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ミルシャとの楽しいひと時を終えて、ラースリッドは町へ戻った。あまり遅くなると、叔母のサディに叱られてしまう。駆け足で移動していると、唐突に何かへぶつかった。
ある程度のスピードで走っていたはずなのに、吹き飛ばされたのはラースの方だった。地面へ背中から着地し、服が砂まみれになる。汚したのを怒られる心配はない。もとからラースにまともな服は与えられておらず、洗濯も自分でしているからだ。一張羅なので、洗濯をしてる間は着る服がないのだけは困りものだが、それ以外は特に不便を感じない。
「チッ。誰かと思ったら、呪われラースかよ」
蔑んだ目と言葉を、倒れたラースにぶつけてきたのはジドーだった。同い年の大男で、大人顔負けの腕力と肉体を誇る。周りからも恐れられており、何かと問題行動ばかりを起こす。短く刈り上げられた髪と、鋭い目つきが特徴だ。言葉遣いだけでなく態度も乱暴で、ラースはよく標的にされて暴力を振るわれる。
今回もぶつかった罰だと、いきなり頬を殴られた。唇が切れて、血の味が口内に広がる。
「誰にも必要とされない呪われた奴が、どうしてこの町にいるんだ。あアン?」
「ご、ごめんね。ぶつかって」
何を言っても無駄なので、こういう場合は笑顔を浮かべて謝るしかない。呪われた子として生を受けたラースが、覚えてきた処世術だった。
「そうだ。ぶつかるテメエが悪い。オラ、もっと殴らせろや!」
暴力を振るうジドーを誰かが目撃したとしても、制止しようと頑張る者はいない。とばっちりを受けるのが怖いからだ。まして、暴行されてるのがラースであれば、ますます助ける理由が見つからない。逃げてもあとで報復されるだけなので、相手の気が済むまで殴られるしかなかった。
「黙ってサンドバッグになってくれるとは、相変わらず気味の悪い奴だな。もしかして、殴られるのが好きなのか?」
ゲラゲラ笑いながら、ジドーは倒れているラースを好き放題に蹴りまくる。ある程度のストレスを発散させたところで、ようやく離れてくれる。
ジドーが立ち去っても、ボロボロになったラースを同情してくれる者はいない。指を差して笑われるばかりだ。
そんな中、誰かがハンカチを傷口に当ててくれた。ラースを呪われた子と知って、優しくしてくれるのは数えるくらいしかいない。
顔を上げて、誰なのかを確認する。怪我を心配してくれているのは、近所に住むメニルという女性だった。二十三歳で、眼鏡をかけている。セミロングにした青い髪がとても綺麗だ。性格は優しく穏やかで、偏見や噂で人を差別したりはしなかった。袖の長いシャツにロングスカート姿のメニルは、せっせとハンカチで血を拭き取ってくれる。
「ごめんなさいね。本当はもっと早く、助けてあげられればいいのだけど……」
申し訳なさそうにするメニルへ、ラースは大丈夫ですと返す。呪われた子だと町中に知れ渡ってるラースへ優しくすれば、今度はメニルが住民から迫害されるかもしれない。そんなのは絶対に嫌だった。
加えて、メニル自身の立場もある。彼女もまたラース同様に、この町へ住む親族へ預けられた。両親は消息不明で、生きてるかどうかもわからないと前に教えてくれた。
ラースに優しくしすぎて、親族を怒らせると家を追い出されるかもしれない。実際に、以前に一度だけそうした事態になりかけた。普通ならそこで関わりを断とうとする。人一倍優しいメニルだからこそ、今でもラースを気にかけてくれる。
「おいおい、ずいぶんといい身分だな」
いつの間にか、ジドーが戻ってきた。メニルに手当されるラースを見つけるなり、ひやかしてくる。
「メニルと仲良くできるから、わざと殴られてんのか? テメエは最低の野郎だな」
「も、もう、やめてあげて、ジドー君。どうして、ラース君に酷いことばかりするの?」
「本気で言ってんのか? そいつは精霊から見捨てられた状態で生まれてきた奴だぞ。要するに、人間として認められてねえんだよ。だから町中から迫害されてんじゃねえか」
「皆がしてるからといって、正しいことにはならないわ。それに、精霊の祝福がなくとも、ラース君は立派な人間よ」
普段はおどおどしてる一面もあるのに、いざとなれば周囲が驚くほどの頑固さを見せる。乱暴者のジドーを前にしても、引く姿勢を見せようとしない。
「ケッ。そんなことを言いながら、そいつが殴られてる最中には助けに来なかったじゃねえか」
「そ、それは……」
「他の奴らと何が違うんだよ。わかったら、そんな奴を手当てなんざしてねえで、俺と遊ぼうぜ。たっぷり楽しませてやるからよ」
およそ十六歳とは思えない台詞を発したジドーが、ラースの側にしゃがみ込んでいたメニルの肩を抱こうとした。
「や、やめて。私は遊びたくありません」
逃げるように移動すると、メニルは最後にラースを一度だけ見る。やはり申し訳なさそうな彼女に、もう大丈夫だと教えるために一度だけ頷く。すると、俯き加減でこの場から走り去った。
「振られちまったじゃねえか。全部、テメエのせいだぞ!」
メニルがいなくなるなり、ジドーはラースへの暴行を再開しようとした。
蹴られるのを覚悟した矢先、ラースの視界が白く染まった。目に異常が起きたわけじゃない。何故か周囲に煙が充満していた。
「誰だ! 変な真似をしやがってんのは!」
ジドーが怒鳴る。煙の勢いは増し、誰がどこにいるのかもわからない。地面に倒れたまま呆然とするラースの腕が、誰かに引っ張られた。
「……さっさと逃げなさい」
