5
せっかくだからと、ラースリッドは家の中で眠った。叔母の息子が残していったベッドを使わせてもらった。食料もわずかに残されていたので、昨夜は久しぶりにお腹いっぱいになった。満足するまで食事ができて、ゆっくり睡眠をとれるのがこんなに幸せだとは思わなかった。あまりにも満ち足りすぎているので、よからぬことでも起きるのではないかと不安になった。
毎日の習慣というのはなかなか抜けないもので、掃除をする必要もないのに暗いうちから目が覚めた。せっかくだから何かしよう。一張羅のままで行動を開始すると、家のドアが遠慮気味にノックされた。
「ラース君、もう起きてるかしら」
ノックのあとに届いてきた声で、家にやってきたのは近所に住む女性のメニルだと知る。
「メニルさん。一体、どうしたんですか?」
内側からドアを開けると、にこやかな笑みを浮かべたメニルが立っていた。
「ひとりで食事をするのも寂しいから、一緒にどうかなと思ったの」
メニルの手には、パンとジャムがあった。ひとりで食べきれる量ではない。恐らくは、ラースの分も持ってきてくれたのだ。
「で、でも、悪いですよ。それはメニルさんのご飯ですし」
「気にしないで。置いていく私を不憫に思ったのか、食料とお金だけは多めに残していってくれたのよ」
笑顔の裏に、心細さみたいな感情が見え隠れする。いきなりひとりにされて、メニルも不安なのだ。同じ立場であるラースを気遣いつつ、話し相手も欲したのだろう。
「わかりました。では、ご馳走になりますね」
ラースがそう言うと、メニルはさらに笑顔を輝かせた。二人でテーブルにつき、残っていたサラダなどを並べる。明るくもないうちから朝食をとるのは変な感じだが、たまにはこんなのもいい。家族に捨てられた翌日なら、なおさらだ。
「ラース君はよく休めた? 実は私、あまり眠れなかったの……」
そうだろうなとラースは思った。人に優しいということは、それだけ繊細な一面を持ってるともいえる。どこでもすぐに寝られるのが特技みたいなラースにはない悩みだが、メニルにとっては深刻かもしれない。
「そうなんですか。昨日の夜に、あんなことがあったばかりですからね……」
ランジスの町に住む人々が、大挙して王都へ引っ越した。ラースやメニルみたいに、連れていってもらえなかった住民もいる。そうした人たちは、肩を寄せ合うように生活しているのだろうか。ふと気になった。
「お手伝いにいっていた家の人たちも引っ越したみたい。仕事もできないから、暇になってしまったわね」
「住民の数自体が減りましたからね。食料の調達から考えていかないと……」
「うん、そうだよね。フフ。ラース君は強いね。私なんて、昨夜から戸惑ってばかりだったのにな」
強くなんてないですよ。心の中で言った。両親がいた頃から、生きるのに一生懸命だっただけだ。明日の心配をするよりも、今を生き抜かなければならない。不安を覚えたりもするが、ひたすら目先のことに集中する癖がついた。おかげで昨夜もほとんど悩まずに、ぐっすりと眠れた。
それでも、誰かと会話できるのは楽しかった。周囲の目を気にせず、家の中でゆったりとお喋りできたのはいつ以来だろうか。
「そろそろ外も明るくなってきたわね。残った住民の人たちを集めて、これからどうするのか話し合いましょうか」
先ほどから外が少しだけ騒がしくなってきたので、もしかしたらすでにメニルが言ったことを実行してる人たちがいるのかもしれない。提案に賛成のラースは、まずは食後の片づけをするために立ち上がった。
魔物が攻めてきたぞ――。
怒鳴るような声が、家の中まで届いてきたのはそんな時だった。
「え? 魔物って……」
