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静夜

作者: 千日紅

 この少子化の時代に珍しいというか、ありがたいというか、私の職場からほど近い場所に、保育園が新しくできることになった。たもとに大きな金木犀の木のある、この頃の長雨で花の散り敷いた橋の向こうが予定地らしい。

 私はそのニュースを、職場の談話室で聞いた。私が勤めているのはいわゆる介護施設である。仕事は、年老いた方々のお世話だ。老いるということは、果たして若返るということでもあるのが、お年寄りの方々は、しばしばわがままで私達職員を悩ませる。

 この時もそうで、談話室で主任が保育園開設のニュースを告げた時、午後のまどいを閉じ込めた筈の談話室は、一瞬だけしんとして、すぐに二十畳ほどの室内に喧噪を極めた。

 老人たちは、好き勝手に文句を言い合ってるのが、次第に、普段の鬱憤をぶつけ合う様相になってくる。施設の限られた人間関係においては、こういったやり取りが、取り返しのつかない問題にまで発展することもある。穏やかな話し合いに舵を切るため、私は彼らの意見をまとめて、争う必要がないと伝えることを試みた。彼らの意見は殆どが同じであったからだ。

 意見の大勢は、「保育園が近くに出来ると朝から晩までうるさくてかなわない」ということであった。それは私も聞いて一番に懸念したところである。

 認知症の始まっている方など、ちょっとした刺激で予測のつかない行動を取ることがある。他にも、私達がお年寄りを連れて遊びに行く公園も、子供達に占拠されてしまうのではないかといった嫌な予感がした。

 そもそも、この介護施設を開所する時も、すんなりとは行かなかった。住宅地に、ある特定の人間を対象とした施設ができる。そこに人が流入する。地域の穏やかな暮らしが脅かされる。 人々は暮らしを守るために、新参者を迎え撃つ。

 私達はかつて脅かす側であり、今は、脅かされる側なのである。加えて、お年寄り達は、決してこの施設に入りたくて入ってきたわけではない。入らざるを得ずに、いま、ここにいる方達なのである。そういった彼らの複雑な心持ちが、保育園という的に向かって一気に噴出したのだ。

 主任が、大きな声を張り上げる。それで幾らか静かになった彼らの顔には、憤懣が浮かんでいる。私には、彼らの顔に刻まれた皺のひとつひとつが、まだもの言いたげにもぞもぞしているように見えた。

 その時である。私の隣に車いすを止めていた老人が、ふらりと立ち上がった。彼は進行した認知症を持っており、普段は、とりとめなく昔話を繰り返すひとである。食事を零したり、たまに粗相したりしても、全体として、彼は温厚で、怒るということがなかった。

 その彼が、立ち上がったなり、唾を飛ばして怒鳴った。

「俺ぁもう、あんなに静かなのは嫌なんだ」

 談話室は水を打ったように静まりかえった。

「お前ぇらぁはあ、もう忘れたかもしんねぇが、俺ぁ、忘れられねぇんだよ。あの静かな夜を、お前ぇらぁはぁ、忘れちまったんかよ。泣かせてやれぇ、こどもはうるさくてえぇんだぁ、ぎゃぁぎゃぁ、うるさく、泣きゃあよぅ」

 彼の怒鳴り声は尻つぼみに小さくなって、やがて彼は元通りに車いすに腰を下ろした。

 そして、激昂とともに、人生まで忘れてしまったというような穏やかな顔で、居眠りを始めた。


 その夜、当直であった私は、主任から彼についてある話を聞いた。主任は、まだ彼が認知症を進行する前から、彼に関わっていた。

「話してくれたことがあるのよ。いつだったかなぁ。秋で、虫が鳴いていて、蛙の声がしなくなって、随分静かになりましたねぇって私が言ったら、いんや、ちっとも静かじゃないってあの人言ったの。

 本当の静かってのはね、あんたは若いから知らないだろうけど、虫の声ひとつしないんだ。それで、遠くから、爆撃機が飛んでくる音がする。みんな、壕の中で息を潜めて、爆弾が落ちるのを今か今かと耳を澄ましている。あれが本当の静かな夜だった。静かで、怖い夜だって」


 なあ、若ぇひとにはわかるめぇよ。

 誰も、息すらお互い殺し合う暗闇で、俺たちはじっとしていた。

 そしたら、弟が泣き出して、おふくろは弟の口をぎゅっと手で押さえたんだ。

 弟は赤ん坊で、泣くなっても、泣き止まねぇよ。

 俺ぁ、爆弾が落ちるのよりもよ、弟が泣くのが怖かった。泣くな、騒ぐな、静かにしろってよぉ。

 静かにしろ、黙ってろ、逆らうな、死ぬまでよぉ。

 死ぬまでよぉ。


 私が続きを目で促すも、主任は悲しげに首を横に振った。

 主任と私は、しばらく彼の言う静けさについて沈思した。

 おそらく、そこには穏やかな日々も、老人も、夫婦も、飼い犬も、うるさい子供も、何もおらず、誰もが息を潜めているのだ。虫や、鳥さえも。

 ひとはその人生の中に、多くの歴史を含んでいる。老いた心のなかで、歴史は結晶し、老いた口はその結晶のあまりの重さに、言葉を失う。

「保育園ってだけじゃなくて、隣で人が生きてるってことは、迷惑をかけたり、かけられるってことでもあるからね」

 主任は優しくひたむきで、私は頷いた。死んでしまえば、迷惑も、悲しみも、喜びも、何もない。

 生きている。平和である。それ故の悩み、苦しみ、怒り。私達は日々、死ぬまでを生きる。音のない世界には何もない。生きることも。

 扉を何枚か隔てた向こうから、鼾が聞こえてくる。つけっぱなしのテレビは時折薄っぺらい笑い声と音楽を流し、私は経験の豊かな先輩の瞳の奥に、敬虔な輝きを見つける。落ちてなお馥郁とした花の香りが、夜陰に紛れて橋を渡り忍びいってきて、私の鼻孔を満たす。静かな夜であった。

「贅沢な悩みですね」

 主任は、そうね、と言って、洗いすぎてひび割れた手を、机の上で祈りの形に組んだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] とても考えさせられるお話でした。 今、私たちが向き合わなければいけないことなのだと思います。
2024/03/18 19:18 退会済み
管理
[良い点] 惹き込まれる文章です、導入が特に好きです [気になる点] 特にありません [一言] 純文学は少ないですが、応援しています
[良い点] 今、立っている場所も100年くらい前だと爆弾に当たって死んだ人や赤紙を渡されて戦地に行った人が住んでいてこの小説のようなことが身近に起こっていたことを思い出しました。 [気になる点] 弟さ…
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