4 君が知らないこの町で(3)
あの子は湖に落ちてきた。
捨てられた町が沈む湖の底へぶくぶくと気泡を吐きながら落ちてきた。薄い青色の膜がかかった水の世界で、廃墟となった町に少年が降ってきたのだ。時々、遺体が降ってくることはあったが、あのとき、あの子はまだ生きていた。
人には姿が見えないただの妖精だったボクは、突然の子どもの来訪に呆気にとられ、湖の底から見上げていた。
ボクは、いつからここにいるのだろう。
魔法の雨が原因で、人の世界と妖精の世界の境界線が曖昧になった。それが原因なのかわからないが、気づいたら湖の畔にいた。
ひとりはつまらない。子どもの輪に混じって遊ぶうちに、ボクも自分の町が欲しくなった。
ひとりはさみしい。湖の底に捨てられた町に住み着き、子どもと遊べない時間は人の真似事をして遊んだ。ガラクタ山に行き、捨てられたものを湖に持ち込んで自分の部屋を作ってみた。
仲間はいた。いや、同類はいた。ボクのように雨降り町にこっそり紛れ込んでいた。妖精の世界には色々な奴らがいる。たいていの奴らは意思の疎通が図れなかった。同類であっても「妖精」ではない。人とは違う異質な存在。それだけが同じだった。同類は増えたり減ったりして一定数いた。自分の世界の帰り方を知っていたのかもしれないし、ボクのように忘れたのかもしれない。人を巻き込む奴もいたが、巻き込まれていないのに魔法のせいにする人もいた。
あの子の手には懐中時計があった。水上からあの子を必死に呼ぶ声が聞こえた。おそらく父親だ。
ボクはあの子を知っていた。
何度か輪に混じって遊んだ覚えがある。いつもにこにこ笑って、自分の意見を言わない子どもだった。そして、時々忘れられていた。かくれんぼは見つからずに置いていかれていた。鬼ごっこは誰も追いかけてくれなかった。ボクみたいに透明じゃないのに存在感が薄い子だった。「顔が可愛いから」という理由で誘われて、誰もあの子を知ろうとはしなかった。
水上からくぐもって聞こえる父親の声が、途中から懺悔になっていた。こんなはずじゃなかった。許してくれと。なぜ謝っているのだろう。ただでさえ、生きている子どもが落ちてきて湖の中が騒がしいのに。そんなに叫んだら皆が驚くじゃないか。眠っているあいつらが起きてしまう。
ところで、あの子は何をしているのだろう。どうして沈んでいるのだろう。死体ごっこかなと思ったとき、ふと、気づいた。
あぁ、そうだ。人は水中では生きられない。
あの子は、死ぬ。
ボクはあの子に近づいた。掴もうとした手は、体をすり抜けてしまう。物は掴めても人には触れられない存在だ。
子どもは水をたくさん飲み込んでいた。落ちてくる遺体と同じ顔になってきている。
「どうしてここにいるの」
どうせ聞こえやしない。返事なんていつものように返ってこないと思いながら、話しかけた。
「おかあさん……」
子どもの口が動いた。
虚ろな青の目は、ここにはいない別人を見ていた。
懐中時計があの子の手から離れる。咄嗟に掴み、聞こえない透明な声で問いかけた。
「ねぇ、君は死んでしまうの?」
答えはわかっているのに、なぜか聞きたくなった。あの子は死ぬ。人は死ぬ。体が人形のように動かなくなって、やがて腐っていく。腐る前に湖に捨てられ、ホタル魚が食べてしまう。
この子も、ホタル魚に食べられる。
だめだよ。
そんなの、寂しいじゃないか。
ボクはまた、君と遊びたいのに。
「死ぬな。死んだらだめだ!」
落ちていくあの子にいくら声をかけても声は届かない。妖精だから助けられない。
あの子の意識が途切れる寸前、ボクは確かに目が合った。
「お母さんを、一人にしないであげて」
水上から聞こえる懺悔はやがて涙声になった。やめろよ。騒ぐなよ。眠っているあいつらが、ホタル魚が、起きてしまうじゃないか。
それで、この子は望みはどうなるのだろう。
かくれんぼで置いていかれるだけじゃない。遺体はホタル魚に食べられて、人の記憶から薄れていって、捨てられた町のように、ボクみたいに「いたのにいない」存在になってしまうのだろうか。