顔面を青くさせたメニルが、慌てて家の外へ出る。外はすでに明るく、町の中央らへんにたくさんの人が集まっていた。そこから、甲冑を身に纏ったひとりの騎士らしき男性がやってきた。
「君たちはランジスの住民だな。急いで領主の館……いや、城へ避難するんだ。女王様の命令だ」
矢継ぎ早に言われても、意味がわからない。領主の館を城と呼び、さらには女王様という単語まで出た。政治情勢に疎いラースでも、レイホルンを治めてるのは国王だと知っている。
「あの……い、一体何を言ってるんですか?」
「すまないが、詳しく説明してる暇はなさそうだ。城へ避難したら、他の住民に事情を聞くといい。ランジスが独立国家になったことも含めてね」
それだけ言うと、騎士らしき人物は他の家も見て回るからと立ち去った。どうやら、町に残っている人たちに避難を促しているらしい。
「ラ、ラース君、どう思う? 独立国家って……」
「わかりません。とりあえず外に出ましょう。誰か、事情を知ってる人を探さないと」
不思議と慌てたりはしなかった。昨夜の異様な光景を見た時点で、何が起きてもおかしくないと理解できていたおかげかもしれない。
後片付けを放置して家を飛び出す。町の中央には、立札らしきものがある。昨夜のうちに設置されたのだろう。
メニルとともにその場へ行くと、見覚えのある老人が声をかけてきた。
「メニルにラースか。どうやらワシらは、レイホルンから見捨てられたみたいだぞ」
老人が指で示した先にある立札には、ランジスの町が独立して、ゼロという国家になると記されていた。
取り乱したメニルが老人に説明を求めるが、満足する回答を得られるはずもない。
「とにかく、女王様から領主の館へ非難するように命令が出された。お前たちも急げ。数少ない……新国家の住民なのだからな」
老人が自嘲気味に笑った。頷いたメニルが急ごうと言ってきたが、ラースには国の独立よりも気になるところがあった。
立札には初代女王として、ミルシャの名前が書かれていた。まさか、自分が知っているあのミルシャなのだろうか。気になったラースは、どうしても真相を確かめたくなった。
「ごめん。メニルさんは先に行ってて。僕、用事を思い出した」
それだけ言うと、驚くメニルを振り切って駆け出した。目指すのは、ラースの母親のお墓があるいつもの小高い丘だ。
息を切らして到着するも、目当ての女性の姿はなかった。当たり前かとも思う。ミルシャが本当に女王様なのだとしたら、残された住民を守ろうと躍起になっているはずだ。
いつ、どのくらいの魔物が攻めてくるのかはわからないが、新しく独立した国を守るのは不可能に近い。どうせ死ぬのなら、せめて母親が眠る場所がよかった。
「……もうすぐ、そっちへ行くよ。父さんと一緒に、僕を迎え入れてくれるよね」
しばらくぼーっとしたあとで、ラースは母親のお墓に話しかけた。言葉は返ってこないが、頷いてもらえたような気がした。
「……泣き虫なのは、まだ治ってなかったのね」
母親のお墓の側で、ゆっくり眠ろうと思っていたラースの背中に声がかけられた。聞き覚えのある女性の声だ。
「ミルシャ?」
振り返った先にいたのは、いつもこの丘で会っているミルシャだった。
「フフ。やっぱり、泣いてる」
ミルシャに指摘されて、頬が熱いことに気づく。どうやら、自分でも知らないうちに涙を流していたみたいだった。慌てて、服の袖で目元を拭いた。
「魔物が攻めてくるというのに、こんなところでどうしたの? もしかして、私を待っていたのかしら」
「うん。ミルシャを探してたんだ」
素直に頷くと、ミルシャはやっぱりねと笑った。いつもみたいに、ラースの隣へ腰を下ろす。こうしてると、魔物が攻めてくるというのは何かの冗談に思えた。
「ミルシャはさ……女王様なの?」
質問すると、ミルシャは「そうよ」と肯定した。
