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今日も楽しかったな。小高い丘で会ったラースとのひと時を思い出すだけで、ミルシャはにっこりしてしまう。辛い時を乗り越えるための充電時間みたいなものだった。
ミルシャの帰宅場所は町の一番奥にある大きな建物だ。領主の館であり、ここには王妃の弟が住んでいる。彼こそが、この町の領主でもあった。
ミルシャが戻ったのを知ると、王妃の弟はすぐにやってきた。嫌味ったらしい笑みを浮かべ、早速の文句をぶつけてくる。
「これはこれはミルシャ様。王位継承権を持つ者が、気軽に外出などされては困りますな。私が王妃様に叱られてしまいます」
この男がミルシャを様付けして呼ぶのは、尊敬してるからではない。あくまでも、小ばかにして楽しむためだ。
「王位継承権ですか。私のは絵に描いた餅も同然でしょう。貴方もよくわかってるはずですよ」
領主が言ったとおり、ミルシャは王位継承権を国から与えられている。何位か数えるのも面倒なほど下の順位だが。
ゲルツ国王の血を受け継いではいるが、王妃とは何の関係もない。要するにミルシャは妾の子だった。
こっそりとミルシャを産み、目立たない生活をしていた母親を国王が十年以上前に発見した。
自身の血を分けた子がいると知り、強引に王宮へ招いた。王妃や貴族が反対するのを押しきり、ミルシャに王位継承権を与えようとした。
本来ならもっと上の順位だったらしいのだが、王を止められないと察した王妃が先手を打ってミルシャに下位での王位継承権を与えた。
ゲルツが国王になれたのも、有力貴族の家柄を持つ王妃の力が大きい。最終的には、国王が妥協する形で決着した。
王妃に睨まれるのをわかっていながらも、ゲルツ国王はミルシャたち母娘のために尽力してくれた。実際に母親が亡くなるまでは、王都でそれなりに生活できた。
けれどミルシャの母親が流行り病により亡くなってからは、取り巻く環境が一変した。王都に残らせようとする国王に対し、王妃は王位継承権を持つ者として修業を積むべきという理由で、自身の弟が領主を務める南端の町へミルシャを追い出した。
時折様子を見にやってきては、国王が側にいないのをいいことに、辛辣な仕打ちをする。王妃の弟のみならず、息子や娘も同様だった。言葉や態度で甚振り、目立たない顔以外の部位に暴行を加える。王位継承権一位となる王子には、特に奴隷のように扱われた。逃げたりすれば、妾の子を王家に招き入れた父親のゲルツ国王が責められる。ミルシャはひたすら耐えてきた。
唯一の救いは、自身と似たような境遇の少年の存在だった。数年前に、いっそ自害でもしようかと町をぶらついている最中に小高い丘で偶然出会った。それ以来、そこはミルシャとその少年――ラースリッドの秘密の場所となった。
まるで逢い引きをしてるみたいだった。十六歳の少女であるミルシャには、妙に楽しく感じられた。恋人同士でなければ、肉体関係もない。それでも、ラースと一緒に過ごすわずかな時間は、何にも代え難い宝物だ。
ラースの身の上は話を聞いて知っていたが、ミルシャは自分のことを単なる町娘だと教えていた。仮にも王家に名を連ねる者だとわかれば、ラースは遠慮して例の丘へ来なくなってしまうかもしれない。関係が変化してしまうのを恐れて、隠し続けてきた。
「確かにな。薄汚い妾の子が、王位継承権を持ってるだけで吐き気がする。どうしてくれる」
キツい目つきで睨む領主の男が、容赦なくミルシャを平手打ちする。悲鳴を上げて倒れれば、さらに蹴りを見舞ってくる。女性どころか、人としても扱おうとはしてくれない。そのうちに食事でさえも、犬猫のように床でさせられそうだった。
「何だ、その反抗的な目は。私は、お前が王位継承権を持つひとりとして、相応しくなるように教育してやってるのだぞ。お礼くらい、言ったらどうだ」
