ガーゴイル
真っ黒な悪夢がどぷどぷと溢れ出して来て止まらなかったので、私は悲鳴を上げた。だがコールタールの様にねとねとと皮膚に纏わり付いて来る漆黒の闇は私の目の端を伝い鼻の穴を塞ぎ、口許から流れ落ち、体中の毛穴と云う毛穴から滲み出して外界との接触を求めるあらゆる欲求と傾向を窒息させてしまったので、それは唯がぽごぽと意味不明の潜もった耳障りな雑音として喉の奥で不発の気泡を浮かべるだけだった。液状の暗黒はありとあらゆる方向から私を押し包み、圧迫し、雁字搦めに絡め取って、樹液の塊に呑み込まれる羽虫の如くに私を硬化させてその苦悶の表情の儘に固めてしまおうと云う攻勢を仕掛けて来たのだが、外を、私の外を希求するのに是非とも必要なあらゆる経路を悉く潰されてしまっていたのにも関わらず、私はそのねっとりと重い流れに逆らい、抗い、丁度周り中を水で囲まれていると云うのにその一滴すらも口にすれば命取りに成り兼ねない海難者が、生命の起源の地が海の中だと云うのなら、何故一寸した工夫で海水を有効に利用出来る様な体内調節機構が人体には無いのだと、数十億年に及ぶ進化の分岐樹が懸け隔ててしまった適応形態の差異そのものに対して口汚く悪罵を浴びせ掛ける様に、それが如何に筋の通らぬ馬鹿馬鹿しい試みであろうとも、この絶望的な閉塞状況なぞには決して屈せぬぞと肚を括って、正直なところ最早自分でも半ば訳が分からなくなり乍らも臍を固めた。
恐怖が、私が振り絞る力に比例して大きくなって行く反作用の力と共に鋼の様な恐怖が、万力の様な力で、膨張し肥大化した爆発寸前の私の全身を捩じ上げたが、私はそれでも自分が持てる限りの感覚知覚を総動員して、この忌々しい底無しの泥沼から抜け出ようと踠き続けた。やがて眼前を覆う光明無き真の闇の他に、別種の、もっと精妙な深みと構造とを備えた闇が存在していることが判って来た。それが私自身の生理的な反応に起因する変化ではないと判別出来るまでには暫し時間を要したが、それは段々とあの不浄の忌まわしさとは異なる何か異質の脅威を孕んだ異界の空間、いや、敢えて断定するならば空であると云うことが理解せられて来た。視覚も聴覚も味覚も触覚も、それに自分が自分の肉体であると云うこの確たる筈の感覚も含めてあらゆる感覚知覚がごっちゃになり、悍ましい魔女の大釜の中身の様に嫌らしく溶け合って混じり合ってしまっている状態では、果たして自分に肉体と呼べるものが有るのか、それが何んな形をしていて何んな働きをし何んな動き方をし、何れだけの質量と何う云った傾向性を有しているのか、全く定かではなかったものの、視界が徐々に晴れて行くにつれて次第に平衡感覚も安定して行き、自分が少なくとも相対的には周囲の事物に対して今や略静止していて、それもどうやら頭を上に向けて死んだ様に横たわり、質量を持った暗闇の上に辛うじて浮いていると云うことが明らかになって来た。重力が、万物を結び付ける根源の力のひとつたる重力が、私の身体と思考と存在の実感を引き戻してくれたのだ。そしてそれと同時に、私の目の届かなかった私の下——私の背後に感ぜられる沈黙の闇が、想像の中で幾らでもその質量を増大させ、そもそも知の安堵と未知の恐怖とが双生児であって、ここでは私が如何に無力でちっぽけな存在であるかを思い知らせて来た。腐った海藻から死人の手の様に引っ付いて邪魔をする闇の粘液の切れ目から覗く視界一杯に広がっている深みの有る闇には、星はひとつも見えなかったのだが、じわじわとあの独特の質感を伴った流体運動と見える動きをしていたので、その先に在るのが天井——少なくとも、洞窟だとか建物だとかの固定した天井ではないことが窺えた。何等かの雲だろうか、と私は疑ったが、それはもっと遙か遠くのガス状星雲であってもおかしくはなかった。何しろ私は自分が今居る場所が何処なのか、全く見当が付かなかったのだ。比較的静態的な安定度の高い重力場、それも、私と云う存在を形作っている構成関係子が崩壊してしまわないだけの人間向きの環境を備えた場所であることは判っていたので、恐らくは地球かそれに似た条件を持つ惑星の上ではないかと云うのが第一に考えられる可能性ではあったのだが、さてその先はとなると、推論の為の材料が絶対的に不足していることは否定し様が無かった。動きは極くゆっくりとしたもので、何分間も———或いは何十分だったかも知れないが———凝っと目を凝らして観察していなければ判別出来ない程のものだった。動きが判る、詰まり視覚的に時間経過による変化が識別出来ると云うことは、それが光学的情報であることを示してはいたが、その光源は一体何で、何処に在るのかとなると、皆目見当が付かなかった。流体の暗い部分はそれこそひとつの光子の通過も許さぬ様な頑とした漆黒で、比較的明るい部分は多少紫掛かって、濃い灰色と呼べなくもなかったが、自分の現在の色彩感覚が四方八方を闇に塗り込められているお陰でどれだけ普段の条件下のものと異なったものになっているかは分からなかった上、そうした判断にも一応留保を付ける必要性を感じざるを得なかった。
そうして暫く疲れ果て、ぐったりと力尽きて寝転がっている内に、ひとつひとつの感覚が分化してこれはこれ、それはそれと次第に区別が出来る様になって行き、視界もより一層明瞭になって行った。そして壊れたレコードの様に何時までも同じ所で引っ掛かって先へ進もうとしない思考が何かの切っ掛けでひょいと障害を乗り越えると、眼前に開けて来た光景に注意が向けられ、私は再び世界を知ろうとする意欲が重い腰を上げて少しく建設的な方向へと自らの内で動き出したのを感じると同時に、自分が今度逃れられぬ悪夢の虜囚として更なる苦悶を期待されているのではないかとの疑念に苛まれた。
広がっていたのは実に暗澹たる光景だった。侘しく荒涼としていて、陰々滅々、黙示録派の才能豊かな幾人かの画家達の描いた作品群を思い起こさせた。見渡す限り一面、私の視線が及ぶ限り遙か彼方に至るまで、同じ様な微かに紫掛かった黒い雲———遠さがさっぱり判らないので、仮にそう呼んでおこう———が広がっていた。それはもぞもぞと芋虫の大群の様に一様に単純な動きを飽くこと無く繰り返し、恐らくは私が身を横たえている大地……と思しき重力安定場から平行線を描く様にして続いていたが、余りに広大な為に、また余りにも変化に乏しい為に、その果てが湾曲しているのかそれとも真っ直ぐ続いているのかまでは判別は出来なかった。視界の下方へ、即ち私の足先が向いている方向へ瞳を巡らせると、そこにはその冥界の石河原めいた単調さを破る唯一のものが、地を覆っているらしい闇を貫いて、にゅっと天を目指して聳え立っているのが目に入って来た。それは細長い石柱群で、私に見えた限りでは、太さも高さも位置関係もまちまち乍ら五本在り、その先にも同じ様なものが在るのかは定かではなかった。全体的な形態を見ると、まるで人為的に削り抜かれたかの様にすっきりと細長く、やや先細りに整っていたが、それでも表面には規則性も何も無く、只の岩肌の様にボコボコしていたので、果たしてそれが人工物なのかそれとも自然が作り上げた偶然の産物なのかは定かではなかった。色は、可成り暗かったので半分は憶測だが、恐らくは褐色掛かった鼠色で、上空の僅かな光に照らされているだけにしてはやけにくっきりと周囲の闇の中から浮かび上がっていた。柱の下にそれらを支える地盤が在るのかどうか多少熱心に探してはみたのだが、遂にそれらしいものは見当たらず、沈黙の闇の海の中からその儘無遠慮に突き出ている様だった。海上に突き出ている部分の高さは、或るものを参考にして推測してみると、大体五、六メートル程度のものから二、三メートル程度のものまで有ったが、太さはどれも大体同じで、根元の一番太い部分でも一メートルは無く、精々七、八十センチメートル程度で、一番上の先細りになった部分は、大体四、五十センチメートルと云ったところだった。距離はそう、一番近いもので私から大体十メートル程度であったろうか。
私が比較の参考にした或るものとは、その中でも一番高い柱の天辺に陣取り、私を見下ろしていた生き物のことだ。それは通常の鳥よりは遙かに大きな細長い頭を前に垂らして、その先に伸びたこれまた細長い嘴を腹にぴったりと密着させ、飛ぶ為の機構と云うよりはまるで外套か何かの様な具合に大きな翼を両脇に畳んで、短く太い不恰好な足でしっかりと柱の頂上を掴んで蹲っていた。その様はまるで尖塔の先に座を占めるガーゴイルの石像の様だったが、しかし時々瞼や嘴を僅かに動かすことから、確かに生きているのだと知れた。色は黒か黒に近い灰色で、全体的にはスマートと云うよりはずんぐりむっくり、ガーゴイルの様だとは言ったが翼は蝙蝠の様な翼手なのかは判らず、翼を含めて全身が、羽毛だか剛毛だか判らない、毛羽立ったもので覆われていた。それは直ぐ様私に或る種の翼竜を連想させたので、私はその翼を畳んだ頭の先から足までの大きさを大体一メートルから一メートル半程度と見積もったのだ。
