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国語の時間

作者:チャー
 アブラゼミの声が暑さをかきたてる真夏の午後。扇風機にあたりながら昼寝でもしたいところだが、高校生というのはそれほど暇ではない。いや、暇にできないこともないのだが、そうすると、8月の終わりに地獄を見ることになる。
 仕方がないので、私は一人、部屋で机に向かう。夏休みの宿題は煩わしい。休み明けに「山月記」なる物語を国語の授業で扱うため、その準備として、三行ずつあけながら全文をノートに書き写すことが宿題として課せられてしまった。

 『隴西の李徴は博学才穎、天保の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に起臥し、人と交わりを立って、ひたすら思索にふけった。しかし、文明は容易に上がらず、生活は日を追うて苦しくなる。数年ののち、貧窮に絶えず、妻子の移植のためについに節を屈して再び東へ赴き、一地方の官吏の職を奉ずることになった。一年後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、ついに発狂した。
 ある夜半、何か訳のわからぬことを叫びつつそのまま下に飛び降りて、闇の中へ駈け出した。その後、李徴がどうなったかを知る者は、だれもなかった。』

 ただひたすらに書き写すという作業をしていると、すぐに頭がお留守になる。現実逃避なのか、全く脈略がないにもかかわらず、私は中学生のころに魯迅の「故郷」という物語も読んだことを思い出した。

 『ある日のこと、母が私にルントウが来たと知らせてくれた。飛んで行ってみると、彼は台所にいた。』

 台所…。のどが渇いたので麦茶を取りに行くことにする。扉を開けると、そこには一人の少年がいて、私を見るなり目を輝かせてこういった。
 「よう!」 
 今日は両親は出かけていて家には私一人。誰だこれは。目を点にしながらも、さながらさっき思い起こした「故郷」のワンシーンだと思った。どうやら、一度授業であつかった文章は私の頭の中にきちんと格納されていたらしい。不審な少年の勢いにのまれて、口をパクパクしていると、なんと私の後ろから少年が飛び出してきた。
「やぁ、ルンちゃん、よく来たね。」
 魯迅だ。次に続く文章はこうだ。
『彼は人見知りだが私にだけは平気で、そばに誰もいないとよく口をきいた』

 あたりの景色は一瞬にして台所からスイカ畑に変わる。目の前ではルントウと思しき少年が魯迅と思しき少年に身振り手振りで畑を荒らす動物のとらえ方を得意げに語っていた。

「いいかい、月のある晩にガリガリって音がしたら、チャーがスイカをかじっているんだ。そしたら忍び寄って刺又でつくのさ。あん畜生、利口だから股をくぐって逃げてしまうよ。何しろ毛が油みたいにすべっこくて…」

 二人の少年の後ろ、畑の畝の合間から、ひょっこりとアナグマのような動物が顔を出している。スイカ畑にさっそく食べに来たのか。茂った葉とつるを揺らして、ガサリと音がした。

 先に気が付いて振り返ったのは魯迅だ。
「ねぇ、ルンちゃん、あれ、ひょっとして…。」
「チャーだ!!」
 その一言で周囲の動物はみんな逃げ出すぞ、と言いたくなるほどの大声をあげながらルントウが勢いよく立ち上がった。もちろん、その声におどろいて、一目散にチャーは逃げ出した。
「おいでよ、迅ちゃん!」
 チャーの逃げた方向に、二人の少年もかけて行った。

 なんだ、あれは。はっと気が付くと、台所だ。もちろん誰もいない。白昼夢でも見たのだろうか。頭を一振りしたあと、とりあえずグラスに氷と麦茶を注ぎ、勉強部屋へと戻り机に向かう。はやく続きを書き写さして、ゆっくりしたい。

