彼の突発的なお願い
「先輩にお願いがあるんですが」
ある日、練習が終わっていつものように二人になった部室で、恭一くんが言った。恭一くんは滅多にお願いなんかしないし、しても「そこにあるペン取って下さい」とか改まって頼むほどのものでもないものばかりだ。珍しいこともあるものだ、と思いながら私は恭一くんに聞く。
「何?」
「ピアノ教えてください」
確かに合唱をやっているんだから、簡単な曲くらい弾けたら便利だろう。けれど何故このタイミングで、しかも私に頼むのか。
「いや、教えられるレベルじゃないし……」
「大丈夫です。俺弾けないんで」
まあ確かに、弾けない人よりは明らかに弾けるんだけど。でもやめてから久しいし、指が動くかどうかが心配だ。ああ、でも最初は簡単なものから始めるから大丈夫かな。そのくらいなら私でもいいだろう。
「趣味レベルなら大丈夫だとは思うけど……いいよ」
「やった!」
「……で、何の曲弾きたいの?」
最終的にどのレベルを目指すかによって、教え方も多少変わってくる。恭一くんは楽譜が読める程度だ。まず左手と右手が違う動きをするという段階でつまづくかもしれない。
恭一くんはしばらく腕組みをして唸ってから、憎たらしいほどの笑顔で言った。
「三善晃の『生きる』とか」
「……帰れ」
思わず、普段は言わないそんな言葉が出てきてしまうほどだった。三善晃の『生きる』とか、習っていたときの私でも弾けるかどうかわからない。最初から高難易度を要求してくるとは。恭一くんはわりと食えない男だ。
「じゃあとりあえず何でもいいです。何かオススメとかあります?」
そんな漠然とした聞き方されても。有名どころで、簡単なものから始めた方が良いだろうか。恭一くんには何の曲があるだろう。昔の知識を引っ張り出して考える。
恭一くんは部室のピアノの前に立ち、人差し指で鍵盤を押している。彼の手はかなり華奢な造りをしていた。恭一くんの首筋はいつだって私に妙な欲求を抱かせるけれど、その手は彫像のように整っていて、それを見ていると何だかじんわりと暖かいものが私の胸に広がるのだ。
ああ、この手ならショパンとか似合うかもしれない。
「ショパンのノクターン嬰ハ短調。それならまだ私も弾けると思うし」
「どんな曲ですか、それ?」
私は微笑し、ピアノの椅子に座った。恭一くんが私を見ているのがむずがゆくて、鍵盤に乗せた手が震える。
「ちょっと弾いてみるから」
最初の和音を確認して、ペダルに足を掛ける。久しく味わっていない独特の緊張感が漂ってきた。一音一音大切に、一つの曲の中で動き出すように。
短い曲はすぐに終わり、恭一くんの拍手が聞こえてきた。拍手をもらうような演奏じゃなかったけれど。ミスタッチは多かったし、指は言うことを聞かなかった。それでも恭一くんが手を叩いてくれたのは嬉しかった。
「綺麗な曲ですね。あと先輩の弾き方って、歌い方に似てるんですね」
「そうかな? まあ習ってたころは歌えって散々言われてたし」
ピアノは鍵盤楽器だから、歌うように滑らかに音を繋ぐのが非常に難しい。けれど私はそれにだけは自信があった。恭一くんの言葉が嬉しくて、私は少し恥ずかしくなった。
私は照れ隠しのために椅子から立ち上がり、恭一くんをそこに座らせた。
「じゃあ早速始めるよ! 私はスパルタだからね」
「お手柔らかにお願いしますね」
そして私たちの夜は静かに更けて行った。
このシリーズのキャラでホンワカしたものが描きたいと思ってかいたらこんなことに。相変わらずの即興です。