無慈悲に蹴りつけながら、側にいた使用人に馬へ使う鞭を持ってこいと命じる。領主に逆らえるはずもない老齢の使用人男性は、ミルシャへ申し訳なさそうにしながらも命令へ従う。
別に構わないわ。どうせこの男は、私に危害を加えるのが生きがいなのだから。でも私は諦めない。ラースリッドだって、凄惨な仕打ちに耐えて生きてるんだもの。
立場上は王族と平民という決定的な差があるものの、実際には周囲から忌み嫌われて虐げられている仲間だ。ラースがいるからこそ、ミルシャも頑張れる。
使用人が持ってきた鞭を、領主が振るおうとする。近いうちに生じる痛みに備えて、瞼を閉じる。
「それくらいでやめておくのだ。ミルシャに話があるのでな」
ミルシャに危害を加えようとしていた領主を止めたのは彼の姉――つまりは、この国の王妃だった。
王妃ファナリアは、冷淡な目でミルシャを見据えたまま、立ち上がるように言った。
普段は実弟の領主よりも、嬉々としてミルシャを虐める人物なだけに、逆らったりすれば酷い目にあわされるのは間違いない。
この女に屈するつもりはないが、まずは話とやらを聞くのが先だった。立ち上がったミルシャは、挑むような目を王妃を見た。
「フン。相変わらず、生意気な顔をしておるわ。薄汚い泥棒猫の母親にそっくりだ」
「それはどうも、ありがとうございます。王妃様にお褒めいただいて、恐縮ですわ」
「ほう。けなされたのが褒め言葉となるか。さすがに卑しい生まれの者は違うな」
喧嘩腰のミルシャに対し、せせら笑うような態度で王妃ファナリアが言葉を返す。
どんな酷い目にあわせようとも、ミルシャは毛嫌いする相手には牙を剥く。より虐げられる原因になるとわかっていても、反抗せずにはいられないのだ。
「まあ、それくらいで丁度いいのやもしれぬな。一国の主になるのだから」
不敵に笑うファナリアの言葉に、ミルシャは小首を傾げる。
「王妃様が何をおっしゃっているのか、私にはわかりかねます」
「では簡単に言ってやろう。お前は独立国家の女王となるのだ」
「独立国家……ですか」
「そのとおりだ。本日よりここランジスは、お前が治める独立国家の王都となるのだ。喜ぶがよい」
喜べと言われても、わけがわからない状況では笑顔になれるはずがない。一体、ファナリアは何を言っているのか。ミルシャの頭の中で、膨大な数のハテナマークが躍る。
無言の時間に耐えかねたわけでもないだろうが、領主である王妃の弟が抗議の声を上げた。
「ちょっと待ってくれ、姉さん。いくらなんでも、それはないだろう」
「そう興奮するな。お前には、王都で新しい肩書をくれてやる。わらわの命に従え」
有無を言わさぬ強い口調だった。姉弟とはいえ、基本的には王妃と領主。逆らいきれず、弟の方が言葉を引っ込めた。
悔しげに唇を噛むと、先ほど立ち上がったばかりのミルシャの腹部へ水平に蹴りを放った。いきなりの攻撃で回避もできず、再び床へ転がる。
「下賤な者らしく、床と戯れていたいのは理解できるが、わらわの話を聞けと申しておいただろう」
ヒールのついた靴で、王妃ファナリアがミルシャの顔を踏みつけた。グリグリと頬をえぐろうとする。
ざまあみろと言わんばかりの領主の前でミルシャを甚振ったあと、使用人たちへ命じて強制的に立ち上がらせた。
「わらわも暇ではない。さっさと関係書類にサインをしてもらおう。そうすれば、ここら一帯は新たな国として承認される。これで王位を継承したも同然だな」
愉快そうに笑う王妃を見て、ようやく相手の意図に気づく。ファナリアは南端のわずかな土地を国にしてミルシャへ渡すことで、王位継承権を放棄しろといってるのだ。
でも……私の王位継承順位は一番下も同然なのよ。わざわざ、こんな真似をする必要があるの?