『翌年、観察御吏、陳郡の袁傪という者、勅命を奉じて嶺南に使いし、道に商於の地に宿った。次の朝、いまだ暗いうちに出発したところ』

「しかし、まぁ見事なすいかであることよ」
どこかから、だれかの声がする。後ろを振り返るが誰もいない。
「袁さま、これから先の道にずるがしこいチャーがおりますゆえ、旅人は白昼でなければ通れません。今はまだ朝が早いので今少し待たれたほうがよろしいでしょう」
別の声が答えている。袁傪?チャー?「山月記」と「故郷」がちゃんぽんになっていないか。
「何、供回りがおるから大丈夫だ。それに嶺南の中島様はこのスイカを心待ちにされているのだ。私の出世もかかっておる。駅吏、お役目ご苦労。」
私の混乱を置き去りにして、返事まで聞こえてきた。声のする方に目をやっても誰もいない。幻聴だろうか。とりあえず、宿題をすませよう。

『残月の光をたよりに林中の草地を通って行ったとき、はたして一匹の猛チャーが叢の中から躍り出た。』
書き間違えた。猛チャーってなんだ。猛虎じゃないか。消して書き直さねば。はたして、机の端に転がっている消しゴムに手を伸ばし、猛チャーの文字を消そうとしたところ、押入れの方からはっきりと叫び声が聞こえたのだ。

「うわぁ!」

幻聴じゃない。押入れに目をやるがもちろん誰もいない。
と、思っていたが、よく見ると、少しあいた押入れの隙間から小さな人のようなものと小型の小動物のようなものが転がり出てきたではないか。小動物は自分の体と同じぐらいの大きさの緑の玉を抱えて猛スピードで走り去っていく。その姿はさながら「スイカを奪った猛チャー」であった。そうなれば、もはや小人は袁傪であろう。袁傪はよよと泣き崩れながら、押入れの中に戻っていく。
「わ…私はもうおわりぢゃあ…。」

ついに幻覚が見えるようになったのだろうか。自分はどうしてしまったのだと思う間もなく、押入れの隙間から今度は子供の小人が二人、飛び出してきた。もはや予想はついている。スイカ畑からチャーを追いかけてきたルントウと魯迅である。

「ルンちゃん、いたよ!あの叢に逃げ込んだ!」
魯迅が勢いよく、部屋の隅を指差した。
「おう!おいらに任せとけ!いくよ!迅ちゃんは周りこんであっちから行って!」
押入れの隙間から出てきた二人は二手に分かれて部屋の隅へと駆け寄っていく。部屋の隅ではスイカを抱え込んでがっついている猛チャーの姿があった。ガリガリと音を立てながら食べることに夢中で二人に気が付いていない。二人は最後まで駆け寄らず、スイカをむさぼるチャーに気がつかれないよう、最後は抜き足差し足、忍び足で間合いを詰めていく。
チャーの真後ろにルントウがつけたとき、チャーが前方から向かっていた魯迅に気が付いて、はっと顔あげる。が時すでに遅し。逃げようとしたチャーを二人は囲いこんでボコボコにした。
「このやろっこのやろっ」
「えいってやーっ」
チャー、いと、あわれ。猛チャーという形容はもはや微塵も似合わない。もはや襤褸雑巾のようだ。
しかし、チャーは腐っても猛チャーだったのか。一瞬の隙をついて、二人の包囲網を突破した。そのまま矢のごとく駆け去って行った。
「くっそー!逃げられたか。追いかけるぞ!」
熱くなったルントウが雄たけびをあげて追いかける。そのあとを魯迅も一生懸命ついて行った。
「うん、待ってよ、ルンちゃん!」

ひとしきりの喧騒が去り、あたりはシンとなった。まごうことなく、夏休みの昼下がり。私の勉強部屋である。目の前には開いた教科書とノート。そして先ほど台所に取りに行った麦茶。コップの中で氷が融けて滑り落ち、ガラスにあたって、カランと音がした。