最初は、その大きさに関する判断が些か早計に過ぎたのではないかと思ったものだが、後で更によく細部を見て行くと、それ程いい加減でもないのではないかとも思えて来た。と云うのも、その生き物の目は多くの鳥類とは異なり、白目の部分が割りと大きかったのだが———ひょっとしたら、三白眼か何かだったのかも知れないが、遠くてそこまでは確認出来なかった———それが人間の目によく似ていて、しかも立体視が出来るように目が頭の正面寄りに付いていたものだから、人間との類似の印象は一層強められていた。あの生き物の実際の大きさがどの位であるにせよ、ああした外見をしていると云うことは、構造もまた人間の眼球とそう開きは無いと云う可能性が高い。だとすれば、その大きさもまた極端に人間の眼球の大きさとは違っていないのではないだろうか?と云う推測が自動的に働いたのだ。それは鳥か翼竜の一種と云うよりは、翼を持った不恰好な人間、獣の皮を纏い、異形のものに姿を変えてはいるが、その内奥には人間性——と云うよりは知性の閃き、或いは少なくともその萌芽か名残りが隠されている存在の様に、私には思われた。それは例えば梟や類人猿に人並みの思慮深さを見て取ってしまう様な、過度の連想に因る無邪気な空想的な読み込みだったのかも知れないし、私が生命体と云うものに感じている驚異、何十憶念にも及ぶ深甚なる進化の知恵に対する驚嘆の念が、擬人的な投影を行うと云う形を採って表面化したものかも知れなかったが、実際には暗くて遠くて視線が何処に向いているかなど判る筈の無いその奇妙に人間めいた両眼が、何か秘めたる意思を孕んで凝っと私を見詰めている様な気がして、私は思わず得体の知れぬ身震いの様な感覚が躯の表面を駆け巡るのを感じた。それと相前後して、何故私はその生き物の目に白目が有るのだなどと思ったのだろうと云う疑問が唐突に浮かんで来た。よく見てみると顔に相当する部分はすっかり周囲の闇に塗り込められ、殆んど単なるシルエットとしてしか判別出来ず、細かい顔立ちなど判る筈が無いのだ。それは単なる私の空想の過剰が生み出した描写に過ぎないのか、それとも私の意識が気付かない裡に、瞬間的な稲光りか何かが起こって、細部が明らかになっていたのか、それとも………もっと忌まわしい奔放な想像が頭を過り、私は改めて別種の身震いに心を凍らせた。———私があの生き物を知っている筈は無い、あれの正体が一体何で、その目的と運命とが奈辺に在るかなど、私が予め知っていよう筈は無いのだ。ここは見知らぬ風景、見知らぬ土地、見知らぬ惑星上———嘗て夢見たことも無ければ夢見られたことも無い、私の目覚めの過去とは一切関係の無い辺土、異国、異界なのだ………。
否定と省察を性急に繰り返す内に、余りの暗闇の所為で世界の境界領域設定が狂い始めたのか、頭に思い描いたことども、様々な像や概念やエピソード達が、現実の闇の中へと滲み出して来る様な錯覚を覚えた。その軽度の錯乱の中で、あの生き物の表情を湛えぬ無感動な、しかしそれでいて何か固い意思の凝り固まった様な両の瞳は、益々その存在感を増して行った。そして私の目も段々と周囲の暗さに慣れて来たのか、次第に闇の中の極く微かな明暗の差が前よりもはっきりと識別出来る様になって来た。よくよく見ると、頭上に広がる雲海は、極く微かに白っぽい光を湛えている様であった。夜空を長時間見ていると見えて来る星の数が増して行く様に、時間の経過と共に新しい情報の世界が拓けて行き、重心の異なる別種の存在様式に則った光景へと誘われて行くのが、緩慢で奇妙に無感動な高揚感と共に実感されて来た。特に何処が明るいと云うことも無く、一様にぼんやりと陰影が浮き出ている程度だったので、光源の位置や種類は特定出来なかったのだが、極く自然な推定として私はその背後に、広大に散らばる無数の星々の、絶望的なまでに孤独で絢爛豪華な群々が集う、カオスに満ちた何処までも超然として無関心な超銀河団の存在を透かし見た。躯の奥底の何処かにずんと重い氷の塊が結晶化でもしたかの様に、急に寒々とした感覚が、闇の泥濘に半ば沈む私の中に生まれて来た。それは遠い荒漠たる空間へ思いを馳せることによって、一時あの生き物と柱群が闇色のシルエットとして背景に沈み込み、言葉と意志とを失ってその存在感を没落させて行ったからかも知れなかった。余りにも遠大に広がっている為に、ほんの瞬きする間すらも存在しない我々の様な卑小な存在者達のことなど気に懸ける積もりの無い、滔々たる時空間の捻れが、あらゆる生命の——少なくとも、我々の様なレベルの物質界に於て有機的であるものども全ての兆候を、その異常に深遠な謎の中にすっかり吸い取ってしまったかの様だった。私の恐怖は暫し凍り付き、明確な焦点を失って何処へともなく途方に暮れて虚空へと彷徨い始めた。
永劫が過ぎ去って、再び身近なものどもが黒々としたシルエットとして姿を現し、それから段々とその微妙な陰影を露にして来た時、私は未だ悪夢の残滓のうねうねと蠢く渦の中に埋もれていて、あの生物もまた尚も同じ姿勢で凝っと蹲った儘、何を考えているのか分からぬ目で私のことを見下ろしていた。私もそれも、剥き出しの眼差しとして、受肉した視線として、世界の中で独り対峙していた。私が個の認識と云う事象としてこの世界を包み込んでいるのは解っていたが、このあらゆる生命の兆候から見放された様な場所でたった一筋の切り結ばれた眼差しを頼りに個我を成り立たせていると、まるで全世界がこの対決に収斂し、全てがこの関係に因って成立しており、私自身もまた私と云う一個の認識する主体ではなく、この関係性の内に取り込まれた一要素、綱引きの片端としてのみ存在を許された力点に過ぎないかの様な感じを強く覚えた。それは私が今だ再帰的特質を持つ高次の精神活動として存在していることを示すものではあったが、それが逆説的な仕方であることに関しては、些かの危惧を覚えずにはいられなかった。私は世界を織り結ぶ焦点としての一極的な集約する力と、世界へ解消して行く偏在的な拡散する力との間の危ういバランスの上に辛うじて危なっかしくしがみ付いている、不器用な綱渡り師だった。私は非在への没落の過程の中に在って、同時にそのことを自覚するだけの抵抗力を備えていた。無音の霧雨の様な微かに冷たい恐怖が、静かに私の世界を浸して行った。
本当に僅かに発光する暗澹たる背景を背にして、その生き物のシルエットは歪な肉塊として浮かび上がっていた。羽だか翼手だかを体側にぴたりと付け、それで頭の両脇を守る様にして首を縮めている様は、如何にも底意の有りそうな感じがしたが、その肉体が思っていたよりも頑健そうなのが目に見えて来るにつれ、全体的な印象としては何故か、酷く物憂気な、一時的な運動に因るものと云うよりは寧ろ慢性的な病から来る疲労に蝕まれている様な雰囲気を醸し出していた。そう思ってみればその体勢は何処か北風に体温を奪われてしまった旅人が外套の襟を立てる様に、無慈悲で無関心な寂寥たる宇宙から、せめて多少なりとも身を守ろうとしているかの様にも見えた。大きな頭の下部から突き出ている細長いものは嘴だとそれまで思っていたのだが、細部がもう少しはっきりと識別出来る様になって来ると、そう単純なものでもなさそうなことに気が付いた。先ず第一にその嘴には体の他の箇所に乱雑に生えている毛だか羽毛だかの様なものが見当たらなかったのだが、全く生えていない訳でもなかったらしく、よくよく見てみるとちらほらと剃り忘れた髭の様に、短くごわごわしたものがその表面にぱらついているのが見て取れた。その「嘴」は皮膚と思しきものに表面を覆われていたのだが、厭らしい毛か羽毛に覆われた胸と腹とに埋もれていたので、途中の部分が何うなっているのかまでは判らなかったのだが、私が嘴と思ったものの先端は若干カーヴしているか膨らんでいるかしていて、その更に先端部の皮膚が捲れて、骨格がどうかまでは判らなかったが、蛸か烏賊のそれを思わせる短い嘴が覗いていた。その見るからに硬そうな質感からは、それを支える筋肉が相当に強力なものであることが想像された。嘴と云っても根元から開くのではなく、その短い先端部だけが開く構造をしているのかも知れなかった。嘴は鸚鵡のそれの様に丸くなっていたので、その口で捕食する際にはつつくよりも寧ろ咬み千切ったりするのが自然に思われたのだが、とすると、先端部まで強力な筋肉が通っていて、その嘴を有効に活用する為に必要な力を生み出していると仮定するのが妥当ではないかと思われた。若し仮にその細長い部分が全て開口部で、根元からぱっくり割れて巨大な口が開けるのだとすると、顎の筋肉だけで全ての運動を支えることは相当の負担に成る筈である。獲物を食い千切る為には全身を使って、相当激しい運動をしなければならないだろう。だが脳の容量が相当に大きそうな頭を、わざわざぶんぶんと振り回したがるものとは思えない。長い胴体や短い脚の如何にも鈍重そうな印象は、単に見掛け上のものだけかも知れなかったが、私にはあの怪鳥が鰐の様に全身をどたんばたんと引っ繰り返して獲物を食い千切る場面は一寸想像が付かなかった。ひょっとしたら首の筋肉が余程強いのかも知れなかったが、すっかり身を固くしてしまっていた首は大きな顎の陰に隠れてしまっていたので、それを確かめることは出来なかった。
個別的な、具体的なものへと注意を集中することによって再び現象世界への関心が掻き立てられて来たのか、それとも私の神経が長く非在の境界領域に留まっていることに耐えられなくなったのか、或いは飽いたのか、私はそろそろと身を起こそうと試みた。始めは一体何処に力を入れれば良いのか、そもそも力を入れるとは何う云うことなのかさえ忘れてしまっていた様で、暫く無成果の試行錯誤が続いたが、やがて私の身体を半分以上捕らえている闇が動く潜もった音が聞こえて来た。私は泥の様なその感触から勝手にぴちゃぴちゃぺたぺたと云う音を予想していたのだが、意外にもそれは寧ろ降り積もった雪の上を歩いて行く時の様な、ぎゅっ、ぎゅっと云う密度の高い音だった。身体が動く度に、皮膚にぺったりと貼り付いていた闇がどろりと剥がれ落ち、粘液に近いが何処か砂の様な粒々めいた感触で以て皮膚を引っ張ったが、私はまるでその儘皮膚も骨も筋肉も内臓も何もかもがずるりと崩れ落ちて、支えも無い儘ずぶずぶと闇の底へ沈んで行ってしまいそうな錯覚を覚えた。実際、闇の中には明確な足場と成る様なものは無く、恐らくは私の比重が軽い為にこうして浮いていられるだけなのではないかと思われた。とにかく上半身だけでも起こそうと掌底から肘に掛けて下向きの力を込めると、両腕は大した抵抗も無くその儘二、三十センチも沈み込み、そこでようやっと全体的に抵抗感が増し、私を上へと持ち上げようとする反作用が感じられる様になった。とは云っても下に何処か固い地面が存在しているという感じではなく、押し込めたられた闇が密度を増してそれ以上圧縮するのが難しくなったと云うのが正解ではなかろうかと思われた。私は手の平全体で何とかバランスを取って取り敢えず腹から上を闇の上に押し上げようとしたが、力を入れると手の平は尚も少し沈んで行こうとするので重心を失ってしまい、横倒しに倒れそうになった。私は左手を闇の中に沈めた儘、懸命に右腕を引き摺りだし、引き抜く時の抵抗感が余りにもあっさりしているのに驚き乍ら、右手を上の方から体の左側に回して、それ以上回転するのを防ごうと試みた。だがそこでまたバランスを崩してしまい、左手が更に沈み込むと同時に頭が半ば闇の中に埋まり、そして反射的に身体を起こそうとした反動で出来た真空スポットか何かに、胴体が吸い込まれてしまった。私は右の手の平で盲滅法にその辺を叩いて、何とか体を起こそうとして何度も失敗し、その度に闇が大きく揺れて暴れ回り、しかし頑固な弾性で以てがっちりと私の身体を押さえ込み、砂を掻き混ぜる様な潜もった音を立てた。
