある。

 そんな感想を心の中で述べている内、僕は再び曲がり角に差し掛かった。今度は右曲がりである。

 僕は何の疑いもなく角を曲がり、ふと思い立って背後を振り返った。

 僕の通ってきた廊下は蝋燭のせいもあってか先程より黒い口を大きく広げている。

 このままでは呑み込まれてしまうのではないか? そう思いたくなるほどに暗くなっていた。

 けれども恐怖というものは感じない。

 僕は前へと顔を向け、進み始めた。

 今度の廊下も照明と等間隔に配置された絵だけのシンプルなものだ。

 ただ、先程と違うのは廊下の照明は相変わらず蝋燭なのだが、その蝋台は洋風の造りのように囲いがある。廊下も木目のあまり目立たない綺麗な板を使用している。

 和風の次は洋風……ますます変な造りの家だ。そう思いながら僕は絵を眺めた。

 描かれている絵は町や神社、動物園や山々、田園といった風景画となっている。ただその中のどれにも一人の青年と桜色の小袖に赤いちゃんちゃんこを着た少女が仲良く描かれており、そこが気になった。

 しかし、この家主の美的感覚がますますよく分からない。

 そう思いながら進んでいくと突如、僕の目の前に二階への階段が現れた。

 急に出現した、というよりも廊下が暗いせいでよく見えなかったのだろう。

 その証拠に僕が三度みたび背後を振り返るともうそこは真っ暗になっていた。

 囲いがあったとはいえ、蝋燭なのだから火が消えたのかも知れない。ならば、視界が暗転しない内に二階へ行くのが良いだろう。

 僕はそのまま二階への階段を上がっていく。

 軋む階段をゆっくりと上りきるとそこには古びた扉があった。

 外へ出る階段なら中に入る為に扉があってもおかしく無いが、なぜ中に扉があるのだろうか?

 疑問に思いながらも僕はドアノブに手を掛け、扉を開いた。

 中に入るとそこは広間になっており、壁にはいくつもの絵が飾られている。

 それ以外には何も無いので僕は近くにあった絵を眺める。

 その絵は二人の男が八つの頭を持つ蛇と戦っている絵であった。

 八つの頭を持つ蛇というとヤマタノオロチ……つまりこの絵は日本神話のスサノオとヤマタノオロチの決戦の場面だろうか?

 だが、なぜその場面に男がもう一人いるのだろう?

 しかも、この男は日本人の顔立ちをしているが金色の髪に蒼い眼をしている……よほどこの家主は和風と洋風をごちゃ混ぜにするのが好きらしい。

 僕はその後も他の絵を眺めた。そのどの絵にも例の金髪の男がいる。ある絵にはヌルらしき黒いものと戦い、ある絵には畑仕事をしている絵がある。

 その奇妙な絵を一通り見た僕はふと広間の端にまた扉があるのに気が付いた。

 絵だけある広間に一人でいても仕方ないので僕はそのドアノブに手を掛ける。

 扉の先は再び廊下となっていた。最初に通った廊下と同じ白熱電球の廊下でまた絵が掛けられている。

 もうここは美術館では無いのか……そう思いながらも一応絵に目を通す。

 絵は太陽の光を浴びる少年、蒼い月を見上げる少年、星空を眺める少女、雷雲の下で手を取り合う二人の少女といったものなど様々であった。

 一体何の意図があってこのような絵を飾っているのだろうか?

 それに僕はどうしてこんな絵を律儀に一枚一枚眺めているのだろうか?

 そもそも僕はここに何しに来たのだろう……そういえば、なぜ自分の家のように躊躇いなく中に入っていったのだろうか?

 ここはあくまで他人の家の筈……それを許可も無しに入っていった。

 しかし、罪悪感などは微塵も無い。

 改めて考えると妙である。けれどもその妙な感覚を難なく受け入れている自分がいる。

 そもそもここへ来た目的は何だったのだろうか?

 確か検証という名目で廃寺からここまでやってきた。

 しかし何の検証だ? 昔話が実在のものであるか……それとも、叶える為の物があるかどうかの確認か……。

 望み……僕の望みは……一体何だったのだろうか?

