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肌寒さが僅かに残る四月。大地を照らす日の光を食い破るように、新しく独立国として認められたばかりのゼロへ魔物たちが攻め込んだ。
木造の家はいともあっさり破壊され、町を好き勝手に荒らす。無人と勘違いして、早々に立ち去ってくれるのを誰もが願った。
しかし魔物たちは、最初からそこにいるのがわかってるかのように、王城代わりの領主の館を目指してきた。
ランジスの住民が魔物の姿を発見してからわずか二時間後。魔物の軍勢が、固く閉じられた門への攻撃を開始した。
名目上だけ王城にしたところで、実態は領主の館。町にある家よりは頑丈だが、城ほどの防御力や耐久力はない。
食料も数日分ほどしかなく、篭城戦をするには圧倒的に足りない。誰が見ても、勝ち目のない戦いだとわかる。
「……敵に囲まれる前に、拠点を放棄します。住民の皆さん、先に裏口から非難してください」
ミルシャの言葉に、頷く住民はひとりとしていなかった。
どうして動かないのか。疑問を目に現したミルシャへ、老齢の男性が住民を代表して答える。
「逃げろと言われても、ワシらに行くところはありません。捨てていった家族が、受け入れてくれるはずがないですからな」
「だ、だけど……」
「不思議なものですな。最近では辛い思い出しかないはずなのに、故郷が愛しくてたまりません。逃げる当てがないのであれば、ワシはこの地で死にたいのです」
老齢の男性だけでなく、他の住民も同じ気持ちだというような顔をした。
「……良い民に恵まれましたな、陛下」
マオルクスが言った。元騎士団長だと、戦いが始まる前に自己紹介してもらった。
他の騎士たちも実力はあるみたいだが、いかんせん多勢に無勢。魔物たちから町や住民を守り切れるとは思えない。
それでも住民たちのかすかな希望を胸に、わずか数名の騎士たちは果敢に戦うつもりみたいだった。
「……いいえ、愚かなだけだわ。逃げるチャンスがあるというのに、誰ひとりとして、ここを出ようとしないのだから」
ミルシャは涙ぐんだ。住民を逃がす時間を稼ぐために、騎士たちとともに死のうとしていたのは皆がわかっていた。もちろん、ラースも。
「では、出陣しますかな。もうそろそろ、出入口の扉も突破されるでしょう」
マオルクスが、騎士たちを引きつれてエントランスへ向かう。住民たちは、二階にある元領主の部屋へ避難する。そこが数ある部屋の中で、一番頑丈だった。
ぞろぞろと移動する中、女王のミルシャだけが一階へ残ると言った。
「私が女王だというのなら、ホールへいようと思います。あそこが謁見の間になるのでしょうから」
魔物たちがミルシャを討って満足すれば、住民は助かるかもしれない。そんな計算をしているのだろう。
住民たちは揃って反対したが、ミルシャは考えを変えなかった。
「たった一日だけの女王だけど、皆のために何かしたいの。さあ、早く非難してください」
ミルシャが笑った。いつも以上に、にっこりと。
住民たちは何も言えなくなり、案内役のメイドを先頭に二階へ歩き始める。
けれど、ラースだけは足が動かなかった。ミルシャと離れたくなかった。
エントランスへ向かった騎士たちが魔物との交戦を開始したのか、甲高い金属音などが聞こえてきた。
「……始まったみたいね。さあ、ラースも早く」
「でも……」
「大丈夫だから、私のことは気にしないで。騎士の人たちと一緒になんとか粘っていれば、レイホルンから援軍が来てくれるだろうしね」
ミルシャは明るく言ったが、そんなはずがないのはラースにだってわかる。
レイホルンがランジスの町をわざわざ独立させて、ひとつの国としたのは土地や住民を見捨てるためだ。