私は結局一度大きく沈み込み、その後ハタと気付いて全身の力を抜き、浮力で自然に再び浮き上がるのを待った。忌々しいことにその方法は上手く行き、再びあの生き物と目が合ってみると、そいつは全く身動ぎもせずに私の悪戦苦闘を平然と見物した儘だった。私は成る可く余計な力が入らないように全身をゆったりさせ、少なくとも安定した視界が確保されるように努めた。少し体勢が整うと、私は再び身を起こそうと腹や腕に力を込めたが、何うやっても力を集中させる支点が見付からないので、やがて諦めて大の字に手足を投げ出し、半ば捨て鉢になって、しかし若干のユーモアを愉しむ余裕を残して、もう何うでもなれと云った感じで闇の上に凝っと横たわった。頭上には依然暗澹たる雲が広がっており、じりじりとゆっくり這う様な動きで、私から見て頭の方向へ向かって移動していた。目と頭の動く範囲で精一杯見回してみても、全体像を把握しようにも何とも広漠で取り留めの無い光景に、私はこれから何うすべきかさっぱり思い付かずにぼんやりと視線を宙に彷徨わせた。掴み所の無い闇の感触が、私の心までを包み込んで行く様だった。
「少しは落ち着いたかね?」
突然、声が響いた。
声は嗄れた様な、喉の病気で掠れた様な、何処か反響の良い部屋の中で喋っている様な、普通でない声が二重三重に重なった様な耳触りをしていた。私はギョッとして半ば頭を起こし、声のした方向へと目を向けた。確かにその時の私の頭の中には益体も無い様々の想念が制約も受けずに好き勝手に飛び回っていたのだが、その声は幻聴や空想の取り違えにしては余りにも生々しい実体を備えていて、断じて私の神経の所為などとは思えなかった。
「君は取り残されたのだ。」
再び声がした。声からは丁度そう、古いテレビでモノラルの音声を聞いている時の様に、妙に平板で出所のはっきりしない、目に見えている光景の全てから発せられている様な印象を受けたが、注意を向けていたお陰か、先刻よりはもっとはっきりと聞き分けることが出来た。声は間違い無く、あの生き物の居る辺りから聞こえて来ていた。とすると、あの奇怪な生物は人語を解するのだろうか? いやそもそも、あれに人間との会話が可能なだけの脳や発声器官が備わっているのだろうか? 明らかに生体としての構造は我々の進化系と共通する部分が多い様ではあるが、あれは独自の進化を遂げてああなったものなのだろうか、それとも何時か遠い未来に於て、我々の進化系の一端を担っているのだろうか、それとも、あれは人類が苛酷な環境に自らの肉体を適応させて行った結果のひとつなのだろうか? その生物学的な位置付けは、意図は、目的は? 様々な疑問がどっと押し寄せて来て、ややもすれば停滞しがちだった私の精神を賦活し、攪拌し、余分な夾雑物を取り除いて行った。自分の足で立つことの出来ない、闇と暗がりに閉ざされた世界の中に在って、私は再び情報を選別し、抽象化し、推測し想像する為に活動状態に切り換わった。だが完全に筋道の立った思考が出来る様に成るまでにはまだ間が有り、あの生き物が言ったことの内容について考えるまでには至っていなかった。
その間にもあの声は再び光の恩寵薄き風景の中に響き渡り、私の準備を待ってはくれなかった。それは如何にも余分な感情を省いた冷静な語り口で、途端に自らの知性の劣位を感じ取った私は、何とかして早く気を取り直そうと躍起に成った。
「君達が行った観測/介入は、複雑で数多くの不可逆的過程を含む不可分離帯域の大きなものだった。必然的に君達はこの惑星上に密度/容量の大きな情報を送り込んだのだが、途中で不都合が起こって———一部は君達の手際の未熟さに因るものだが、一部は予測不能だったとしても止むを得ない。君達の知らない或る外部勢力の介在に因るものだ———情報の循環が意味論的にも物理的にも断絶し、一個の高次な知覚系を構成するに足るだけの情報がこちら側に取り残されてしまったのだ。ここに存在している君はそこから再構築されたものだ。基本的な人格的パターンには、君達が気にしなければならない程の差異は生じていない筈だが、想起の捕取領域には大きく欠落が見られる為、記憶の連続性は大分損なわれている筈だ。」
そこでそれは不意に言葉を切った。そしてこう続けた。
「大丈夫かね? もう一度説明しようか、それとももう少し間を置こうか?」
そう言われて初めて私は、自分が相手の言っていることを十分理解しない儘呆けていることに気が付いた。その生き物は比較的ゆっくりと、噛んで含める様にして喋っていたのだが、私はその音節を聞き分けることは出来ても、その内容が意味するところについて、何等発展的な理解力を発揮しようとはしていなかったのだ。私は薄く唇を開いた儘空ろな目で声のする方を眺めていたのだが、さぞかし間の抜けた顔をしていたことだろう。集中力を欠き、気が散漫に成っているのを、よもや人の表情や状態を読めるなどとは思いも寄らない奇怪な生き物から指摘されるとは! とすると、あれは私が思っていたより遙かに人間存在に近い所に居る存在らしい………私は本能的にその疑問に食い付きそうになるのをぐっと堪えて、何とか今現在の会話に意識を集中させようと試みた。口を開くと、若干喉がいがらっぽく、話すと微かにヒリヒリと痛みが走ったが、それ以外には特に支障無く言葉を口にすることが出来た。
「いや………」と言い掛けて私は、掠れた様な呟きしか洩れていないことに気が付き、唾を飲んでもう一度もう少しはっきりと言い直した。「いや、繰り返して貰う必要は有りません。少し時間が欲しい、頭がまだどうも上手く働いていないのです。」
自分で声を張り上げてみて初めて———と云っても大して大きな声は出なかったのだが———私は、相手がそれ程大きな声を出しているとは思えないのに、まるで直ぐ目の前で囁かれた様によく聞こえていたことに気が付いた。
「分かった、待とう。」簡潔な返事が有った。それがまたよく耳に沁み入る様な音なので、私は思わず目先の疑問に飛び付いた。何にせよ疑問を残した儘では思考の整理がさっぱり追い付かないのが、私の欠点と呼べる気質のひとつなのだ。
「私の声はよく聞こえますか?」私はわざと単なる会話には必要以上と思えるまでに声を張り上げて言った。「その………聞き辛くはないでしょうか?」
数行程間を置いてから返事が有ったが、そこからはまたしても、私の心理状態を適切に推し量っているであろうことが察せられた。「大丈夫だ、問題無い。もっと小さな声で話しても十分聞き取ることは出来る。現在この周囲の空間は音声の伝達率を一時的に上げてあるので、囁き声でも明瞭に伝わる。」
そう云えば以前そんな技術を用いる文明を目にしたことが有ったことを、私は思い出した。流石にそれが具体的に何う云った発想に基付いている技術なのかまで問うことは差し控えた。今はよたよたとリハビリを必要としている乏しい理解力を振り分けるべき対象としては、それが優先度の低いものだと判断する力は残っていたらしい。それよりもっと重要な疑問が浮かんで来たので、私はそれを口にした。
「では私の周囲に存在しているこの闇が静かなのはその影響からなのですか?」
「………いや、この………『海』と言っておこうか、君達の言語にこの名称の持つ多義的なニュアンスを伝え得る単語が存在するかどうか私には確信が持てない———この『海』は元々全般的に非常に静的な性質を持っている上、現在のこの場所の地理的・気象的諸条件もまた、この『海』を静かにさせる方向に働いている。現在稼働中の放角基を全て停止させたとしても、殆ど変化は無いだろう。」
私は思わず詰めていた息を吐くと「了解しました。有難う。」と呟いた。
「ひとまずは満足かね?」
表情ひとつ変えず、身動ぎひとつせずにその生き物が言うので、私は目を伏せて頷いた。
「それは同意を表す仕種だろうか?」
成る程、非言語的コミュニケーション手段にはそれ程通暁している訳ではないと云うことだ、と私は思い、「そうです。」と口に出して言った。それから身振りのことを考えていた所為だろうか、無意識的に片手を上げて「有難う、では少し休ませて貰いましょう。」と続けた。
「待とう。」とその生き物は応えた。
私は尚も衝動的に口を衝いて出たがる取り留めの無い質問の束を一纏めにして意識の辺縁部に逐い遣り、取り敢えず気を落ち着けることに神経を集中させた。こう云う時に非常に便利なものが有った。以前火星での短い生を送った時に体内の化学物質の生産を制御する機構が私の神経系に構築されていたことを思い出し、私は自分の頭の中を探った。一分、二分………何等かの反応が得られて十分な筈の時間が過ぎ去って行った。だがその機構は見当たらなかった。念を入れて探したのだが、それどころか体の調子を監視する為の機構すら見付けることが出来なかった。私は取り残された情報から再構成された存在だとあの生き物は言ったが、だとするとそうした後天性の強い部分はこちらには残らなかったと云うことなのだろうか。観測/介入にわざわざ主体の調節機構をその儘持ち歩いて行く必要は無いのだから、これは考えてみれば当然のことかも知れなかった。私は諦めて大崩壊時代以上に発達した精神を調律する方法を幾つか試してみようとしたが、それらもまた、必要な機構が備わっていないらしく、何の反応も得られなかった。選択肢が極く狭い範囲に限られてしまったので、私は幾つかの候補の中からひとつを選び、先ず先程無視することにした幾つもの疑問をこっそり復活させて、それらの間に有機的な関連付けを行いつつ、それらを何とか整合性の見易い様な具合に並べ直し、余計な枝葉は燃焼させて抹消してしまった。それからその剪定がひと段落付いてからその全体像を成る可く突き放して捕捉し、それが時間の経過と共に沈静化して行くのを待って、その間に全身の神経を使って深呼吸を繰り返し、様々な生理活動が眠った時の様に静かに成り、且つ精神が余計な雑音が取り除かれて澄み渡るよう、段階的に手順を踏んで調整を行った。
