6 君に恋したこの町で(2)
人の体を得て初めて知ったのは、苦痛だった。
あの日も雨が降っていた。木の葉を叩く雨音は優しかったが、雨は気温を下げ、雨粒に当たり続ければ体温も下がるのだと知った。
首を、絞められた。
首を絞めたのは、あの子の父親だった。
あの子を食べて少年の姿になってから、まず人の体の重さに驚いた。水に沈もうとする体をあちこち動かしてなんとか浮上できた。四つん這いになって岸辺に上がり、飲み込んだ水を吐いた。鼻も目も喉も苦しかった。これが人の体。人の重さ。命の重さだ。けれどもう、あの子はいない。息を切らしながら、掴んでいた懐中時計を握りしめた。
空を仰ぐ。そこには見慣れた曇天が雨を降らしていた。水から逃げてもまた水がある。ぼんやりと雨に当たっているうちに、寒気を感じた。人の子どもは時々風邪をひく。風邪をひいたら、遊ばずに数日間眠っている。それは困ると周囲を見回した途端、目が合った。
男がいた。ボクを凝視していた。腰を抜かしたのか立ち上がれなくなっている。口をぱくぱくさせて何を言っているのかわからない。
あぁ、そうだ。こいつはあの子の父親だ。
湖畔で叫んでいた人だ。懺悔を繰り返し、あの子を何度も呼んでいた。男は蒼白になっている。もしかしたら、上手くあの子の姿になれてないのかもしれない。体を見回し、おかしなところがないか確認した。大丈夫。ちゃんとあの子になっている。それなら、なぜあの子の父親はボクにあんな視線を向けてくるのだろう。
まるで、怯えているみたいだ。
「……父さん?」
試しに呼んでみた。
男は引きつったような声をだし、お尻をつけたまま後ずさった。
「父さんってば」
足を踏みだすと、男は叫んだ。
「くっ、くるな!」
拒絶された。
ボクはあの子の姿になっている。声も変わっていない。あの子はよく笑っていたのを思い出し、笑いかければ男は頬をひくひくと痙攣させた。
「なんで、どうして、生きているんだ」
あの子は死んでいる。成り代わっているボクに、どうして生きているんだと聞かれても答えられない。黙っていればそれが答えだと思ったのか、震える声で言い放った。
「違うんだ! 誤解なんだ!」
突然、弁解を始めた。
「仕方なかったんだ! 俺は金がない。けれど家は貧乏だ。連れ子のお前さえいなくなれば、家計は楽になるんだ!」
男は唾を吐きながらまくし立てた。頬を痙攣させたままボクを見上げる。仕方なかった、こんなはずじゃなかった、許してくれと湖の中で聞き飽きた単語をぶつぶつと並べ立てた。
「だから」
男はゆっくりと立ち上がった。歩み寄るたび、男の長靴にべちゃりと泥がまとわりつく。この体よりも大きな泥の足跡をつけて来る。
「もう一回、死んでくれ」
歪んだ笑顔は、雨よりも冷たかった。
両手が首を掴み、ボクの首を絞めた。
何が起こっているのか状況を把握できなかった。容赦なく降り注ぐ雨が全身を叩く。男の手は濡れているのに熱かった。ごつごつした感触は子どもにはないものだった。大人の手は大きくて、子どもの首は細いのだと感心した。
手首を掴み、爪を立てたがびくともしなかった。ぎりぎりと絞めてくる両手から逃れず酸欠状態に陥った。
「化け物め、化け物め、化け物め」
そうか。ボクは化け物なのか。
ボクは異世界の住民で、人ではない存在だ。人の輪から外れた存在は除け者にされる。学校という世界でそういう掟があるのだと学んだ。
人の子どもにとって学校が全てだ。学校しか世界なんて知らない。他の世界に目を向けろなんて言われても難しい。だって、それしか知らないのだから。他にどこに行けと言うのだろう。
例え違う場所に行ったとしても人はいる。人の輪があって掟がある。守らなくてはいけない規律があり、守られることで保たれる社会がある。
だから、その社会から外れた存在は、ボクみたいな妖精は、人に受け入れられなくて当然だ。
ボクは化け物なのだから。
それじゃあ、あの子は化け物だったの。
あの子は、人だったのに。
そうか、ボクがあの子を化け物にしたんだ。ボクがあの子を食べたから。成り代わったから。もし、食べなければあの子は人のままで死ねたのに、ボクが食べたせいで化け物扱いを受けて父親に殺されかけている。
成り代わりるなんて始めから無理だったんだ。
ボクは「ボク」でしかなれない。
ボクは誰にもなれない。
だって、ボクは。
妖精だ。
酸素を求めるために開いた口は、故郷の言葉を紡いでいた。掠れた声でもあいつらには届く。なにしろ、あいつらを呼ぶきっかけを作ったのは男自身なのだから。
『ぎぎぎぎぎぎぎぎぎ』
男の背後に、目玉を飛びだした黄緑色の魔法生物が大口を開けていた。
男が振り返った瞬間、ぐちゃりと目玉が抉られ、悲鳴が上がった。水面に浮上していたホタル魚の群が次々と男に飛びかかった。
両手から解放され、息を吸い込む。立つことすらできず、その場に座り込んだ。
雨は降り止まない。
ホタル魚に覆われた男は徐々に小さくなっていく。高かった背が縮み、泥がついた長靴が履けなくなり、首を絞めた大きな手は噛み千切られていた。がりがりと咀嚼する音が雨に混じった。
食事を終えたホタル魚は、目玉を引っ込めさせ、煌びやかな姿に戻って湖に帰って行った。
あとに残ったのは、男の服と鉄の臭いに満ちた湖畔だった。
雨は、この血液さえを流すのだろう。
もう一度、空を仰ぐ。顔に雨が当たる。全身で雨を受け止めてながら、ふと気づいた。
ボクは、誰にも望まれずにここにいるんだと。