余計な戦力を使いたくないからこそ、魔物が侵攻してくる兆候に気づいて独立国家を誕生させた。レイホルンとの繋がりをなくし、援軍を送らなくてもいいように。
そうした事情は、ミルシャの方がラースよりもよく理解してるはずだ。
最後まで彼女は泣き言を口にせず、ラースを安心させようする。
「ぼ、僕は……」
「……ねえ、ラース。私……貴方と出会えてよかった。いつかあの丘で、またお話しましょうね」
いつもの笑顔を残して、ミルシャが背を向けた。謁見の間と呼ぶホールへ入り、女王としての最期を迎えるためだ。
僕は……彼女のために何もできないのか。唇を強く噛んだ。
母親が亡くなった際に出会い、それからたくさんの話をした。ラースのくだらない話にも笑ってくれた。思い出が頭の中へ蘇ってくるたび、胸が張り裂けそうになる。
死なせたくない。彼女を――ミルシャを。
「僕に……僕に力があれば……!」
その場に膝をついて、両手で地面を強く叩いた。ドンという音が響く。エントランスでの戦闘の音はさらに激しくなり、館全体が揺れる。
元領主の部屋に避難した住民たちは、肩を寄せ合うようにして、お互いを励まし合ってるはずだ。もしくは、最後の思い出話に花を咲かせているかもしれない。
今さらラースがミルシャを追いかけたところで、彼女は喜ばないだろう。ホールへ続く大きな扉に鍵をかけてる可能性もある。
「僕は……何もできないのか……」
なんとか立ち上がったものの、足にはろくに力が入らない。ふらつく足取りで、あてもなく歩く。
「力が……力が欲しいっ! こんな状況を、簡単に覆せるような力が!」
――ならば、与えよう。
叫んだラースリッドの耳に、どこからか声が届いてきた。
側には誰もいない。騎士や魔物たちの姿もない。それなら、さっきのは一体誰の声なんだ。
戸惑いとともに辺りをきょろきょろ見回すも、やはりこの場にはラースひとりしかいない。
「幻聴……? それにしては、やけにはっきり聞こえたような……」
――力を欲するのだろう? ならば、こちらへ来るがよい。
今度は、より鮮明に聞こえた。
声のした方をよく確認すると、地下へ続くような階段があった。
ゴクリと息を飲んでから、恐る恐る階段を降りる。その先に広がっていたのは、予想どおりの地下空間だった。
地下牢の他に、ドアがひとつだけある。もしかしたら、ドアを開けた先の部屋から、誰かが話しかけてきたのかもしれない。
そう考えてドアへ向かうと、そちらではないと声が聞こえた。頭の中へ直接響くような感じだ。
――壁をよく見てみろ。小さなくぼみがあるはずだ。そこへ指を入れろ。
指示されたとおりにすると、目の前の壁がゴゴゴと音を立てて動いた。左右に開き、人がひとり通れるくらいのスペースができた。
目を凝らして奥を見る。暗闇の中で、何かが輝いている。ここからではよくわからないので、近づいてみる。
恐怖はあるが、元領主の部屋へ避難したところで、最終的には魔物に殺される可能性が高い。
それなら、力をくれるという声に従ってみるのも悪くない。
ミルシャたちを守れる力を手に入れられるのであれば、命だって取引材料にしてやる。
強い覚悟を持って、ラースリッドは闇の中を歩いた。
光が届かない地下室に隠された通路は狭く、誰かに襲われたら逃げようがなかった。
余計に緊張感が強まり、頬に冷たい汗が流れる。
怖いからといって、足を止めるわけにはいかない。マオルクスたちがどれだけ強かろうと、いつまでもエントランスで魔物の侵攻を食い止められるはずがなかった。
――そうだ。そのまま、歩いてこい。
声に従って歩を進めたラースを待っていたのは、台座に突き立てられたひと振りの剣だった。輝いていたのは台座につけられていた宝石で、剣自体は闇よりも濃い漆黒だった。
「我はこの地を守るために作られた聖剣。窮地に陥った際に、我の声を聞ける者が現れるのをずっと待っていたのだ」