 思えば、最初は怨霊となったゆかりことゆかりに会いたい一心で様々な奇怪な噂が跋扈ばっこする場におもむいた。

 実際に夢の中で話すことは出来たし、今も紫の方は僕の中にいる。

 しかし、僕はそれだけでは満足せずに今度は命の研究と称して人形となった人間を使い、様々な実験を行った。

 その過程で鏡に入り、別な自分と出会い、別な世界……ともいうべき場所に行った。

 一応ではあるが僕の目的は達成された。

 だが、僕は更に欲している。

 死んで意識となった紫ではなく、生きた縁を……けれでも死者蘇生なんてものは不可能である。それは僕にも分かる。

 しかし、僕は今まで常識では計れない信じがたいことばかりに遭遇している。

 そんなことを体験し、目にしてしまえば僕は死者を生き返らせる術もどこかにあるのではないか……そう思わずにはいられなかった。

 人体の錬成、不老不死の薬、霊薬、反魂の術……古より時の権力者達や賢者達が探し求め、未だに成し遂げられていない永遠のテーマ。

 命を永遠にすることも命を蘇らせることもまだ叶わない……キリスト教の創始者であるイエス・キリストも復活こそはしたが彼はその際に“人”という概念を捨てた。

 そう、人間として蘇ることは出来なかった。

 僕は……人間としての縁を欲している。その為ならばどんなに馬鹿げた話しでも、どんなに怪しい話しでも信じて赴こう。

 己の全てを捧げ、己自身を人外とすることも厭わない。

 喩え、それが人道を外れた邪道だとしても構わない。

 もう既に僕の身は邪に染まっている。これ以上はどんなに穢されても染まりきらない。

 黒は所詮、黒でしかないのだ。

 ならば、僕がここに来た目的は明らかだ。

 縁を生き返らせる何か……そのきっかけを手に入れること。

 人間とは欲望にのみ生き、欲望により生かされている。

 それを理性という鎖に繋ぎ、飼い馴らしているだけ……聖人とはその欲望を飼い馴らした優れた調教師に過ぎない。

 よくお伽噺では欲の無い者が巨万の富を得たりしているが、その後を幸せに暮らしたということは結局はその富を使ったからではないか?

 もし、本当に欲が無いのならその富を使ったりせず、誰かの為に使っているだろう。

 結局、己に使っているのなら意味など無い。

 ならば、僕はその逆をいこう。

 欲を曝け出し、望みのままに動き、我が願いを達成する。

 隠しているからそれが明るみになった時、理性の自分がそれを浅ましいと感じるのだ。

 だったら、いっそ全てを明るみにした方が良い。欲望を……解き放つ。

 そう決意した途端、急に屋敷全体が揺れ始めた。

 地震だろうか? だが、怖いとは感じない。

 先程、己自身を捧げても良い……そう思っていたせいなのか“死”というものに襲われない。

 いや、ただ無関心なのかも知れない。己自身に―――。

 そんなことを考えている最中、僕の立っている廊下に亀裂が入り、そこにぽっかりと大きな穴が空いた。

 左右は壁に挟まれており、逃げられる状況ではないが逃げるつもりは微塵も無かった。

 ここで死ぬのか……そんな悲観的な気持ちもやって来ない。

 まだ縁を生き返らせていないのに……そんな絶望感もやって来ない。

 まるで自分自身が無くなったようだ。

 そんなことを思いながら僕はただ一人、暗い穴の中に落ちていく。

 重力と共に身体が空気を切り裂きながら落ちていくのを感じる。

 快も不快も何も感じない。

 自然のままあるがままに落ちていく。

 やがて、僕の足元から急に黒い影が吹き出し自身を包み込む。

 僕が虚無感に支配されていても僕の中にいる影の眷属、ヌルは守ってくれるらしい。

 黒い空間の中、影に包まれること僅か数分……影が僕の周囲から離れるのを感じた。

 気付くと落ちていた筈の僕の身体は止まっており、どこかに着地している。

 けれども周囲は相変わらず真っ暗な空間のままでどこにいるのかも分からない。

 取り敢えず、僕は歩いてみた。

 目に映るものは何も無い為、自分の本能の赴くままだ。

 一体どこまで続くのだろうか?

 そんな疑問がふと頭の中を過ぎった途端、僕の耳に水の流れる音が聞こえた。

 地下水でも流れているのだろうか、と僕はその音の方に歩いていく。

 足元が水に濡れる様子は無い。だが、水音は確実に大きくなっている為、間違った方に歩いてはいない。

 そんな確信を胸に抱いたまま歩いていると、僕の目線の先に金色に輝く何かが見え始めた。

 こんな真っ暗な空間にいるのだから嫌でも目に入る。

 だが、光のように眩しい輝きでは無い。

 興味を持った僕はその場所に向かう。

 すると目に見えてきたのは金色に輝く小川であった。

 僕は小川に近付き、その水を掬う。

 水はとても澄んでいて綺麗な輝きを放っている。小川の色はシャンパンのような金色だが、掬った水は無色透明……水泡も不純物も含まれていない天然水だ。

 思わずその掬った水を口に含み、喉に流す。

 するとその途端、僕の中に言い知れぬ感覚が流れ込んだ。

 襲ったのではない、水と共に叡智が、快楽が、喜びが……あらゆる生命の奔流ともいうべき一切衆生の光が僕の身体を駆け巡る。

 その感覚を一頻り味わった後、僕は思わず小川から後退ってしまった。

 これはなんだ?