恐らくそこまで十分か二十分か、時間を測る手段を持ち合わせていなかったので正確なところは判らなかったのだが、それなりに長い時間が経過する間、あの生き物はまるで石にでも成ったかの様にピクリとも動かなかった。意識を整えている間、私は半眼でその生き物を視野の一部に捉えていたのだが、思考が活発化して行くのに反比例して、細長い柱の上に蹲ったその生き物がまるで尖塔の上のガーゴイルめいて、時の中の諸々の変化に黙々と耐え抜いているかの様な錯覚を覚えた。私を沈み込ませている闇は熱くも冷たくもなかったが、長いこと凝っとしていると、砂浜か、さもなくば蟻の大群の死骸の中に身体を埋めている様な、各々の粒々が妙に生々しい感触を以て私の肌を撫でている様な気がして来た。集中力の主導権が外界の刺激に奪われてしまいそうに成る前に、私は再び口を開いた。最初にする質問は何にしようかと少し迷ったが、話し始めてみると意外にすんなり言葉が出て来た。
「状況を確認させて下さい。」
「結構。」___身振りを解さない相手に対して何う沈黙を破って良いのか分からず、同じ人間相手だったとしたら些か唐突な遣り方で話し掛けたのだが、その生き物は事も無気に答えた。
「貴方はこうして普通に私と話しているが、このコミュニケーションは正常に行われているのでしょうか? 見たところ貴方に私と同じ様な発声器官が備わっているとは思えないのですが。」
「この音声は機械的な補助に依るものだ。君からは見えないだろうが、私の口の先にリング状の発声装置が装着されている。と云ってもこの場所に着けているのは我々の口が発声器官だからではない。我々は音声信号では複雑な意思の疎通は行わない。この星の大気の初期状態がそれに適してはいないのだ。この箇所を選んだのは、それが微小な刺激に対して最も不快感を感ずることの少ない箇所だからだ。」その生き物はスラスラと答えた。
「音声を使わないのなら、何うやって意思の疎通を図るんですか?」
「君にはまだ不可能な或る方法に依っている。我々はこの惑星上の環境と我々自身の肉体を改造することにより、精度の高い量子信号によって思考のパターンを伝え合うことを可能にしたのだ。」
「では貴方のことは何と呼べば良いのでしょう?」
「私は———と云う呼称によって呼ばれ、認識されている。」
何やら聞き慣れない音節が並んだので、私は何と言っているのか聴き取れなかった。恐らく私の言語に合わせ発音を変換しているらしいのは解るのだが、それでも音の並び方のパターンが余りにも異質で、しかもロシアの貴族か何かの名前の様にやたらと長くて区切り方もよく判らない為、全体的な印象が意味の手応えの有る実感を成さないのだ。「何ですって?」私は戸惑い、理解不能なものを前にして傲慢な自尊心がまたぞろ働き出したのか、幾分苛立たし気に、もう一度繰り返してくれるよう促した。
「———。」
再び訳の分からない音節が聞こえて来たが、辛うじて「スメルゴリ———」何とかと、「ネポジ———」、それに幾つかの気息音らしきものが判別出来ただけだった。どうも三音節以上の纏まりは頭の中で何度繰り返してみても確定した形態を形成せず、スキーや凧が滑らかな流れから外れてしまう時の様に、急激にブレてしうのだった。我乍ら情け無いことに、自分で思っている以上に私は疲れているか、それともこの新しい肉体の使い方に習熟していないかのどちらかの様だった。その生き物は私の困惑を見て取ったのか、更に二度同じ様に繰り返してくれたが、私には何うしても把捉することが出来なかった。
「我々の名前は我々の生活空間に於ける一種の座標指示の様なもので、同じものはひとつとして無く、その各々の個体が我々の共同体に於て何の様な位置を占めているのかを示すものだ。従って誰かの名前を正しく伝達出来ないことは、時として非常な混乱を招くことも有る。だがしかし、これから君が交流することに成る個体の数は最初の内は極く限られたものであるだろうから、君が我々の通常のコミュニケーション手段を利用出来ない以上、個体の識別に相応の制限を付けておいて差し支え無いだろう。今君の言語に変換したのは、私の個体識別パターンを優先度の高い順に継時的に並べ直して我々の数字に置き換え、それらが我々の或る数学表現体系内に於て持っている固有震動波を、君の可聴領域に於ける音声信号の符牒と見做して最も単純に発音したものなのだが、厳密さの要求のレベルを引き下げて良いとするならば、君の呼び易いもっと簡単な呼称を用いることも可能だ。また利便性の為にもそうすべきだ。」
頭が若干混乱して内容に随いて行くのにワンテンポ遅れ勝ちになったのだが、何とか私は成る程と納得したと思えるところまでその生き物の言っていることを整理した。詰まり彼等の名前とは言うなれば管理社会に於ける社会保険番号や、身分制のはっきりした共同体に於ける称号の様なもので、そして恐らくはそれ以上の精妙なニュアンスをも含むものなのだろう。その口振りからすると、所謂我々が考える様な「地位」や「身分」よりももっと広い意味での、共同体に於ける役割を意味しているのかも知れなかった。私の頭の中に漠然とだが立体的な、或る共同体内に於ける各個体同士の関係性が座標空間に於ける点や線やベクトルで示され、それらの或る一定の唯一無二の組み合わせがそれぞれの個体を指し示す像が浮かび上がって来た。それを数字に置き換えた、と云うことは彼等も数字は使うのだろうか。とすると、彼/彼女———性別が判らないので、いや、そもそも彼等に我々と同じ様な性別が存在するのかどうかさえ定かではなかったのだが、この時はこれを問い質そうとは思い付かなかったので、仮にそう呼んでおくが———の名は、例えば「31456ー63481」の様なものなのだろうか。数字を名前の一部として用いる文明は私も幾つも知っていた。現に私が属していた文化圏でも、数字を名前に組み込むことは極く普通に行われていた———尤もそれは、或る家系の中で何番目に早く生まれたとか、数を用いた様々な旧時代の迷信や習俗等に基付いた、極く原始的な理由に因るものではあったのだが。私の知っている他の例はと云えば、同一の遺伝子から生み出された順番を表すものや、何う云った種類の活動を重んじる一種のセクトに所属しているかを表すもの、銀河標準年とその個体が暮らしている個々の星系暦との間の差を表すものや、或いは単に社会保障番号の延長の様に、行政管理上の必要から組み込まれたもの等が有った。それにしても、音節の連なりの訳の分からなさはどうだろう。普通の会話はこうして殆ど何の支障も無く行えているのだから、彼/彼女が使用している翻訳機は極めて優秀なのだろうし、また、彼等の思考形態、少なくとも彼/彼女が私に合わせてくれている限りでの思考形態は、私のものと極めて親近的なものであることが期待出来る。だとすると、ここに至って現れて来た壁は、彼等が使用している基本的な概念体系と、私のそれとの間の懸隔が大きい場合、そこに依存せざるを得ない固有名詞を用いる際に容易に発生し得るものではないだろうか。より一般的な単語や言い回しには還元出来ないものが、ことに依ると次から次へと出て来ないものでもあるまい。
私に呼び易い名を使用すべきだと云う彼/彼女の勧めを暫し反芻してから、私はゆっくりと口を開いた。「貴方の御言葉に甘えさせて貰うとしましょう。もっと短い名前の方が私には有難い。貴方のことは何と呼んだら良いでしょうか?」
「正式な名前の短縮形、乃至省略形を用いるのが一般的だが、」と、そこで彼/彼女は少し考え込む様な間を置いた。「どの程度まで縮めるかは少し考慮した方が良いだろう。元来我々の名前はこうした形で省略して用いるのには向いていないのだ。この場合、必要な長さと云うのは、君が私を他の個体から間違えずに区別して呼ぶのに必要なだけの長さと云うことなのだが、それは君が今後何れだけ多くの他の個体達と接触する機会を持つかに依って大きく変わって来る。君がより大勢の者と接触する積もりであるならば、個体の識別に必要な名前にはより多くの個体情報が含まれていなければならない訳だから、それだけ長い名前が必要に成ると云う訳だし、君が極く限られた者達としか接触しない積もりであるのならば、必要な長さはその分ぐっと減る訳だ。識別の必要な相手の数が二桁か三桁程度であれば、ほんの数音節で済むだろう。」
私は些か途方に暮れて言った。「しかし、私は貴方以外の個体が何れだけ居るかさえ知らないのです。」
「現在、この惑星上に於て励起状態で活動中の個体は七千六百五十三体だ。我々は殆ど大気圏外へ出ることは無いので、これが略現時点での総数だと考えて貰って構わない。」
出て来た数字の大きさに、私は少なからず驚いた。恐らくこの惑星の陰気な様子から、何処か小さな巣で細々と身を寄せ合って暮らしている彼等の姿を想像してしまっていたのに違い無い。愚かなことだ! 彼等が少なくとも私の試みを理解し、その危難に際して救援の手を差し伸べてくれる程の知性と技術力と、そして度量とを持ち合わせていることを考えれば、その如何にも奇怪な原始動物の様な外観にも関わらず、彼等が実に高度に洗練された文明形態を有していることは容易に想像が付いたことなのだが。私がこの短い時間の内に目撃したこの惑星の気候は、とても複雑な生物の存在を許す程優しいものとは見えなかったのだが、それもひょっとしたら一時的なものや局所的なものに過ぎないのかも知れず、或いは彼等がこの厳しそうな環境の中で生き延びて行く為の、今私が目にしているものよりも更にずっと巧妙な人工的な環境を整えていないとも限らないではないか。常々想像力を友として理性的であろうと心掛けてい乍ら、一寸気を緩めた途端、何やかや有象無象を大した根拠も無しに思い込み、信じたがる性向は、図々しくも顔を出してのさばり出し、思考の鼻先を抓んであちらへこちらへと引き摺り回そうとするのだ!