やっぱり幻聴だろうか。麦茶を飲もうとコップに手をやると、その陰から、小さなチャーがよろよろと這いだしてきた。
「危ないところだった…」
猛チャー、かたなし。チャーがよろめきふらついているのを、目を見張ってみていると、教科書の陰からさっと小人が飛び出し、チャーを抑えこんだ。誰かと思えば、襤褸を着た袁傪だ。よくよく見れば、もともとは立派な唐風の服だったことが見て取れた。自らの嘆き通り、スイカを嶺南の中島様にとどけられず落ちぶれたと見える。

チャーに馬乗りになった袁傪はぶつぶつと何かをつぶやきながら、チャーの毛をむしりだした。
非常に陰気で憐れみを誘う風景だ。

その時、障子越しに柔らかな光が差し込んでいた部屋が一気に暗くなった。ゴロゴロと音がして、突然の雷雨が到来したことが否応なくわかった。夏の夕立というやつだ。
暗くなったかと思えば稲光で部屋がフラッシュをたいたようになる。すさまじい轟音がして、近くで雷が落ちたことが分かった。バラバラと音がし始め、その間隔は坂を転がり落ちるように狭くなっていった。一瞬にして、外は豪雨だった。暗くなった部屋、時折光る稲妻。叩きつける雨。私は、ふと「羅城門」で下人が雨宿りしていた時はこんな感じだったのではなかろうかと思った。「羅城門」の出だしはこうだ。

『下人は雨やみを待っていた。だがやがて、一晩楽に寝られそうなところがあればと、やもりのように足をぬすんで、楼の上と上がった。』

心の中で冒頭を暗唱したところで、私ははっと気が付いた。これまでのことを考えるに、この机の上は羅城門の楼の上。そう思った途端、机の上には何人もの死骸が、袁傪とチャーの周りを囲うようにごろごろと転がっているように見えた。こうなれば、次は下人の登場である。

「おまえ、ここで何している!」
下人は机の端に立っていた。

チャーにまたがった袁傪は下人に気をそらすこともなく、相変わらずぶつぶつ言いながら、一心にチャーの毛をむしり続けている。
「この毛を抜いてな、この毛を抜いてな…」
そして、ぶちっと大量の毛を引きちぎったところで、カッと目を見開いて下人の方を向いた。
「かつらにしようと思うたのじゃ」
「チャー!」
断末魔のようなチャーの叫び声。毛を引きちぎられたのが相当痛かったのだろう。
だが、ここで予想外のことが起きた。気が狂ったように毛をむしっていた袁傪が手を止めたのだ。
「!!…その声は…わが友、李徴ではないか…!?」
しばしの沈黙の後。なんと、チャーが口をきいた。
「いかにも、自分は隴西の李徴である…。」
信じられないという表情で袁傪は組み敷いたチャーを穴が開くほどに見つめた。私だって信じられない。虎の代わりにチャーとはあまりにもお粗末ではないか。
見つめる袁傪とは裏腹に、チャーは袁傪から目をそらしたままだ。二人は下人の存在などすっかり忘れたのか、チャーは語り始め、袁傪はその言葉に聞き入った。
「今から一年ほど前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊まった夜のこと、眼を覚ますと戸外で誰かが我が名を呼んでいる。覚えず、自分は走り出した。何か体中に力が満ち満ちたような感じで無我夢中で駆けて行った。気が付くと、毛を生じているらしい。」

