向けられた刃-3
先日の発表から幾夜が過ぎ、私は国王様の命通り城や軍から離れ辺境、といえば悪く聞こえてしまうが辺境と揶揄してしまうほど城下と差があるような場所にいる。一歩歩くごとに頭部を覆っている布が風に靡き音を立てずに揺れる。こんな場所だ、変装なんて必要ないだろと私はそのままで行こうとしたが国王様に引きとめられてしまい、頭部を覆う布と膝まで長さがあり端に透き通る石の装飾が施された大きな布を渡された。いくら情報が遅くみえる地域と雖も見つかれば騒ぎになりかねない。そういうことで、気は乗らないが渡された衣装に身を包み、城下とは離れたこの地域を散策中だ。
いつもと異なる服装なせいか、足取りはどこか重い。膝まで長さがあるため動きが自然と限られてしまう。歩くたびに頭の布が揺れ、施された石同士が擦れ音を鳴らす。いくら地理の知識に長けているとはいえ、それはあくまで空から見ている時の話。つまり、私が知るのは空の地理であり地上の地理ではない。だから、見逃してしまった。踏み込んだそこは、もともとからそういう地形なのかもしくは天気の所為によってそうなったのかは分からないが抜かるんでいた。その泥濘に足を取られたと気づいた時には遅く、体は前方に倒れ込む。なんとかして体勢を立て直そうとするが泥濘は想像以上に強かった。ようやく泥濘から離れることは出来たけれど、油断してしまったようだ。泥濘から脱した足は絡まり足場を踏み外す。行き場を失った足は重力に従い虚空を迷う。ようやく地と足が付いた時、鈍い痛みが体中を駆ける。道から落下しているのだと分かった時には既に地面に叩き付けらえていた。
ああもう、最悪。
唯一助かったのはこの場にオルガがいないことか。纏わりついた枝を払おうとした時、枝に触れようとした腕を背後から何者かに掴まれた。刃物はすぐに出ないため身を守る術はないけれど、体を捻り精一杯睨みつける。だが、そこにいたのはあまりにも場違いすぎる人物で、思わず声を漏らしてしまった。
「ねぇ、お姉さんその枝毒持ちだから触らないほうがいいよ?」
私の腕を掴んだのは、年端もいかない子供だった。その子供は懐から一つの瓶を取り出した。その瓶に入っている液体は透明、けれど緑がかっている。子供はその瓶を開け、腕に一滴垂らす。その瞬間、言葉では言い表せない不思議な感覚が体中を巡る。痛みはない、けれど快感とも異なるその感覚はしばらくやまなかった。ようやくその感覚が止むと同時に、子供は枝を払い落した。子供のその一連の動きに唖然としていると、目があってしまった。
「お姉さんって、馬鹿?」
「な…!」
礼の一つでも言おうと考えていた。その時、言われた言葉が“馬鹿”。流石にこれにはかちんと来る。
「ここらの植物は有毒だって子供でも知っていることだよ」
それは初耳の事実だった。
いつもは空から見ているため植物が有毒であることなんか知っているわけがなかった。オルガですら知っているか怪しいぐらいだ。考え込む私を子供は不思議そうに見つめる。……ちょっと言葉遣いが悪い子供だが、助けられたのは事実、か。不本意だが仕方ない。
「ここらあたりに来るのは初めてなものだからな、助かった。えっと」
「……ヤオン=メディラ」
「ヤオンありがと…、え…、メディラ?」
メディラ。その姓のどこか引かれてしまう。記憶の糸がぎしりと悲鳴を上げる。何でこんなにつっかかるのか、自分でも分からなかった。目の前のヤオンは先ほどの不思議そうな眼差しではなく嫌悪の眼差しを向ける。メディラ、確かにその姓を聞いたことはる。ただいつ、どこで聞いたのかが思い出せない。過去を脳裏に浮かべても、思い出すのは忌々しいオルガとの言い争いばかり。改めて、こんなにやっていたのかと呆れてしまうほどだ。だが、その記憶の一つが釣り糸に絡まった魚のように捕らえられた。その記憶も他のものと何一つ変わらない喧嘩に見えた。だが、一つ違ったことは誤って二人とも怪我していることだ。その怪我を治療する手つき、薬、言葉遣い。全ての糸は解かれていく。
あまりにも黙り込んでいる私を不審がって、ヤオンはこの場を去ろうとするが今度は私がその腕を掴んだ。
「ヤオン、メディラ……!アラーン=メディラ、リタナ=メディラと同じ姓……」
その刹那、凄まじい視線を感じた。この場にいるのは私とヤオンのみ。つまり、視線の持ち主はヤオン。子供と思えないほど強いその視線はこの空気ごと私を貫くかのよう。
「……なんで、お姉さんがその名前知っているの」
先ほどから子供らしさはあまり感じ取れなかった。だが、今はそれ以上に警戒の色が強く今にも襲いかかろうとする勢いだ。それよりも、今はこの問いの返事だ。会ったばかりの人物が身内の名を知っているのだ、ヤオンが警戒するのも尤なことだ。素直に正体を明かすべきか、誤魔化すべきか。選択を迫られたその時に映ったのは、私を助けたヤオンの姿。……まぁ、いいか。いざとなれば“消せば”いいのだ。私は頭部を覆っていた布を外し、胴に巻きつけている布をいつものマントと同じように首に巻いた。そして髪を結いあげ、驚きを宿すその稚児の瞳に姿を映した。
「本国第二〇三国カッシュ=グレーブ現国王直属部隊、黒隊第五師団団長アリネ=カトリットと申す」
アラーン=メディラ、リタナ=メディラ。それはかつて城にいた特殊薬剤師の名であった。