 無害では無い、中毒性もなく癖もない……逆に母親の温もりに包まれた腕に抱かれるかのような安らぎを覚える。

 それが僕にとって“恐怖”という感情を思い出させた。

 いや、恐怖だけでない。喜び、怒り、哀しみ、喜び……そんな乾いた感情が一気に潤う。

 この水は……小川は何なのだろうか?

 僕はゆっくりと小川に沿って上流に向かう。

 途中、いくつもの小川が幹から伸びる枝のようにいくつも流れているのを発見した。

 つまり、この先に本流もしくは源泉があるのかも知れない。

 そんな考えを持ちながら小川を辿って上るとやはりそこには金色に輝く泉のような水溜まりが見えた。

 その泉に近付き、僕は中を覗き込む。

 泉はそんなに大きくなく寧ろ小さい。けれどもその中は輝きに満ちあふれており水底を窺い知ることは出来なかった。

 この泉は一体何なのだろうか?

 周囲に大きな岩などは見当たらない。

 だが、泉のその奥の方に一筋の輝きを見つける。

 それは小川と呼ぶにはあまりにもか細く心もとない水の筋であった。

 源泉の奥に源流がある……僕はいつ途切れてもおかしくないそのか細い筋を頼りに進む。

 すると奇怪なものを見つけた。

 水の筋はすぐに途切れていたのだが、その途切れた場所に何かある。

 暗くてよく分からないが触った所、剣のような物がその源流に刺さっているようだ。

 だが、手触りから察するに剣にしては柄の部分があまりにも細い。

 そんな細さのせいか刺さっていた物はあっさりと抜くことが出来た。

 それを持って、先程の泉に戻り水の明るさを借りて姿を見る。

 それはなぜか釣り竿であった。

 しかも古びており、長さも二メートルほどと小さい。

 こんな細くて短い釣り竿で一体何を釣るのだろうか?

 何気なく、釣り竿を泉の方へ向かって振る。するとその瞬間、釣り竿の先端から細い糸のような光がふわりと放たれ、泉の中へと落ちる。

 一体、これは何なのだろうか?

 そんな疑問を持つのも束の間、突如釣り竿がしなり、光の糸が張る。

 そんな馬鹿な……糸には餌はおろか、針すらも付いていないのに―――だが、掛かった以上は引き上げるしかない。

 僕は力一杯に引き上げる。

 すると、泉の中から光の糸を掴む人の手が出てきた。しかも赤ん坊の手だ。

 驚きながらなおも力を入れる。

 釣り竿は古くて細いし短いが、かなりの強度があるらしい。

 思わず、全身全霊の力を込めて引き抜く。

 すると泉の中から無数の赤子がわらわらと引き上げられてきた。

 それはまるで、地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸に縋る亡者のような有様であった。

 泉から引き上げられた赤子達は産声を上げながら、水揚げされた魚のように放り出されるが暫くすると瞬く間に消えていってしまった。

 今のは一体何だったのだろうか?

 呆気に取られていると今度は泉の中から白い霧が立ち込め、辺りを包み始める。

 その霧が自身をも覆った時、僕は思わず目を閉じてしまった。




 ※※※※※※※※※※※※※




 再び目を開けた時、僕はなぜか廃寺の中にいた。

 廃寺の外にはうっすらと霧が立ち込め、雨が降っている。

 僕はいつの間に寝てしまったのか……あれは夢だったのか?