このセリフはまさに「山月記」で虎になった李徴の告白のセリフであった。虎…もといチャーの独白は続いていく。

「なんと、すでにチャーとなっていたのだ。自分はすぐに死を思うた。しかし、その時、目の前を一個の西瓜が通り過ぎるのを見たとたんに、自分の中の人間はたちまち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ましたとき、自分の口は西瓜の知るにまみれ、辺りには西瓜の種が散らばっていた…!これがチャーとしての最初の経験であった。笑ってくれ…!虎になりそこなってチャーになった哀れな男を…」
「あっはっはっはっ。」
笑ったのは下人である。もはや無視され続けることに耐えられなくなったか。笑い声に李徴と袁傪は下人の存在を思い出した。二人の視線が向けられると、下人は口元をゆがめてこう続けた。
「きっとそうか。」
そして、下人はずかずかと二人に歩み寄ったかと思えば、袁傪を押しのけチャーを抱き上げた。さらには袁傪からすでに襤褸となりつつある着物をはぎ取った。
「俺もひはぎをせねば、死ぬ身なのだ。」
足元の袁傪をにらみつけて一言。そうして脱兎のごとく駆け去って行った。
茫然とした袁傪が「待ってくれ」といったが、そこにはすでに下人の姿はない。

代わりに現れたのは、ルントウと魯迅だった。
駆け寄るや否や、ルントウは座り込む袁傪につかみかかった。
「おい、お前!チャーをどこへやった!?」
魯迅も負けてはいない。
「言わなきゃダメだぞ!」
子供は時に残酷だ。特にこの二人は凶暴だ。
「このやろ!このやろ!」
先のチャーよろしく、袁傪も袋にせねば気が済まぬらしい。
「お、お許しを…」
「これでも喰らえ!」
哀れな声を出す袁傪は魯迅の容赦ない一発をくらって、完全に伸されてしまった。
すでに動かない袁傪。あわやどうなるかと思ったところで遠くから声がした。
「ルントウー!」
声の主はルントウの父親のようだ。ルントウはやってきた父親に引きずられ、退場となった。
魯迅がちぎれんばかりに手を振っている。
「ばいばーい!」
「また遊ぼうなー!」
ルントウを見送った魯迅は泣きながら反対側へと去って行った。
机の上には小さな袁傪、そしていくつかの骸が転がっているのみとなった。

いつの間にか雨はやみ、障子の外はあかるい。ほんのりとやわらかい光が部屋の中を満たしだした。
外で、雨上がりを喜ぶスズメたちの声がする。

「春になると捨て子が増える…」

見れば品のいい外国人の老紳士が手を大きくたたきながら死骸の間を歩いていた。
「みなさん、朝ですよ」
その声を聴くなり、死骸だと思っていたからだが次々に起き上がった。なんと人騒がせな。寝ていただけだったのか。
老紳士は牧師さんの恰好をしていた。その風貌は井上ひさしの「握手」にでてくるルロイ修道士を思い起させた。ルロイ先生は袁傪を抱きお越しながら言った。
「今日は新しいお友達が入ってきましたよ。」
もはや机の上は羅城門ではなく、天使園であった。
子供たちはあたらいいお友達が嬉しいようで、わらわらとルロイ先生と袁傪のまわりに駆け寄ってきて、歓声を上げている。
「さぁ、みなさん、この子に名前を付けてあげましょう。」
いまだ茫然としている袁傪は名を名乗る気力もないようだ。子供たちが口ぐちに思いつきを話した。
「松がいい!」
「戸がいいよぉ」
「春になって三番目に来たから、与三でいいよ!」
子供たちの案で収集が付かなくなる前に、ルロイ先生の一言で袁傪は改名することになった。
「それでは、松戸与三ですね」
にっこり笑う、ルロイ先生。子供たちの歓声。
「与三ー!」
喜びを全身で表現する子供たちにもみくちゃにされる袁傪の肩に手をかけ、袁傪もとい与三の顔を真正面から覗き込みながら、ルロイ先生はやさしく語りかけた。
「ただいまから、ここがあなたの家です。もう何の心配もいりませんよ。」
そして、ルロイ先生は与三に大きな手を差し出した。与三の手をしっかりと握りこみ握手を交わしたが、それが激しすぎたのか、与三は再び気を失ったようだった。