「励起状態で活動中」と云うのが何う云ったことを指すのか解らなかったが、その不慣れそうなぎこちない表現から、恐らく理解する為には長々とした解説を必要とする様な事柄なのだろうと当たりを付けた私は、ひとまずそのことは脇に置いておくことにして、話を続けた。
「では、ここから一番近くの街へ行くとして………」
「街?」
彼/彼女が初めて疑問形らしき抑揚を口にしたので、私は些か意表を衝かれた。そこでまたひとつ明らかに成ったのだが、それまで私は向こうではこちらの言うことを位置から十まで、いや私自身が知っている以上によく知っているものだと云う印象を受けていたのだった。
恐らく先程の私と同じ様に、翻訳の難しい概念に突き当たってしまったのではないかと推測した私は、一致点が見付かるまで言い換えを試してみることにした。「街、都市、村、共同体、巣、人間が集まって住む時の地理的単位………。」いざやってみると仲々すらすらとは単語が出て来なかったが、私がそれ程まごつかない内に、相手の方から助け舟を出してくれた。
「居住区のことか。」
「居住区?」馴染みの単語ではあったが、一応その内容を確認する為に、私は敢えて訊き返した。
「適切に翻訳出来ているのかな? 私の言うことは理解出来ているかね?」
「意味は理解出来ます。貴方達が纏まって生活している場所のことですね?」
「そうだ。恐らく『居住区』と云うのが君の言わんとするところに最も近いだろう。」
「ではその居住区に、貴方達は何人居るのです?」
「十五人。私が属している最も近くの居住区で暮らしているのは全員で十五人だ。」
私は今度はその余りの少なさに驚かされることになった。十五人? それでは我々人間の基準に照らせば精々数世帯分だ。過疎地の小村並ではないか。私は当然翻訳上の行き違いを頭に浮かべた。彼等の世帯構成が何うなっているのかは知らないが、「居住区」とは「家族」や「家」、或いは何等かの血縁関係の単位を言い間違えたものではないだろうか? 詰まり、私が期待しているものよりも一回りか二回りばかり小さな生活単位が誤って回答されたのではないだろうか? 高度な技術や精神生活を営むのにはそれに見合った物質的基盤が必要なものだが、それは当然それを作り出すに足るだけの大人口が要求される筈である。彼等の集合生活単位は最低でも数万人か数十万人を擁しているのではないだろうか? ———実のところ、もっと少ない人数で豊かな文化を育んでいる例も存在することを、私は聞き及んだことが有った筈なのだが、やはり咄嗟の時には自分が比較的慣れ親しんだ事例ばかりが参照対象として心に浮かんで来てしまうものらしく、彼/彼女の返答が私の求めるものに極めて近いと云う可能性を、この時は真面目に考えてみようとはしなかった。従って、暫し戸惑った後の私の次の質問は、両者の間に正確な意思の疎通が行われていないことを確認する為に発したものだった。
「で………では、その十五人居る居住区から最も近い所に在る隣の居住区までは、距離にして———どの位離れているのですか?」
ところがこれに対する返答もまた、私の予想を裏切るものだった。
「凡そ二・四キロメートル。」
二・四キロメートル! 開拓時代のアメリカではあるまいし(これは少しオーバーな喩えだと後で思い直したが)、それ程広い空間を間に挟んでいると云うことは、私が考えていた様な密集的な集団を形成している訳ではないと云うことだ。とすると、それだけの空き地は一体何に使われているのだろうか? 畑や牧草地の類いが広がっているなどとは到底想像出来ないのだが………。
「するとその………貴方達が十五人集まって暮らしているのはその一纏まりから二・四キロ離れた所に、また別の十五人程度の集団が暮らしていて………そう云うことなのでしょうか?」少し舌が縺れた。
「十五人とは決まっていない。それは居住区に依ってまちまちで、四、五人程度のところから五十人近くまで有る。各居住区間の距離や位置関係もそれに応じて各々異なっている。」
頭の中に思い描かれるイメージが奔放に入り乱れるので、次に何を質問すべきか何度か言い淀んだ後、私はやっとそれらしい質問を繋ぐことが出来た。
「詰まり、そうした小単位の———私から見れば社会形態としては極めて小単位だと見えるのですが———居住区が、バラバラに離れて点在して広がっていると云う訳ですか?」
「離れているとは云っても各居住区は孤立している訳ではない。各居住区同士の間には、我々の生活を支える数々の機構が張り巡らされていて、有機的な関連の下に複雑な統一体を成している。」
「では、そうした居住区同士の集まりが一区切り付いて、より上位の単位を構成すると云うことは有るのでしょうか? 詰まり、こちらにひとつの居住区の集合体が在り、そこからまた離れた所に別の居住区の集合体が広がっていると云う様な………ええ、だから街が、街と云うものは、私が言う都市と云う概念で伝えたいことは………」無意識的に身振り手振りを交えようとして上手く行かなかったことも有って、私は次第にしどろもどろになって行ってしまい、慣れ親しんだ常識から逸脱する事態を表現しなければならなくなった時の言葉の迂遠さが、どうにも我慢がならなかった。だが、彼/彼女の方でどうやら舌足らずな私の意図を汲み取ってくれたものらしく、適切な説明でその後を継いでくれた。
「居住区はこの惑星の赤道付近一帯に広がっているが、主に地理的な要因に依ってその密度には濃淡が生じている。だが、何処かひとつの密集した地域を取り上げて、それを分割不可能な単位だと考えるのは誤りだ。個々の居住区は極論すればたったひとつだけでも独立して稼動して行くことが可能で、日々の暮らしに必要な機能は、我々の生活形態に在っては大規模な施設や組織を必要としていない。大きな事業に必要な施設はその利便上近接していることが多いのだが、それは諸居住区の集合の密度とは関連性は薄い。これで君の求める答えになっているかな?」
「ええ、ええ………。」意思の疎通が思いの外円滑に進んでいることに力付けられて私は二、三度頷こうとしたが、首の後ろの辺りが何故か強張った様に硬くなっていて、上手く筋肉を動かせなかった。
「君は恐らく、君がこれから接触を持つことになる個体の数は、地理的な近さと云う要件に大きく左右されるものだと云う前提に立って話をしているのではないかと私は推測するのだが、その推測は間違っているかね?」
「いいえ、間違ってはいません。物理的に近くに居る相手には当然会う機会も多いだろうと思って話しています。」相手の思考形態に何とか噛み合う様な会話を組み立てようと、私は、私なりに言い回しを考慮して回答した。高々呼び名を何うするかと云う初歩的な問題に関して斯くも遠回りをしなければならないことに対して、半ば場違いなまでの焦りと苛立ち、そして半ば高揚感を伴った好奇心に駆られ乍ら、私はこの回り道の先を早く進みたくて仕方が無かった。「無論接触を持つ相手が必ずしも物理的な近さだけに依って決定されるものではなく、人間関係を形成するその社会形態の在り方に大きく影響を受けると云うことは私も了解している積もりですが、しかし共同体をひとつの纏まりとして考えた場合、やはり互いに近い場所に存在していると云うことは、決して無視出来ぬ重大な要件として見ておかなければならないと考えます。」
「それは各居住区同士の間で物理的な交流が有ると云う仮定の下に為されている立論だろうか? 例えば、或る居住区から隣の居住区へとその住人が訪ねて行くと云う事態を想定しているのだろう?」
「その通りです。その居住区と云うものが家や何等かの小規模な共同体であると仮定した場合、そして———いや、どうやら私の仮定が間違っていたと云うことは薄々解っては来ましたが———そうした居住区同士が集まって一回り大きな共同体の単位を形成している場合、地理的乃至物理的な近さは、接触の目的や深さと大いに関わりが有ります。例えば、」ここで私は、自分達のことを例として挙げて良いものかどうか、向こうの翻訳機が上手く私の意味するところを十全に伝えてくれるかどうか少し迷ったのだが、仮令両者の間に一時の齟齬が生じようとも、そのコミュニケーション不全を相互の確認作業によって乗り越えて行くことで、より互いの理解が深められるのではないかと云う期待から、また少しは自分の置かれている背景に固執する偏狭で自己中心的な人間だと相手に思われるかどうか試してみたいと云う、半ば自虐的で臆病な性質の悪い実験癖から、結局その儘誤解を怖れずに続けることにした。「定住民の場合、閉塞性の強い田舎や都市化の進んでいない地域では、地理的な近さは往々にしてその儘心理的・社会的な近さと直結しています。誰もが隣人のことをよく知っていて、またその接触もそのよく知っている隣人達に限られています。各々の個体はそれぞれ独立した自律的な諸個人と云うよりは寧ろ共同体の一部で、その行動や考え方も相互の間で交わされる有形無形の監視の目によって厳しく規定され、制限されています。より複雑で高度な様々な機能が密集した都市部に於ては、接触する機会の有る相手はその人の地理的な近さではなく寧ろ地位や役割に依って選別され決定されます。実際、何年も隣に住んでいる人間の顔も名前も知らないと云うことが、都市部では往々にして起こります。ですがそれにしたって、日常的に接触する相手は地理的な条件によって大きく制限を受けていて、少なくとも物理的な接触に関しては、余り遠くに居る相手とはその機会も少ないものです。我々の時代に於ては、通信や交通の手段はそれなりに大いに発達していて、中には地球の裏側にでも居る相手と極く頻繁に手紙や電話やインターネットを介して意思を伝え合ったり、行き来をしたりする機会に恵まれた者達も大勢居るのですが、飽く迄もこうしたことは極く最近に成って———詰まり私から見て最近と云うことですが———急激に発達して来た変革に由るもので、我々の時代の人類の大半は未だそうした便利さの恩恵に浴してはいませんし、また恵まれた少数の者達にして———私はどちらかと云えばその恵まれた方に属していたのですが———長年の思考習慣と云うものは仲々抜けないもので、先ず真っ先に接触する相手と云えば物理的・地理的に近い所に居る者を思い浮かべてしまうものです。ですから私が自分がこれから接触する相手の数を気にした時、先ず地理的な要因を重要なものと考えたのは、我々が長い間置かれて来た状況、即ち、社会形態が長い間物理的・地理的な条件に依って大きく左右されて来たと云う事実を反映してのことなのです。」
ここで私は一旦口を閉じた。そして、相手の表情や視線を探ろうとでも云うかの様に一寸の間黙って彼/彼女のことを見上げて———いや、私は横たわっていたのだから、その体勢から見れば自分の足の方向を見ることになるので「見下ろす」形になっていたとも言えるのだが———その反応を窺い、相変わらず何も目に見える程の変化が起こらないことに内心些か失望しつつ、自分の今の若干誇張して単純化した、やや軽率とも言える発言に対して慌てて言い訳でもするかの様に、急いでこう付け加えた。「勿論、今の話には正確に理解して貰う為にはもっときちんと説明しておかなければならない用語や論展開が有ったとは思うのですが………。」我乍らこの如何にも取って付けた様な下手で不十分な説明には、苦笑が口許に漏れた。
「いや………。」またあの何かが軋る様な、耳障りな潜もった声の流れに若干の間が空いた時、私はあの豆粒の様な、しかし確かにそこに存在していると判る二つの瞳に、凝っと心の底まで見透かされた様な気持ちになった。「幾つか曖昧な点は有ったが、大筋は掴めたと思う。細かな点は後でゆっくりお互い確認し合う時間も有るだろう。君達の習慣からすれば、接触は地理的乃至物理的な条件に依って規定されていると考えるのは極く自然なことなのだね?」