 そんなことを思いながら身の周りを調べる。

 僕の手にあの釣り竿は無い。そして、この廃寺からあの奇妙な屋敷に行く前に取っていた筈の思い出の写真も無かった。

 つまり、僕はこの廃寺で寝てしまい変な夢でも見ていたのか。

 そう思い直し、僕は写真を手に入れようと奥に鎮座する木彫りの仏像の前へ行き、その近くにある引き出しを開ける。

 だが、その引き出しの中身を見た僕は思わず目を見張った。

 引き出しの中には僕の写真が入った古びた菓子箱ではなく、長い桐の箱が入っていた。

 その桐箱を取り出し、中をあらためる。

 箱の中に入っていたのはあの不思議な泉の先で僕が手に入れた釣り竿であった。

 だが、その姿は古びてはおらず寧ろ黒漆と螺鈿で装飾された立派な物になっている。

 継ぎ竿になっている為か、竿本体と先端部分が分かれて納まっていた。

 そして、その下には和紙が一枚隠すかのように添えられている。

 僕はの和紙に書いてある文面に目を通した。


『飢饉、戦、天災、また人の欲深き業により散らされた哀れな命達……その命に救済と再生を与える為、私はこの釣り竿とも刀ともいえない物を作った。竿刀かんとうと称すれば良いか。竿刀は持ち主の命を糸にし、黄泉を泳ぐ死者の魚を釣り上げる。命の流れには生の源流から大海までがあり私はその全てを黄泉と称した。源流には死した赤子の命が泳ぎ、大海には老いた者達の命が泳ぐ……だが、これは果たして存在しても良いものだろうか? 私は自身の願いに従い、竿刀を二振り作った。だが本来、自然の流れである命の奔流に干渉するなどあってはならないことだ。私の作り上げた二振りの竿刀により死した命は確かに甦った。けれども、黄泉を泳ぐ命から自身の求める者の命を探すのは困難……それに釣り上げてもその命を入れる器である身体が無い者達は再び黄泉へと還っていった。成功した喜びと共に共に命に干渉する道具を作ってしまった己に恐れを抱いた。この遺書に目を通している者なら既にマヨイガの奥底よりこの竿刀を手に入れたと思うが、願わくばこれを邪なことに使わないで欲しい。これは生まれてはいけないものだったのだ。これを手に入れた者が己の我欲ではなく、誰かの為に振るうことをただ切に願う

                 平野ひらの山海せんがい


 命に干渉する竿刀……そんな物が存在するなんて思わなかった。

 いや、不老不死や人体の錬成など探し出したり、そのものを創り出そうとした者は古今東西に多くいただろうが、命そのものに干渉しようと考えた者などいなかっただろう。

 恐らく、この平野山海という人物はあの黄泉を見つけた為にその考えに至ったのだろう。

 つまり、あの黄泉こそが山海がマヨイガで望んだ自身の望みを叶える為の物であり、彼は己の手で竿刀を作ったことによってその願いを叶えたのだ。

 僕の場合、叶える為の物として与えられたのがこの竿刀であり、あの黄泉が消えたのは恐らく竿刀の力を見せるためのデモンストレーションであり、他者である山海の願いのものだったためだろう。

 そして山海はこの竿刀の力を恐れ、多くを記さず姿を消した。

 恐らく悪用されないように、ということだろうがお陰でこの竿刀の力が無限大に広まった。

 命に干渉出来るならば想像もつかないことが出来るだろう。

 僕は早速、継ぎ竿である竿刀を繋いだ。すると、竿刀は黒い煙と共に消えてしまった。

 間違えたのだろうか……いや、違う。

 僕は手に竿刀が出現するイメージを抱く。すると、消えた筈の竿刀は闇と共に姿を現した。

 なるほど己の命と連動する仕組みである為、僕が生きている限り使うことが出来そうだ。

 そしていつになく、冷静に物事を考えられる。あの黄泉の小川の水を飲んだ為であろうか?

 その後、僕は消えた写真を探す為に廃寺の中をくまなく探索したが、結局写真は出てこなかった。

 そして、消えたのは写真だけでは無かった。

 山を降りてから、僕は自身の生家を尋ねたのだがそこはなぜか田んぼになっており、道行く人やその近くに住む人、家族ぐるみの付き合いをしていた人々に尋ねるも誰もが僕や僕の家族の存在を知らなかった。

 どうやら、僕はマヨイガで大きな力へ得た代わりに“今までの存在”というとてつもない代償を払ったらしい。

 だが、別に悲しいとは思わない。

 寧ろこれを願ったのは他でも無い僕自身なのだ。お蔭で過去を断ち切ることが出来たのだから。

 それにここにはもう用は無い。僕はこの竿刀の力を引き出さなければならないし、縁の命を黄泉から釣り上げなければならない。その為には黄泉を再び探さなければならないし、その命を入れる容器の準備も必要だ。やることはたくさんある。

 僕は近くにあった鏡の中に入り、自身の生まれた故郷から立ち去った。

 自分の願いを成就させる……ただそれだけの為に。


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― 新着の感想 ―
[一言] 投稿お疲れさまでした。 久しぶりの闇行きシリーズ、堪能させていただきました。 ホラーとして、また幻想小説として、とても面白いと感じました。黄泉に降り立つまでの描写も魅力的です。マヨイガの…
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