目の前で繰り広げられる、「山月記」と「故郷」、「羅生門」そして「握手」がごちゃ混ぜになったような話に言葉を失っていると、背後の襖が大きな音を当てて開いた。

おどろいて振り向けば、5人の子供がわっと駆け寄ってきた。
「おばーちゃん!」
「今日は何を持ってきてくれたの?」
「何?何?みせてよー!」
口々にそういって、私の膝の上に乗ってくる。気が付けば手に先ほど目の前にはがれていた袁傪の襤褸寸前の着物とぐったりとしたチャーを両手に抱えていた。
右の襤褸も左のチャーもそれぞれお転婆そうな女の子と、活発な男の子にさらわれてしまった。
「何?これ?」
「こら、まつ、おばあちゃんにお礼をいってからでしょ。」
一番年かさと思しき娘が襤褸を手にした女の子に注意をするが、まつと呼ばれた女の子は一切聞いてない。なおも、これはなんだと襤褸と私を交互に見る。仕方がないから答えるしかない。
「ああ、それは着物だよ。母さんに渡しておくれ。」
もはや、やけである。私はこの子らのおばあ様らしい。
「ねぇねぇ、こっちは何?」
左の袖を小さな女の子がひっぱった。隣には男の子チャーを抱きかかえて上にあげたり下げたりしている。
さきほど、まつに注意を促した娘が「こら、長太郎、かわいそうでしょ!」と男の子を叱っている。
男の子は「いち姉ちゃんのケチ」と口答えした。チャーはぐったりしていて動かない。まるで毛皮のコートか襟巻のようだ。
「ああ、つくりかけの毛皮のコートかねぇ。冬にまとうといい。」
こうなったら、口から出まかせである。いち、まつ、長太郎…あとの二人はとく、初五郎…。思い出した。これは森鴎外、「最後の一句」だ。
開いたままの襖から、焦点の定まっていない顔をした一人の女が入ってきた。しきりに「のどが渇く、のどが渇く」と繰り言を言っている。ははぁ、これは5人の子供たちの母親だな。「最後の一句」は船問屋の主人が無実の罪で死罪になる話だった。この子供たちは死罪になった主人の子供、母親は妻にあたる。母親は突然わっと床に頽れるとにわかに詠いだした。
「ああ、お前さん。君を泣く、君死にたもうことなかれ…」

もはや、何の脈略もない。文学ごった煮もいいところだ。突然出てきた与謝野晶子に私が唖然としていると、今の今まで長太郎の腕の中で襟巻よろしくぶらりと垂れ下がっていたチャーがぱちくりと目をしばたかせた。
「おお、これはどういうことだ!?…我が家ではないか…。」
なんと、この「故郷」のチャーは「山月記」の虎と、「最後の一句」の父親まで兼ねているとは。
チャーが動いたことに気が付いた長太郎が
「あれ?こいつ生きてるや」
といえば、隣からチャーを撫でていた、とくが
「この辺では見かけない動物だね」
と答えている。
とにかく撫でまわされもみくちゃにされるチャーを見て、私はチャーに一抹の同情を禁じえなかった。
チャーは長太郎の手から、とくの手へ、そして襤褸を放り出したまつや初五郎の手へ。子供たちが集まれば珍しいものは奪い合いである。
この日からチャーは俗悪な子供たちのもとで過ごすことになったのだ。
最後にいちがひょいとチャーの首根っこを摑まえるとそのまま襖の向こうへと戻っていく。姉妹、兄弟たちはそのあとをわいわい言いながらついて行った。

チャー、死ぬなよ、と心の中でつぶやいて、いち一行を見送っていると机の方からまた声がした。みれば、松戸与三がどこかへ旅立つようで、ルロイ先生や子供たちと別れの挨拶をしていた。
「それでは、しっかり頑張りなさい。」
ルロイ先生は与三の方に掲げた右手の中指を人差し指にからめて、幸運を祈った。
「はい、行ってまいります。」
はきはきと答える与三に天使園の子供たちが一斉に手を振った。