不自然ではない程度の抑揚は有るが奇妙に感情を欠いたその平板な声によって表されたその物分りの良さ、そして恐らくは自分の疑問よりも私の心理状態を優先的に考えてくれたのであろう気配りに、私は感謝と安堵の念を覚えると同時に、少なからぬ驚きを心の裡に感じた。彼等の心性が我々のものと似通っているのではないかと推測はしていても、やはり外観に於ける差異の余りの甚だしさが、そうした推測の結果を自明のものとは感じさせていなかったものと見える。それにしても、略同じ構造の肉体を持った人類同士に於いてさえ、時代や文化が違えば対人的なルールもそれに応じて食い違いが出て来て当然なのに、この会話の気味の悪い位の円滑さは、元々彼等の心性と我々の心性とに共通性が多いからなのか、それとも彼/彼女がその言動を私に合わせてくれているからなのか、気になるところではあった。それに、こうした探究に関わる者達の間には、その自然な変容の結果として、似た様な心性が形成されるものと云う可能性も考えられないではなかった———これは十分な労力を費やして考察するに値する問題の様に思われた。
「その通りです。」その姿勢からそれ程は動かない首を頷かせ、勢い込んで私は言った。その後また何か満足する様な言葉を続けようと思ったのだが、相手の知性に気圧されたのか、別の考え事に気を取られていたのか、上手く口が回らなかった。だが私はまた何か余計なことを口走る前に、極く無難な言葉でお茶を濁した。「ここではそうではないのですか?」
すると、早くもこちらに必要な解説を与えてくれるかの様に返事が続いた。
「そうだ。我々のコミュニケーション単位は、この惑星上に於ける居住区域全体に亘っている。この惑星上に居住する諸個体の全ては、励起状態に在るか否かを問わず常に巨大な思考遊泳池と繋がっているのだ。我々はこの惑星の反対側に居住している諸個体とも瞬時にして意思の疎通を図ることが出来るし、地理的により近接した個体、例えば同じ居住区内に居る隣の個体だからと云って、より一層素早く連絡が取れる訳ではない。接触する頻度はそれこそその目的に応じて多様に異なり、君達が当然のものとして想定している様な極く日常的な生活上の必要から連絡を取り合うことは少ないが、我々は常に様々な計画に従事しているので、検討や議論の類いは非常に盛んだ。諸科学の探究、この先の生存計画、過去の事績の記録の整理、多様な形態の美の発見と構築、生理学/心理学上の知見に基付く調和と冒険の試み。君がこれから何う云った諸個体と接触することになるかは、君が何う云った事柄に関心を寄せるかに依存している。従って先の話に戻ると、君が私を何の様な名称で呼ぶべきかは、君が私を何う云った他の諸個体と区別しなければならないかに懸かっている訳だが、君がこれから何うしたいかを決めるまで、それは白紙の状態に留まっている。」
自分がこの驚嘆すべき会話の流れに受動的に身を任せてしまって、そもそもの話の筋道を半ば失念してしまっていたことにハッと気付いた私は、気を取り直して反射的に思い付いた疑問を口にした。
「ですが、私がこれから会わなければならない人達と云うのが居るでしょう? 私の今後の身の振り方について協議したり決定したりすることに関わる人々が。私のここでの存在は非常に特異なものと成らざるを得ないと思うのですが?」
言ってしまってから、今の言い方は少し調子に乗っているかなと云う保留が浮かんだが、それを深く追及出来ない儘、暫しの沈黙が有った。
「君が言っているのは詰まり、君達の概念で言うところの政治、行政、支配、諜報工作等に該当する分野のことだろうか?」
「ええ………そうですね、大体のところは合っています。私が言っているのは要するに、ここの社会に於ける統治責任者、指導者や上位の決定権を持つ人々のことです。」彼/彼女が挙げた単語の選択に若干の違和感を覚え乍ら私は言った。
「成る程………。」と言って彼/彼女はまた少し言葉を切ったが、私が慣れて来た所為か、相変わらず無表情なその顔には何処か知ら興味深そうな雰囲気が浮かんでいる様にも感じられた。
「いや、その点についても君と我々との間には相違が在る様だ。我々の間には君の言う『責任者』なるものは存在しない。極めて重要な都市/環境計画に他の諸個体よりも積極的に関わっている者達は存在するが、それはそうした方面の事柄に必要とされる高度の経験と専門的知識/連結体系を有しているだけのことであって、君達の国王や首長や大統領に該当する様な権力を有している訳ではない。君達の知っている制度で多少なりともこれに近いのは直接性民主主義だが、専門性の高い分野についてはその道の有能者の見解が尊重されるとは云え、話し合われる事柄は全員に開かれていて、参加も自由だ。だがそれぞれの個体に依って得意分野や関心の高い分野も異なる為、自然と緩やかな住み分けが出来て来るのだ。君の場合、恐らく適切な行政区分は『外交』なのだろうが、我々には長らく、他の人類と交流をする経験を持っていない。一方的な観察の対象とすることは有っても、意思の疎通を図ったことが無いのだ。現在励起中の個体、或いは励起可能な個体の内、我々以外の人類と直接乃至間接的に接触を試みた者は一人も居ない。詰まりは、この私が最初と云う訳なのだ。私は過去の歴史について多少は通暁しているのでね、協議の結果、私が代表として来た訳なのだ。従って君がこれから会うことになる可能性の高い人物は、私の様な研究者と云うことになるだろう。」
「成る程………成る程………。」彼等の社会形態についてのこの簡単な言及に激しく興味をそそられ乍らも、私は後で訊く機会は幾らでも有るだろうと自分に言い聞かせ、とにかく話を先に進めることにしてこう尋ねた。「では貴方とその専門家達は何うやって区別すれば良いのでしょう?」
ところがこれに対する答えは何とも素気無いものだった。「幾つか徴表は有るが、呼称に関しては君の好きな様に命名してしまって構わない。我々が互いを区別する時の徴表は、どの道君の神経組織には十分に識別することは不可能だろう。それに我々の方としても、発話言語や書き文字に依るコミュニケーションは極く不慣れで、私の様に話せる者は恐らく他には居ないだろう。よって外見や言動や性格等、君にも我々にも違いが理解出来る様な特徴に着目して、そこから君の呼び易い様な音声を選択すれば良いのだ。」
私は戸惑いを隠せなかった。「し………しかし、貴方とはこうして殆ど何の支障も無く話していられる………。他の方々も貴方と同じ様にすることは出来ないのですか?」
「それは難しい。我々がこうした音声言語で会話をする為には、長期間の調整と訓練が居る。私は極く物好きな類いでね、過去の人類の存在/生活様式を研究するのに、他の者が滅多に採らない接近法を用いているのだ。だからこうして、君の嗜好や感情を可成りの程度まで精確に追跡し、予測することが出来るのだ。」
「ですが、機械的な補助が有るのなら………」
「いや、それは飽く迄補助の為の道具に過ぎない。もう少し時間を掛ければ、私の肉体から直に音声言語を発せられる様にすることさえも可能ではあるが、それとてもやはりその基盤となる知識が有ってこそ意味を成すものなのだ。音声言語が何う云うものかと云う理解は我々の間で広く共有されているものではあるが、それを実際に自分達で使用し、自在に操ることとなると、話は全く別のものになって来る。これは例えば君が、君達の時代よりずっと遠い昔に死滅した文明に属する、君が使用しているものとは全く別種の音声言語を使用しようとした場合よりも、遙かに大きな困難が伴うのだ。」
「そうですか………では一体、貴方や御仲間を何と呼んだら良いのでしょうか?」
「今述べた通りだ、君の好きな様にすると良い。先程の様に我々の識別パターンを無理矢理音声言語に置き換えてみることは出来るが、どうやら君には使い難いものの様だからね。」
私はほうと小さく溜息を吐いて考え込んだ。そして試みにこう問うてみた。
「貴方達が自分達のことを定義するのに用いている言葉は何です? いえ音声でと云うことではなく———概念として、何う云った意味を持つものなのか、説明出来るでしょうか?」
「種族/類概念としてと云うことかな?」
「ええそうです。」
「繰り返す様だが、我々の用いている『言語』は君達が用いているものよりも遙かに精妙で、しかも可変的だ。何う云った文脈に於てそのパターンを使用するかに依って、その意味の広がりは全く異なって来るので、一言でその広がりを言い尽くしたり要約したりすることは出来ない。それを踏まえた上で、翻訳可能なニュアンスを言い当てるとなると、こんな具合に成るのだろうが………人類、第七十一人類、黒い大陽の子等、炭素基盤知性体、地上実焦点、より広い可塑意志圏を構成するもの、二極性を基本とする思考形態から進化した多極的知性への途上に在るもの、変化の原因と成るもの、居住するもの、第三進化生物、逍遙する人、開放的聖性の受動的主体としての可能性を持つもの、風に乗る肉体、渡り鳥………」
「結構、結構です。」少なからず混乱して私は苦笑を——或いは苦笑の積もりだった顔の引き攣りを——浮かべたが、果たしてその意味が相手に伝わっているのかは不明だった。成る程、これでは大して参考に成らないこの時私は片手を上げて制止の身振りをしようとしたのだが、一寸した重心の流れの所為か、上手く力が込められずにパタンと黒い海の上に落としてしまった。。
「では私の方で適当に名前を付けてしまいますよ?」
私が確認して顔色を窺うと、全く口調の変わらないあの耳障りな声で彼/彼女は「ああ、そうしてくれ。」と答えた。
「ですが私が音声言語で命名を行ったとして、それを貴方達の方では何う受け取るんです? またこんがらがったことに成りはしませんか?」
「そのことについては心配しなくとも良い。君達の言語から当然我々の言語に翻訳して受け取ることになる。こちらの方では固有名を表現するのに適切な置換方法が存在する。こちらから理解不能な事態に陥ることは無い。」
それを聞いて刺激された微かな劣等感を誤魔化す様にして、私はむにゃむにゃと何か呟いてから、どんな名前が良いだろうかと頭を捻った。二、三、特に大した根拠も無く候補が浮かんだが、こうしたことで悩んでみてもどうせ碌な結果が期待出来る訳でもないのだと思い、私は単純な直観に従うことにした。
「ロングウッドと云うのは何うでしょう。」
「………ロングウッド………。」暫し沈黙が続いたが、その間は考え事をしている様にも受け取れた。
「………ロングウッド、結構。私はロングウッドだ。ロング………ウッド。」
相変わらず抑揚に乏しいその口調だったが、そのいちいち確認し噛み締める様な間の空き方から、少しは彼/彼女の心理に実感として近付くことが出来た様に思えた。
「名前の由来を教えて貰えるだろうか。」
私はその言い回しに礼儀に適った微妙な綾を感じ取り、これは彼/彼女の私の様な人間の会話に対する理解が深いからなのか、それとも翻訳機の性能が優れているからなのかと不思議に思いつつ答えた。
「小説の登場人物の名前ですよ。小説は解りますか?」
「概念としてならば、知っている。」
「そう、その小説のジョナサン・ヘイワードと云う作家が書いた『黄昏の帳、暁の扉』と云う作品が在るんですが、その中で、未知の国に迷い込んだ主人公を、通訳も兼ねて、まぁ色々と案内をしてくれる人物の名前なんですよ。私達のこの状況に如何にも似つかわしいものと思ったのでね。」
「ジョナサン・ロデリック・ヘイワード………SF作品の作家だね?」
「そうです、SF小説です。」私はびっくりして思わす声を大にして叫んでいた。そしてことの意外さに虚を衝かれた儘、おずおずと言葉を続けた。
「今挙げたのはその中でもユートピア小説と呼ばれるジャンルの作品です———知っていたたのですか?」
「いや、知らなかったで今調べたのだ。だが名前と簡単な概要説明だけで、然程多くの情報は得られなかった。」
その返答に私は重ねてびっくりした。私はずっと相手から目を離さずにいたと云うのに、先程から如何なる機械類の——私からは見えないと云う音声伝達の為の機械も含めて——影も形も見ていないばかりか、身じろぎひとつ目にしておらず、とても何か調べ物をしたりする気配や素振りは微塵も無かったではないか? それとも、出会った時から稼働している筈の翻訳機が動いているらしいこところが全く見えない様に、私の視界からは死角に成っている位置で、何かの操作が行われているのだろうか?