声の感じから女性だとわかったが、聞き覚えはない。腕を引っ張ってラースをその場に立たせると、声の主はどこかへ行ったみたいだった。
誰だったのかは気になるが、せっかく助けてもらったのだからとラースも急いで場を離れる。煙の影響から逃れると、駆け足で叔母の家へ戻った。
自分の食べる分くらい自分で調達してこいと怒鳴られ、空腹を誤魔化すために早く眠る。普段の光景が繰り返されると思いきや、この日は事情が違った。寝床にしている納屋の前で、叔母が帰りを待っていたのだ。
服も汚れてるし、盛大に怒られるのかと不安になるラースを、サディは家の中へ入るように告げた。きょとんとしながら後をついていくと、パンやサラダがたっぷりの夕食を与えられた。
「食べながらでいいから、聞きな。ラースリッド、お前は今からこの家の主だ」
「……え?」
「もっと嬉しそうにしたらどうだい。お前にこの家をやると言ってるんだよ。少しばかりのお金もある」
いきなりすぎる展開に、頭が追いつかない。一体何がどうなって、叔母は家をやるなどと言い出してるのか。
「よかったね。これでお前は、好きに生きていけるんだよ」
叔母の側には、彼女の夫や息子もいる。全員揃って、ニヤついた顔でラースを見る。料理に毒でも盛られてるのではないかと思ったが、サディの次の台詞で家を貰える意味を理解する。
「私たちの心配なら、いらないよ。これからすぐに、王都へ引っ越すからね」
そうか。僕は置いていかれるのか。
いつか、こういう日が来るのはわかっていた。ラースから先に家を出るつもりでいたが、呪われた子の自分に食事や仕事を与えてくれる者はいない。どんなに酷い仕打ちをされても、叔母の世話になるしかなかった。それが唐突に終わりを迎えただけの話だ。
サディたちは金持ちと呼べるほど裕福でなくとも、食べるのに困らないくらいの収入がある。わざわざ王都へ引っ越すのは、よほどいい職が見つかったか、知り合いから儲け話を教えてもらったかのどちらかだろう。何にせよ、ラースには関係のないことだ。
「お前も、もう十六歳だ。自分のことは自分でできるだろ。ここまで育ててやったんだから、亡くなった姉さんも私に感謝しているはずさ」
「はい。ありがとうございます」
ラースは素直にお礼を言った。辛く当たられてばかりだったが、サディがいなければとっくの昔に飢え死んでいた。今日まで生きてこられたのは、彼女のおかげに間違いない。見捨てて置いていかれるはめになろうとも、恨みに思えるはずがなかった。家とわずかなお金を残していってくれるのは、せめてもの懺悔なのかもしれない。
「フン。わかってればいいんだよ。じゃあ、今からこの家の主はお前だ。私らはよそ者だから、出て行くよ」
そう言ったサディは、とても楽しそうだ。ラースと離れられるのが、よほど嬉しいのだろう。
サディたちの引っ越しの準備を黙って見ていると、彼女の息子が近づいてきた。ラースとは同い年だ。
「お前もかわいそうな奴だよな。ま、呪われた子に同情なんかしないけどよ」
「こら。余計なことを言うんじゃないよ」
母親のサディに叱責されて、すぐにラースの前から退散する。忌み嫌われてばかりきたが、かわいそうだと言われたのは初めてだ。心の底から同情してる感じではなく、むしろ、ざまあみろと言わんばかりの態度ではあったが。
さっさと準備を終えたサディたちは、必要なものだけを持って家をあとにした。見送りのために外へ出れば、他の家でも同じような状況になっていた。すでに夜の闇が町へ下りてきてる時間帯なのに、焦った様子で住民たちが町を出て行く。いまだかつてない異様な光景だった。
大半の家が、逃げるように家族全員を連れて町をあとにする。取り残されるラースは、ただただ呆然と見つめるしかなかった。
一時間ほども経過すると、途端に町は静けさに支配された。家の中を灯す蝋燭の明かりは消え、普段よりもずっと暗い。町を照らす松明が、寂しげに揺れる。
「……ラース君?」
「え? あ……メニルさん」
夜の街にひとり立ち尽くすラースへ声をかけてきたのは、帰り際に出会った近所の女性だった。ジドーにつけられた傷を治療してくれようとしたものの、妨害にあって途中で逃げるように立ち去った。彼女は罪の意識を感じてるかもしれないが、当のラースはまったく気にしていなかった。
「さっきはごめんなさいね。守ってあげられなくて……」
「いえ、大丈夫です。応急処置もしてもらえましたし。それに、メニルさんにも立場があるでしょうから……」
「立場……か。フフ。これからは、そんなのを気にしなくてもいいみたい」
どことなく、切なそうにメニルが笑った。
「もしかしたらだけど……ラース君も、置いていかれたの?」
「ラース君もって……まさか……」
「その、まさかよ。他人にお節介ばかりを焼いてる私は、いつか面倒事を引き寄せるって。そんなに誰かの世話をするのが好きなら、ひとりで残って自由に生きなさいと言われたわ」
ラースとは違い、忌み嫌われてるとは思えないメニルが置いていかれたのは意外だった。だが、他にも気になる点が存在する。
「メニルさんのところも、王都に引っ越すんですか?」
「やっぱり、ラース君の家もそうだったのね。近所の人たちも、ほぼ全員が王都へ向かうみたい。一体、何があるのかしら」
ラースも聞きたいくらいだった。ランジスの住民の大半が、我先にと王都へ引っ越していく。よくよく観察すれば、ポツリポツリと残されていく人を見つけられた。
置いていかれた住民の半数以上が老人だった。あとは町の中でも、弱い立場の者ばかりだ。
この町で何が起ころうとしてるのか。翌朝になってから、ラースやメニルは答えを知る。