松戸与三とくれば、もはや疑いようはない。次に続く一文はこれである。
『松戸与三はセメントあけをやっていた。』

その時、背後でかすかなうめき声がした。見れば、先ほど出て行ったはずのいちが、チャーにまたがり一本ずつ毛を抜いている。
それに気が付いたのは私だけではない。机の上にいたはずの小人、松戸与三が見れば普通の人のサイズになって、いちとチャーに近づいていったのだ。
「君…」
与三の声につられて、ふいをつかれてびっくりしたいちは、はじかれたように与三を見上げた。
「チャーをいじめてはいけない。話してやりなさい。」
与三がこんこんととくと、いちは逃げて行った。
逃げるいちを見送る与三に押入れの方から松戸さん、松戸さんと与三を呼ぶ声がする。与三はあわてて押入れの方によれば、押入れの中に誰かいるのか、押入れの襖を開けて、何やら受け取った。箱のようだったが、四隅が釘で打ち付けられたいた。与三は開けようと奮闘するがびくともしない。
「思わせぶりしやがらぁ。釘づけなんぞにしやがって。」
そうつぶやいた与三は石の上へ箱を打っ衝けた。が、壊れなかったので、この世の中でも踏み潰す気になって、やけに踏みつけた。
彼がもらった小箱の中身は弁当であった。
「うわっ!俺の弁当がぁ…!!…これなら食えそうだ…。」
彼がつぶした小箱の中からは葉蘭につつまれたニンジンが出た。そんな与三の背後にいちが立った。
与三がいちに気が付く。
「おめぇはさっきの…?」
不思議そうに問う与三に、いちが静かに口を開いた。
「…はい。私は父が行方不明との報を受け、父の身を案じるいち孝行娘です。注意をありがたく思っています。貧困生活に加え、父がいなくなってからというもの、借りた金の利子が増えるばかりで…。いらいらする気持ちをまぎらわすつもりで、先日おばあ様がつれてきたチャーの上にまたがってみたりしました。そのほかのものには乗れなかったのです。そのうちに、一本毛を抜いてチャーが「チャー」となく限り、父は生きていると心の中でかけを始めたわけです。抜くのはとても恐ろしい気がしました。その時、注意をうけて、どきんとしました。こんなことを話す必要はないのですが…話しているうちは気がまぎれるのです。笑ってください…!定めの恨みをチャーにはらす、哀れな娘を。」
夕日がすっと差し込んだ。
与三は、気難しい顔の老紳士だが、涙もろいたちらしかった。
「う…な、なんてかわいそうな娘だ…。おじさんでよければ何でもたすけてやるぞ。」
与三がうっかり口にした言葉でいちの顔はぱっと明るくなった。
「ええ!?本当ですか?」
「うむ、士に二言はない。」
力強くうなづく与三に、いちは少し戸惑いながらもこういって、与三の袖を強くつかんだ。
「は、はぁ…ではひとまず、我が家においでください。」
与三は船乗り業桂屋の主人太郎兵衛の家の使用人に収まった。一方、与三からかつて引剥ぎをした下人のおばあ様は与三をおそれて家に来ることはなくなってしまった。下人の行方は誰も知らない。