剣が話すなど、聞いたこともない。聖剣だというのに、漆黒の刃を備えているのも不思議だった。
光をもたらすというよりは、世界を闇に染めそうな禍々しさが伝わってくる。
「臆する必要はないぞ。我ならば、間違いなくお前に力を与えられる。欲していたのだろう? どんな者も滅ぼせる強い力を」
ラースリッドは黙って頷いた。台座に刺さっている剣が聖なるものであろうとなかろうと、魔物たちからミルシャを守れるのであればどうでもよかった。
「ならば抜け。我が刃をお前の力とし、立ち塞がる敵をすべて薙ぎ払えっ!」
怒号が頭の中に響く。本能が、漆黒の剣を危険だと警告してくる。
そんなことはわかっているさ。でも、僕はミルシャを守りたい。両親が亡くなって、絶望していた僕に光を与えてくれた女性を。
両手で剣の柄を掴む。両手に、ひんやりとした感触が伝わる。
誰にも確認しないままで、本当に抜いてしまっていいのか。普段なら、絶対にしない行為だ。
不安に思ったのも一瞬だけ。ミルシャたちを救いたい思いが、すべてを上回った。
「うわあ――っ!」
声を上げて、剣を台座から引き抜く。予想よりも、ずっと簡単だった。
「ぬ、抜けた。これで……!」
「ウワーハハハっ!」
希望を得られると思ったラースの両手の中で、漆黒の剣が高々と笑う。
「よくぞ、我を抜いた! 愚かな人間の子よ。おかげで自由になれたぞ!」
「え? ど、どういう……ことなの?」
「ククク。よもや本当に、我を聖剣などと信じたわけではあるまいな。我は魔剣ぞ! 所有者の体を乗っ取り、生ける屍とする暗黒の剣ぞ!」
「……そ、そう……なんだ……」
「ほう? 騙したのかと騒ぐのかと思ったが、どうやらそれなりの覚悟はあったみたいだな」
頭の中へ直接話しかけてくるような剣の言葉に、ラースは静かに顔を上下に動かした。
「君が魔剣でも……僕が生ける屍とやらになっても構わない。ミルシャを……この館にいる人たちを助けて……!」
「フン。自分の命を犠牲にしても、助けたい者のためになればと我の力を望んだのか。ならば残念だったな! 我はそうした展開を一番嫌うのだ!」
「ざ、残念って……た、助けてくれるんだよね? 僕に力を与えてくれるんだよね!?」
「戯言はやめてもらおうか。我にそのようなつもりはない。怒っても無駄だぞ。お前の肉体は、すでに我のもの。指一本たりとも自由には動かせぬ。心配せずとも、意識はやがて闇に飲み込まれる。完全に我と一体化するのだ。それまでの間、黙って見ているがいい。お前が守ろうとした者たちが、次々と惨めに死んでいく様をな!」
次々と浴びせられる無慈悲な通告で、目の前が暗くなる。台座から引き抜いたのが魔剣であろうと、ミルシャたちを救えるなら、それでいいと思った。しかしラースにその機会は与えられず、大好きな女性が命を奪われる瞬間を黙って見ていなければならない。拷問以外の何でもない展開に、耐えられるはずがなかった。
「そんなの……絶対に嫌だっ!」
「フハハ! 叫んだところで、もう遅い。お前の体は……な、何っ!?」
両手の中にある漆黒の魔剣が驚愕の声を上げた。嫌だと叫んだラースが、あっさりと手を動かしたからだ。
「あ、あれ? 手も足も自由に動く……」
「そ、そんなバカなっ!? 我の呪いに耐えられる者など、この世にいないはずだ! 一体、どうなっている!?」
魔剣自体が驚いているのだから、ラースの状態は想定外なのだろう。
足が動くので、とにかくラースは階段の近くまで戻った。
少し広い場所に出たところで、軽く剣を振る。衝撃波みたいなものが発生し、硬い壁をやすやすと切り裂いた。剣はそれなりに重いが、扱えないほどではなかった。
「これなら……なんとかなるかもしれない……!」
階段を一気に駆け上る。手に持つ魔剣が何か叫んでるみたいだが、立ち止まって聞いている暇はなかった。