だったら、せめて。
ボクがこの子を覚えてあげよう。
「その願い叶えてあげるよ」
ボクは神様じゃない。
人から見ればただの化け物だ。
だけど、その化け物は子ども好きで。
食べた子どもの姿になる妖精だ。
君が母親を一人にしないでと望むなら。
君の体を得て、君に成り代わるよ。
この町の魔法の雨が、許す限り。
「海って湖と同じなのかな」
湖畔に立つおさげがぽつりと呟いた。
海なんて知らない。ボクが知る人の世界はこの雨降り町だけだ。
伸びた藺草をかき分けて、ボクたち「けんしょうごっこ隊」は噂の湖を見つけた。ここに来るのは人の体を得てから初めてだ。湖に変わりはなかった。草木に埋もれるように囲まれ、今日もひっそりとしている。
「海はもっと広いらしいぜ」
「うみには、しおがある。なみもあれば、そこでしかとれない、さかなもいる」
「さすがお姉さん、物知り!」
憧れと尊敬の眼差しでおさげは彼女を見上げた。「けんしょうごっこ隊」に彼女が加わってからおさげはべったりだ。今までこの遊びに女の子はおさげしかいなかった。彼女が加わって嬉しいと言っていたのを思い出す。おさげにも秘密はある。なんでもないような顔をして、たくさんの不安を抱えているはずだ。
人の子どもは強くはない。
強くはないが、強く生きようとしている。
永遠ではない「子ども」という限られた時間で、たくさんの物事を飲み込み、伸びようとする。
一方、赤毛は不満顔だ。年上の見栄とやらを張れないのが面白くないのだろう。彼女と楽しそうに話すおさげを眺める赤毛を肘でつついた。
「なんだよ」
「不機嫌面」
「うるせぇ」
睨まれた。
言い返してこないあたり、わかっているのだ。
赤毛はお調子者のように見えて意外に冷静だ。周囲を纏めるための発言はするが、自分の希望を口にしない。何気なく人の顔色を窺う癖は、赤色の髪が原因だろう。
この町では珍しい炎の色。炎の色に救いを求めた人からは神聖視され、同じ年齢の子どもからは揶揄された。生まれた頃は大変だったそうだが、今はだいぶ落ち着いたらしい。それでも奇異の目はある。赤毛と歩いていると、時々、その髪に注がれる無遠慮な目があった。
赤毛もおさげとあの子と同じ。
何かに堪えながら生きている。
「お得意の年上風は吹かせないのか」
「吹かせてねぇよ」
年上の赤毛がボクの学級に入ってきたとき、目立たないようにやり過ごそうとしていた。教室の隅で読書をし、話しかけても愛想笑いしか返ってこない反応に苛立った。
赤毛は怯えていた。
彼を怯えさせる状況にした環境と、それを黙って見ている奴らに腹が立った。
怯えなくていい。
ボクは君と遊びたいんだ。
「……別に、吹かせればいいだろ」
赤毛はきょとんとした。目を逸らし、細く息を吸い込んだ。
「お、おさげは、赤毛のこと、ちゃんとわかってると思うよ。おさげはおさげで、今まで女の子がいなかったから寂しかったんだと思う。だからって、あ、赤毛が「けんしょうごっこ隊」の隊長であるのは、変わらないだろっ」
普段は憎まれ口ばかり叩く唇を懸命に動かす。素直に伝える行為はどうしてこんなにも難しいのだろう。大切にしたいと思う人ほど、胸の内から芽生えるもやもやしたものが邪魔をしてくる。
そのたびに、あの子に成り代わっても「あの子」にはなれない現実を知る。
赤毛の顔を見るのが怖くなった。俯くと、いきなり頭を押さえつけられた。
「なにすんだよ!」
「ムギちゃん!」
「ムギって言うな!」
「俺はここの隊長でいいんだよな! いいんだよな!」
何度も確認してくる赤毛は、なぜか必死で、真剣で、何かにすがりつくようで。
「俺がこの町から離れても、いいんだよな!」
そうだ。赤毛だって、本当は。
「……いいよ」
そのとき、赤毛はどんな顔をしていたのだろう。
「ありがとな」
ボクの頭をぐしゃぐしゃと撫でたのは、顔を見られないよう誤魔化すためだったに違いない。