私の勉強部屋に、続々と太郎兵衛一家が集まってくる。
「使用人、飯だ飯だ」と子供たちに言われるがままに忙しく働く与三に会うべく、最後に背後の襖から入ってきたのはルロイ先生であった。
「与三さん、元気ですか?」
ルロイ先生の来訪に、与三はすぐさま駆け寄った。
「先生!?どうしてここに?」
ルロイ先生は優しく穏やかに与三に答えた。
「実は、あなたに別れを言いに来ました。明日、カナダに帰ります。」
「先生、そんな…。」
ルロイ先生と握手をしようとした与三に子供たちが「ごはんごはん」とせがんだ。
「へ、へい。すぐ用意しますから…」
使用人の仕事にいそしまざるを得ない与三をルロイ先生はほほえましく眺めながら
「与三君は、ウェイターになったんですね…」
とうなづいている。
そこへ、のそのそとくたびれたチャーがやってきた。
ルロイ先生はチャーに気が付くと、何か思ったのか、チャーのそばへとかがみこんだ。
「Wao…見たことない動物ですね…。あなたは…もしかして、以前人間だったのではないですか?私にはわかりますよ…。」
ルロイ先生の温かなまなざしに、チャーも安心したのか、妻子に聞こえぬよう、静かに語り始めた。
「いかにも…自分は昔、人間であった…。はじめはおのれを懼れ、空費されたとばかりに過去を恨んだ…。しかし、今思いなおすと、なぜこんな運命に…虎になれず、チャーになったかわからぬと先刻はおもっていたが、しかし、考えようによれば、思い当たることがないわけでもない。虎であったなら、こうして家族とともに生活できはしまい。虎よりチャーのほうが…可愛いしな。今ではこうなってしまったことは金銭的なこと以外では後悔していない…。俺の毛皮が抜かれたのは、コートのためばかりではない…。」
チャーの告白にルロイ先生は優しげにチャーの背中を撫でた。
「Oh, I'm sorry to hear that」
ルロイ先生の優しさにチャーは言葉をつづけた。
「最後に一つ、頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼らは未だここにいる。もとより、俺の運命については、知るはずがない。そこで、俺はすでに死んだと彼らに告げてはもれないだろうか。決して今日のことだけは明かさないでほしい。」
チャーの最後に残った李徴としての願であった。
しかし、ルロイ先生はこの要求をはねのけた。
「いいえ。それはできません。あなたは最後まで、最愛の人々にウソをつくのですか…。あなたの死を知って嘆き悲しむ姿を見たいのですが…」
ルロイ先生の言葉に黙り込むチャーにさらに先生は畳み掛ける。
「どうか、正直でやってください。」
しばらくの沈黙のあと、チャーは観念したように答えた。
「わかりました。自分に正直に生きましょう…。」

一家は食卓を囲み、ルロイ先生とチャーは静かに手を取りあって見つめ合っているという比較的静かな場面に突如として乱入してきたのは、久方ぶりであって畑を駆け巡っていたルントウと魯迅であった。
チャーを見つけたのは魯迅であった。
「あんなところにいるよ!」
ルントウが意気揚々として答える。
「やったね、長年追いかけた甲斐があったな!」
いうが早いか、魯迅とルントウがチャーめがけて飛びかかる。それをひょいとチャーがかわす。
「くそう、逃げ足だけは天下一品だな!」
ワイワイと楽しげな食卓。追いかけっこで楽しげなルントウと魯迅、そしてチャー。
「私も混ぜてほしいですよ。」
そうルロイ先生が言うほどに、文学ごった煮は大団円であった。
そうして、まるでワイワイとにぎやかに大団円を迎えた舞台の幕が下りる間のひと時のように、ぴたりとルントウが立ち止まり、私の方をしっかりと向いたかと思うと、高らかにこう告げた。
「チャーに徹し、西瓜に徹してきた者のみが、とにかく、物のありかたを変へてきた。それだけでよからう。それならば、男子一生の業とするに足りるのである。」

「あんた、電気もつけないで何してんの。夏休みの宿題、やらなあかんで。」
背後から声がして、部屋がぱっと明るくなった。振り返れば、買い物から帰ってきた母がいた。すでに夕方で薄暗くなりはじめていたようだった。
訳もわからず、母を見て、顔を戻して前を向けば、机に広げられた教科書とノート。ノートに書かれた「山月記」の冒頭、ほんの数行。
「宿題、忘れんといてや」と国語の先生に言われたような気がした。



















 
その昔、友人と合作して学校行事用コントの台本にしたものを、文章に書き起こしました。
国語の授業が懐かしい。

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