浮かんだ疑問を口にしたところで、ミルシャを下賤の者と忌み嫌う王妃が答えてくれるとは思えなかった。
どのような狙いがあるにせよ、国からの命令では逆らえない。不安は残るものの、ミルシャは王妃の側近の男が用意した書類にサインをした。
「これで、今からこの地はお前が統治する独立国家となった。国名はそうだな……ゼロでいいだろう。何の価値もない国という意味でな」
王妃のいびつな笑みを目の当たりにして、やはり今回の一件には裏があると確信する。問い詰めて吐かせたくとも、この館にミルシャの味方になってくれそうな人物は誰もいない。
仕方なしに黙っていると、王妃は側近に帰り支度を命じた。ここは自分たちの国ではないから、すぐに退去するというのだ。
深夜とはいえずとも、夕方から夜に変わりつつある。この時間帯に、王妃が外を移動するなど聞いたことがない。
「夜盗や魔物が、危険ではないのですか?」
探るように、ミルシャは尋ねてみた。すると、王妃はくだらないとばかりに一笑した。
「夜盗ごときに後れを取るような兵士は連れてきておらぬ。魔物どもは……問題ない。フフフ」
質問に答えたあと、王妃ファナリアは弟の領主や側近、さらには館で働いていた使用人たちまで連れて出て行った。
向かう先は王都シュレール以外にない。わかってはいるが、あまりにも急すぎる。いまだにミルシャは、王妃が何を考えているのか理解できなかった。
わけがわからないうちに領主の館は王城となり、辺境の町ランジスは王都となった。そしてミルシャは、勝手にゼロと名付けられた国家の初代女王だ。嬉しさなど微塵もない。不気味さだけが残った。
「独立国家ということは……レイホルンの助力は得られないということね……」
エントランスの奥にあるホールが、粗末な謁見の間となる。誕生したばかりで、何の後ろ盾もない弱小国家などすぐに飲み込まれる。もしかしたら、王妃はそれが狙いなのかもしれない。
レイホルンの助けがなければ、ひしめきあう周辺諸国はすぐにでも攻めてくるだろう。避けたければ言うことを聞けと、明日にでも無理難題を言ってくるかもしれない。
どうすべきか悩んでいると、ひとりのメイドがミルシャのもとへやってきた。
「あ、あのあの……王妃様から聞かされたんですけど、今日からここが独立国家になるって本当ですか? ミルシャ様が女王様だって……」
メイドには見覚えがあった。いつもドジばかりして、館内を取り仕切る使用人に怒られてばかりいた女性だ。他にも料理の腕がちっとも上達しない料理人など、合わせて数名がエントランスに姿を見せる。
「わ、私たち、王妃様に残るように言われて……他の人は皆、一緒に行ったのに……私、どうすればいいのかわからなくて……」
メイドは今にも泣きそうだ。他の仲間と一緒に行きたかったのかもしれないが、彼女ら数名は置いて行かれた。王妃の性格を考えれば、役に立たないからというのが理由だろう。
とにもかくにも、彼女たちの主は自分になった。給料を払うお金が残ってるかも怪しいが、任された以上はなんとかするしかない。基本的に責任感の強いミルシャは、そう考えた。
「ランジスがレイホルンから離れ、独立国家の王都となったのは確かよ。私にとってもいきなりのことだったから、驚いているの」
「そ、そうなんですね。わ、私たちは……見捨てられたのでしょうか……」
見捨てられた――。
その言葉は、ミルシャにとてつもない重さでのしかかってきた。水中にいるような息苦しさで、酸素を求めたくなる。
まさか……。
心臓をドキドキさせるミルシャはまだ知らない。翌日、予想もしていない試練が訪れることを。