「調べたって———今調べたんですか?」
「そうだ。」
「何処で? 何うやって? 何を使ったんです? 私には全く分からなかった………。」
考え無しの性急な質問に、彼/彼女が何う説明したものか答えあぐねている様な様子が見て取れたが、やがて考えが纏まったのか、再び淡々とした声が響いて来た。
「我々の周囲に存在している諸事物をよく見てみ給え、私が座っている円柱、君を呑み込んでいる泥土、この限定空間を外界の危険から守っている不可視の膜、その中に充満している君も私にも呼吸可能な大気———これらのものには莫大な情報が詰め込まれている。これらは全て物質であると同時に、巨大な偏在性のデータベースでもあるのだ。」
「何ですって? これらは皆人工的なものなのですか?」
「………君達の文明圏に於ては恐らくそうした種類のものに分類されるのだろう。人工的環境と自然的環境とが一体化し渾然と成ってそこに住む人類と共進化を遂げると云う図式が確立されるのは、確か君達の時代から下ってそう遠くない時代の筈だ。全く人類の手が加えられていない自然環境の中にも情報は先験的に埋め込まれている。我々が今手にしている環境は、それをもっと遙かに我々にとって利用可能なものに改変したものだ。」
「ではそのデータベースにアクセスしさえすれば、過去の歴史や何かも全て情報として抽き出せると云うことなのですか? それは何処に居ても可能なのですか?」
「そうだ。この環境は偏在性で中心部は存在しないので、場所を選ばない。但し必要に応じて部分的に幾つかの分野に特化して強化してある箇所も在って、例えば私が座っているこの柱だが、これは君とのコミュニケーションに必要と思われる情報を優先的に系列化し、利用し易い様にしてある。尤もこれは一時的な措置なので、必要が薄ければまた他の箇所と同じに戻るのだが。」
「私にもアクセス出来るのでしょうか?」ふっと目の眩む様な期待に駆られて私は質問したが、返答は実に落胆させられるものだった。
「無理だろうな。君の神経系はこの環境に十全に適応する様には出来ていない。君専用の利用媒体を特別に用意するか、さもなくば君自身の肉体を適応可能なものに作り変える必要が有るだろう。」
私のあからさまにがっかりした表情を読んだのだろうか、彼/彼女はこう続けた。「君から要望が有れば、そのどちらの方法をも選択することが出来る。」
「………そうですか………。仲々心惹かれる問題です………。」
そして不意に黙り込んだ私の顔に浮かぶ複雑な表情を見て取ったのかどうかは判らないが、彼/彼女はその後その沈黙を破って「何なら、後で詳しい説明をしよう。これは早急に決めなければならないことではないのだから、十分に時間を掛けて考慮すると良い。」と気遣いを示す様な言葉を掛けて来た。私は何となく懐かしい様な影が脳裏を過ったことに気を取られたが、そのことを意識し始めると急に、この場の何もかもが酷く遠いものに変わってしまった様な、静かな孤独の中にぽつんと取り残されてしまった様な気分に囚われた。今まで目にし耳にもした驚異の一切が、素早いそよ風に攫われて行く様に、何だか何うでも良く成り、岩の上に蹲っている奇怪な生物も、こうしてぐったりと、疲れてはいないのに妙に気の抜けた様なふわふわした身体を真っ黒な闇の海の中に横たえている自分自身も、先刻までの濃密な生々しさを何処かへ置き忘れてしまって、まるで全てが遠い過去に既に起こってしまった出来事の様に感じられて来た。
私は彼/彼女——ロングウッドが私のことを尚も凝っと見詰めているらしいことに気が付いて気を取り直そうとしたが、自分達が今何の話をしていたのか記憶の筋道を辿れる様に成るまで暫く時間を要し、それより私は何故先刻彼/彼女の名前を付けようとした時、マンモンなどと云う名前が候補として頭に浮かんで来たのだろうと云う益体も無いことを、ぐるぐると考え続けていた。
そうして暫く思考が宙を漂い、何処へ目的地を定めるでもなくふらふらと彷徨って、自分が自由であってまだ動けるのだと云うことを納得する為だけの様に空転した後、私はようやっと話を先へ進めることに思い至って口を開いたが、そこから音声として言葉が発せられるまでにはまた若干の間が有った。
「それで———私はこれから何うすれば良いのでしょう? ………これからの予定は?」
私はまるで手にしていた風船を手放す様にしてその問いを投げ掛けた。それはこの状況に即して言えば極く似つかわしい台詞ではあったのだが、その一方で何処か非常に冷めた、白々しい響きを微かな影の様に含んでいた。今後の身の振り方———それは、未知の世界に突然放り込まれた者であれば当然一番にきにするべきことではあった。だが、最早慣れ親しんだ社会から遠く隔てられて、帰還する方法が在るのかどうかすら疑わしい、頼り無い身の上に成ってしまったからには、この上事態をほんの少し好転させる一手が打てたとしても、問題の根本的な解決にまではとても到らないのではないかと云う懸念が、頭の天井にこびり付いて離れなかった。そんな時にさえ平然と、極く当たり前の質問をしてのける自分に、私は気懈い非現実感を感じると同時に、今後の展開に依っては酷く面白いものを目にすることが出来るかも知れないと云う予感と、それに備えて身構えようとしてみても、今は空回りするばかりだと云う重々しい実感の存在に気が付いた。私の時間は未だ成熟の時を迎えてはいなかった。だがひょっとしたら何等かの萌芽が、兆しが、ほんの針の先の一突きで大きく流れを変えてしまうであろう膨れ上がった臨界点が、もう直ぐそこまで近付いて来ているのかも知れなかった。
ロングウッドの目からは相変わらず何を考えているのかさっぱり読み取れなかったが、その視線が凝っと私の方へ注がれているのを、私は感じた。
「君は未だ新しい肉体に慣れてはいないだろう。だから先ずはゆっくりと休んで、疲れと衝撃から回復することが肝腎だ。その間に我々の方で君の新しい素体の候補を検討しておくので、或る程度骨子が固まったら、君も議論に参加すると良い。」
「素体?」またしても聞き慣れない言葉に私は戸惑った。「それに私は疲れてなどいませんよ、確かに混乱はしていますが………。」私は多少狼狽えて極く当たり前の会話をしている積もりで手を軽く振ろうとした。だが、そこで彼/彼女が何も言わんとしているのかが理解出来た。腕がまるで溶けた飴の様にぐんにゃりとしてしまって、力を込めてもそれが真っ直ぐには伝わらず、何処か目に見えない無数の穴から洩れ出してしまっているかの様に、まるで思い通りに成らないのだ、先程までは極く普通に身体を動かせている様に思っていたのがまるで嘘の様に力が全く入らず、私は焦って他の所も動かそうとしてみたいが、全身が、丁度この「海」と融合してしまったかの様に、意志した力の全てが粘液の雫の様に下へ下へと滴って行った。
「無理をしない方が良い。」ロングウッドの声が響いた。「余計に酷く成るばかりだ。」
「何———何で………これは一体何う云う………」急激に湧き上がって来る悪夢の様な嫌悪感に戦き乍ら、私は切れぎれに呟いたが、それに答えるロングウッドの声——或いは彼/彼女が使用している機械の声——は、何処までも平静だった。
「君のその肉体はまだ君自身に定着していない。最初の内は勢いで正常に機能しているかの様に思い込むことも出来るだろうが、時間の経過とともに懸隔は明瞭に成って来る。悪化させたくなければ当分凝っとして動かないことだ。」
頭の中で、接着剤を付けたばかりの模型のイメージが閃いたが、パニックの余りそれを上手く口にすることが出来なかったので、私は代わりに「素体? 私の肉体?」と、自分でも何を訊きたいのかよく解らない儘断片的な言葉を訥々と口にした。
「君が現在使用しているその肉体は、それ単体では通常の生存/有機的存在を続けることは不可能だ。幾つかの基本的な代謝機能を除いて多くの生理機能が稼働していないし、そもそも臓器や骨格等の基本構造すら満足に揃ってはいない。現在はその『海』の補助によって辛うじて調整が出来ているが、恒常的な措置ではないし、君も何時までもそこに寝た切りではいたくないだろう。君がここで自我/人格の同一性を保った儘存在し続けたいと云うのであれば、それに相応しい別の肉体を用意してやって、君の精神をそこに移植してやる必要が有る。無論そこで若干の変容が起こるのは止むを得ないが、何う云った種類の変化を望むのかは君の選択だ。我々は君の意志を尊重する。」
「移植? そんなことが………」
「恐らく君の知っている範囲の文明圏に於ては、肉体の交換は広く行われてはいなかったのだろう。『固有の肉体には固有の精神』と云う結び付きが一般に想定されていたのではないかね?」
話題が一般的な事柄に移った為か、私の口の滑りは若干の向上を見せた。「そうです。一定の物理的な基盤の下に、或る程度以上の複雑さを有した精神構造を如何に新しく構築するのかと云う研究は熱心に行われていた様ですが———と云っても私が元々属していた時代では、そうしたことすらも行われていなかったのですが———既存の精神構造を別の物理的基盤へ移植することは、部分的な事例や極く特殊な事例を除いては、私は殆ど具体例を知りません。」
「先程も少し触れたが、我々は定期的に休止状態に入る習慣に則って暮らしている。その上我々の肉体は御覧の通り外界の変化に対しては大して融通が利かない。そこで我々の間では、肉体を乗り換える技術が他の文明圏よりは大分発達している。」そこで彼/彼女は私の物問いた気な視線に気が付いたのか、こう継ぎ足した。「斯く言う私の肉体も、君が目にしているのはオリジナルのものではない。君も知っての通り、精神の構造は肉体の構造に左右されるので、今の肉体はオリジナルのものと大して違ってはいないが、『生まれた儘』の姿ではない。」
「しかし、貴方達の肉体と私の肉体とでは大分勝手が違うのではありませんか———。」私は当然浮かんだ疑問を口にした。
「その点については大丈夫だと思う。本質的に必要な条件は、少なくとも我々人類間では大部分が共通している———仮令長い年月を掛けた変化に因って外観が大きく異なっていたとしてもね。そうした研究に長けた者が我々には何人も居るから、君に合わせた調節も何とかなると思う。無論こうしたことは前例が存在しないし、確かに我々の肉体と君の肉体とでは勝手が違うだろうから、完全に保証は出来ないが、しかし成功率は可成り高いものと考えてくれていても良い。」