「ラースには町の娘だって嘘をついていたの。私が王女だと知ったら、気軽にお喋りをしてくれなくなると思って。ごめんなさい」
「そうだったんだ。でも……王女様だったなら、話し相手には困らなかったんじゃないの?」
「それなら、ラースと話すのを楽しみに、この丘へ毎日のように来たりはしないわよ。私ね……王妃様の子供じゃないの」
母娘ともども国王に引き取られたミルシャは、妾の子として辛い仕打ちを受けた。母親が流行り病で亡くなって以降は、扱いがさらに酷くなった。王都から南端のここランジスへ移動させられ、領主の館でメイドも同然に働かされた。
いっそ立場を捨てて逃げたかったが、そのせいで優しくしてくれた父親に悪影響が出るのは避けたい。王妃や元の領主らの仕打ちに、耐えるしかなかった。
話を聞くほどに、ラースは自分と境遇が似てると感じた。ミルシャも同じ印象を抱いたからこそ、何年も会話だけをする関係が続いたのだ。
それも今日、終わりを迎えるかもしれない。なんだか、無性に寂しくなった。
「魔物が……攻めてくるんだよね」
「……ええ。結構な数のね。真っ直ぐにランジスを目指しているみたい。レイホルンでは、事前に魔物の動きを察知していたみたいだから、間違いないわ」
「事前に、か……そっか」
詳しく説明されなくとも、独立国家となった時点でこの町は見捨てられたのだと理解した。
「各家庭には、王都へ避難するように通達があったわ。一部を除いてね」
ランジスの町の住民を、王都は残らず受け入れようとしなかった。優秀もしくは生産性のある民だけを求めたのだ。
結果として、ラースリッドやメニルみたいな人間は置いていかれた。さほど裕福ではない家庭も、自分たちの生活のために老人などの弱者を切った。
ゼロと名付けられた独立国家に残ったのは、役に立たないと判断された者ばかりだった。
「どうして、この国の名前をゼロにしたの?」
何気なく、ラースは聞いた。
「……新しく、一から国を作り上げるためよ。精霊の祝福がなかろうと、妾の子だろうと虐げられないような……ね」
「そっか。よく考えると、いい名前だよね」
ミルシャが、そうでしょと笑った。春の風が、かすかにミルシャの髪の毛を揺らした。心地よい香りが、ふわりと鼻先へ漂ってくる。
平和なワンシーンも、残り僅かな時間で破壊される。妾の子だからという理由で、ミルシャもレイホルンから見捨てられた。
それでも彼女は王女として、住民を守るために全力を尽くそうとしている。
「さあ、そろそろ城へ戻りましょう。私たちの明日を手に入れるため、まずは魔物を追い払わないと」
昨日同様に、ミルシャが先に立ち上がる。伸ばされた手を、ラースリッドはしっかり握った。伝わってくる体温が、愛しさを生む。死なせたくない。強く思った。
だがラースリッドには、彼女を守るだけの力がない。魔法も使えない。できるのは、最後の瞬間まで一緒にいることくらいだった。
ごめんね、母さん。僕……最後はミルシャと一緒にいるよ。でも、死んだら紹介しに行くから、楽しみに待っててね。
心の中でお墓に眠る母親へ話しかけたあと、ラースはミルシャと一緒に町へ戻った。
大半の住民の避難は完成しており、風と緑の音だけが聞こえる。豊かな自然と、木造の家が特徴の町並みも、あと少しで破壊される。辛い思い出の方が多いのに、寂しく感じるから不思議だった。
王城の代わりとなる領主の館へ入ると、老齢の騎士が二人を――というより、ミルシャを出迎えた。
「どうやら探し人には出会えたみたいですな。女王様も、なかなか隅に置けませんようで」
「そうでしょう? モテるのはお父様に似たのかしら」
主従関係にあると思われる二人が明るく会話を交わすのは、避難中の住民の不安を少しでも軽くしようと考えてるからかもしれない。