彼/彼女のことを信用はしているが、果たして信頼し切っても良いものかと云う躊躇いが私に当然の疑問を生ませた。「しかし今貴方は若干の変容は不可避だと言ったではありませんか。」
「その通り。だが、枝葉末節の事柄についてだけだ。君が行っていた探究の性質を考えれば、君が被ることになる変容は、どれも君の行動の本質に致命的な損傷を与えるものではない。」
「成る程、詰まり………成る程………。」先程から感じているこの上手く言葉が続かないもどかしい感触が、果たして偏にパニックの影響に因る一時的なものなのか、それともこの肉体の崩壊と歩みを共にしている亢進性のものなのか、そろそろ私は気になり始めていたが、敢えてそのことを口に出してみる勇気は無かった。
「君は先ず君の肉体を正常に稼働可能な状態にまで整えておかなくてはならない。それが目下の君の最優先課題だ。理解出来るね? その後何うするかはまた後で考えれば良い。」
確認を求めるロングウッドの声に、私は半ば夢見る様な心地で答えていた。「解りました。しかし、一体何故こんなことに………詰まり、不完全な肉体………」
「現在の君の肉体を物理的に構成している素材は、君が浸っているその『海』だ。それはこの惑星の地上の居住可能な区域の略全体に亘って分布している人工環境の一部で、先程言った様に巨大なデータベースを成していると同時に、我々の生活の物質的基盤を支えているものでもある。それは単に情報を伝達したり蓄積したりと云ったことに留まらず、入力された情報を基に様々な作業を行って、我々の住んでいるこの環界へ物質的に介入し、改変する力を持っているのだ。」
「それはナノマシンの様なものですか?」
「君に馴染みの有る概念で言えば恐らくそれが最も近いのだろう。当たらずとも遠からずだ。ナノマシンとは一般に分子レベルの大きさの極微機械を指しているとすると、この環界が行う活動の約八十パーセントも分子レベル以上の単位で行われる。だが残りの二十パーセントは更に精妙な量子レベル以下での調整を必要とするものだ。とにかく我々はそれを利用し、居住や食糧は勿論、様々なエネルギーの生産や流通、諸施設の管理や維持、天候や地理的条件の調整に至るまで、あらゆることをこの環界に頼っている。見ての通り我々の肉体は活発に動き回ったりすることには適していない。それでも我々の文明が何の支障も無く営まれているのは、ひつ媼作業を全てこの環界が代行してくれているからに他ならない。この広大な環界の中には、人類の精神活動に特に敏感に反応する種類の領域が存在している。例えばほんのちらっと脳裏を翳めた思念をも素早く感じ取って、それを何等かの物資的運動に変換すると云った具合に、物質に関わる事柄は全てその環界が行ってくれるのだ。」
「すると、ひょっとして、私の肉体は………」朧気だが強烈で印象深い想像が頭の中に雲の様に湧き起こった。
「君の推察の通りだ。君達がこの惑星圏への探索を行い、手早い情報種集を求めてこの環界のネットワークへの介入を行った際、その敏感な領域が君の精神活動を感知し、それを物質化してしまったのだ。君の活発なパターンの中には、君の肉体に関する情報は既に潜在的に埋め込めれていたので、そこから或る程度の再構築は可能だった。だがそれで全てを把捉出来た訳ではないし、第一聞くところに拠れば、君達が観測/介入の拠点としている〈認識の間〉は、肉体の一義的な束縛を受けない領域に属していると云うではないか。そこで、通常肉体の維持に必要な最低限の機能でも抜け落ちているものが出て来たり、また逆にさして重要ではない機能も、君の精神に於ける近接性の度合いに応じて生き残っていたりと云う事態が生じて来たのだ。」
私は思わず呻き声を発していた。事態の余りの馬鹿馬鹿しさに眩暈がしそうだった———いや、実際に眩暈がしていたのかも知れなかったが、混乱した私はそれどころではなかった。知識を、真理を、美と多様性と秩序と変化を求め、未知の星々へと目と手を伸ばし、危険な領域へも足を踏み入れ、目眩めく驚異を目魅して幻惑された結果がこれなのだ! 少なくとも一般的な事実関係に関する限りは記憶の連続性はまだ或る程度保障されている様なので、極く個人的な未練を捨象してしまえば、私が私であると云う根本的な事態には変化は無い。だがこれからは、ここで、殆ど孤絶した遙か遠隔の惑星上に取り残されて、これまでとは異なる肉体、異なる精神として、二足歩行すら覚束無さそうな世話人達と共に、再びこの目覚めの世界で様々な些事に煩わされ乍ら生きて行かなければならないのだ。私は思う儘にならない体をナノマシンもどきの闇の海の中に横たえた儘、静かにその苦悶をゆっくりと噛み締めた。悲観的な気分が急に湧き上がって来たことに私は気付いたが、果たしてそれが一時的な気の迷いなのか、事実に近い予測に基付いた無理も無い当然の反応なのかは、言うまでもなく未だ判ろう筈も無かった。
「そう悲観したものでもないぞ。」ロングウッドの相変わらず単調な口調は、まるで親しい友人を気遣ってのものの様に聞こえたが、それがまた解釈に因る多重的な感情を惹き起こした。彼/彼女のこの話し方からも、何等かの人間らしさ———私が知っている「人間らしさ」と云うことだが———を読み取ることが出来る時が何れは来るのだろうか、と、私はぼんやりと考えていた。或いは、私の方が彼/彼女と同じコミュニケーションの方法を学習に、訓練したら………何う成ると云うのだろうか、何んな未来がそこから分岐し、何んな新しい展望がそこから拓けて行くと云うのか? 私のこれからの旅は………。
ロングウッドの声は尚も続いていた。「………先刻も言った通り、君は新しい肉体を選ぶことが出来るのだし、多少手間は掛かるだろうが、我々の環界へアクセスすることが出来る様にすることも可能だ。或いは若し君が望むのであれば、君が元行っていた様な探索をここで再開するのに協力して良い。何しろ外観こそ大きく異なってはいるが、基本的な精神構造の差異は致命的な程ではないのだし、私と君がこうして支障無く意思の疎通を行えていることが何よりの証拠だ。それに我々もまた好奇心旺盛な種族でね。肉体はこの惑星上を離れることは今では先ず無いが、この宇宙を知る為にあちこちに目は向けている。こう見えても君達の存在は前々から知っていてね、それでこの不慮の事故が起こった時も、直ぐに凡その見当が付いたのだ。君達の遣り方についてはそれ程詳しく知っている訳ではないのだが、或る程度の推測は用意してあるし、君の協力が有れば色々と判ることも増えて来るだろう。少々変則的に成りはしたが、君の探究の道はまだ閉ざされた訳ではない。君の前にはまだ幾多の諸可能性が開けているのだ。
………さて、ではそろそろ御喋りは止めて移動するとしようか。君には休息が必要だ、自分で考えている以上にね。その体でも使えそうな休眠槽を用意してある。そこで暫くゆっくりと眠るが良い。その間我々の方で色々と準備を進めておく。眠れば君も少しは頭の中が整理出来るだろうし、この現状をより冷静に把握出来る様に成ることだろう。自分のことは怪我人か病人だと思い給え。当分の間は全面的にこちらで面倒を見ることにする。先ずは私に身を任せて、力を抜いて寛ぎ給え。何もせず、時間を掛けてじっくりと休むこと———それが何よりだ。
………いや、いや、無理に起き上がろうとしなくとも良い。その様子では半身を起こすのも大変だろう。自分が移動する場面をイメージする必要は無い。環界の扱い方については、君はまだ慣れていないだろう、後日体調が万全の時に改めて教えることにしよう。もう一度寝そべって、寛ぎ給え。何ならもう眠ってしまっても構わない………。」
催眠術でも掛けられた様に言われるが儘「海」の中に身を沈め、試みに目を閉じると、間も無く、「海」の界面が少し緊張して私の全身を固定し、それからゆっくりと持ち上がったのが感じられた。目を開けて左右を見回してみると、どうやらベッドかストレッチャーの様なものが私の下に形成されたらしいことが見て取れた。上の方で何か動く気配がしたので視線を向けると、小鳥が止まり木に止まる様にしてロングウッドが座るか立つかしていた柱の様な岩が、見る見る内に音も無く形を変え、彼/彼女の体を包み込む様にして、何かの乗り物の様なものが現れるのが見えた。その時ほんの二、三回だけだが、最前から身動きひとつしなかったロングウッドが体勢を調整する為か、もう ずっとピクリとも動かなかった大きな翼を動かし、伸びか何かと思われる動作をした。私はぼんやりと闇に落ち込みつつある頭で、あの翼は羽搏いたりする為のものとしては、体全体の大きさに比べて随分と小さく見えるあの翼は果たして何の為に使われるのだろうか、あれで、この惑星の暗澹たる空を駆け巡るkとが有るのだろうかと考えた。その次に頭に浮かんだのは、自分の置かれたこの奇妙な境遇のことではなく、何故か見渡す限り満天の星、星、星………そして光。それから私は眠りに落ちたものらしい………あの半ばの混濁状態から奇怪極まり無い融溶状態への転落を「眠りに落ちた」と言えるとすればの話だが。途切れ途切れに憶えている記憶の断片の中で最後に私の頭に浮かんでいたのは、あのガーゴイル———彼/彼女が石柱の上に凝っと蹲っている様は、正にこうしたイメージにぴったりだったので———でも体を動かすことは有り、しかしそれはその内面が行っている活発な活動とは比べ物にならないのではないかと云うことだった。ガーゴイル———そうだ、ガーゴイル、あの表情に乏しい、何処から何うやって派生したのか辿るのが難しそうな人類のことを、私はそう呼ぶことにしよう。彼等が自分達を呼ぶ名称として何か他に適当なものが有るかは聞いてはいないのだが、その答えが何うであれ、私は彼等をガーゴイルと呼ぶとするとしよう。どうせ彼等以外の人類は私一人しか居ないのだし、私の好きにしても大して害は無い筈だ。それにあの石像の様な瞑想的な雰囲気は、その名称に実にしっくり来るではないか? 彼/彼女の仲間に会ったらそのことを持ち出してみよう。そう云えば、彼等に性別が有るのかどうかも、私はまだ知らなかった。………溶けて、流れて落ちるこれは、私で………私か! ………私だ………よく見知った懐かしい恐怖が………。