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第三王子にエスコートされた平民の聖女候補に、婚約者候補の侯爵令嬢が物申す

掲載日:2026/09/26

乙女ゲームって遊んだことがないんですが、どんなんですかね……。

 王立学園の大広間には、ガス灯のシャンデリアが三基吊るされていた。

 硝子の火屋の内側で青白い炎が揺れるたび、磨き上げられた寄木細工の床に光が落ちる。楽団はワルツの前奏を奏で、壁際には色とりどりのドレスが並んでいた。年に一度、年の瀬に催される学園の舞踏会である。


「震えているのではないか?」

「……はい、殿下。実は足が、少し……」


 ノエル・ベルナールは、扉の前で恥ずかしげに小さく打ち明けた。

 身に着けているのは、教会が仕立てた淡い青のドレスだ。聖女候補の衣装は白と定められているが、正式な認定を受けるまでは微かな空の色を混ぜる。胸元には教会の聖紋を刻んだ銀のブローチ、耳には大司教から貸し与えられた小粒の真珠が揺れていた。

 田舎の平民として生まれた娘が、一年半前に神聖力を発現させた。以来、ノエルの人生は教会の暦に従って進んでいる。王立学園に通っているのも、いずれ受ける準王族の待遇にふさわしい礼法を身につけるためだった。


「震えていても構わない。転ばなければいい」


 腕を貸しているリュシアン第三王子は、前を向いたまま答えた。

 銀に近い淡い金髪、薄い灰色の瞳。学園では「氷の王子」と陰口を叩かれる横顔には、今夜も愛想らしいものがなかった。


「転んだら、どうなりますか」

「どうにもならない。私が支えるからだ」


 素っ気ない口調とは裏腹に、ノエルの手を載せた腕は少しも揺るがなかった。

 扉が開き、式部役の生徒が声を張る。


「リュシアン・オーギュスト・ド・ヴァロワール殿下、ならびに聖女候補ノエル・ベルナール様、ご入来!」


 ざわめきが波のように広がった。

 好奇の目、値踏みする目、そしてはっきりと敵意を含んだ目。それらのすべてを、ノエルは教わったとおりの微笑みで受け止めた。顎を引きすぎず、上げすぎず。礼法の教師に毎日繰り返し直された角度だ。

 広間の奥で、深紅のドレスをまとった令嬢が扇を閉じる音がした。

 イザベル・ド・グランヴィル侯爵令嬢。見事な栗色の巻き髪と、よく磨かれた宝石のような緑の瞳。その瞳が、ノエルの手が置かれたリュシアンの腕を、射抜くように見据えていた。



 最初のワルツを踊り終えたところで、黒い燕尾服の男が人垣を割って近づいてきた。

 副学園長のジェローム・バルビエである。額に薄く汗を浮かべ、しきりに懐中時計を気にしている。


「殿下、恐れ入ります。学園長がお呼びでございます。王宮から急ぎの書簡が届いたとかで、至急、第二応接室へお運びいただきたいと」

「今か」

「はい、今すぐにと」


 リュシアンは副学園長の顔を数秒見つめた。それから、ノエルに向き直る。


「すぐに戻る。壁際にいろ。誰に誘われても、私が戻るまで広間を出るな」

「はい、殿下」


 その背中が扉の向こうに消えるのと、深紅のドレスがノエルの前に立ちはだかるのは、ほとんど同時だった。


「ごきげんよう、聖女候補様」


 侯爵令嬢イザベルの両脇には、二人の令嬢が控えていた。

 淡い黄色のドレスに結い上げた赤毛の、子爵令嬢コレット・ド・ヴィルヌーヴ。ノエルと同じ二年生で、授業では何度か近くの席になったことがある。

 もう一人は、萌黄色のドレスの男爵令嬢マルゴ・デュ・ロシェ。三年生で、いつもイザベルの半歩後ろを歩いている。


「少し、お話がありますの。夜風に当たりながらいかが? 広間は暑うございますもの」

「申し訳ございません。殿下に、ここで待つよう言われておりますので」

「まあ」


 イザベルは扇で口元を隠し、目だけで笑った。


「侯爵家の娘の誘いを、平民がお断りになるの? 礼法の授業では、そうお習いになった?」


 周囲の視線が集まる。ここで騒ぎを起こせば、傷つくのはノエル自身であり、ノエルを推挙した教会だった。

 ノエルは小さく息を吸い、頷いた。


「……少しだけでしたら」



 中庭は、しんと冷えていた。

 年の瀬の夜気が、剥き出しの肩に針のように刺さる。水が止まっている噴水には氷が張り、石畳の目地には霜が白く残っていた。ガス灯は回廊に数基あるだけで、中庭の中央までは届かない。大広間の窓から漏れるオレンジ色の光と、遠いワルツの旋律だけが、ここが舞踏会の夜だと教えていた。

 噴水の前で、イザベルが振り返った。


「単刀直入に申し上げますわ。今すぐ、舞踏会からお帰りなさい」

「……理由をお聞かせいただけますか」

「理由?」


 イザベルは閉じた扇の先を、ノエルの胸元へ向けた。


「リュシアン殿下は、わたくしの婚約者です。婚約者のいる殿方に腕を取らせて大広間に入ってくるなど、娼婦でもしない真似ですわ。今夜あなたがしたことで、わたくしがどれほど笑い者になったか、おわかり?」

「イザベル様のおっしゃるとおりですわ」


 コレットが、待ちかねたように声を上げた。


「身の程をわきまえるべきです。聖女候補だか何だか存じませんけれど、平民の娘が殿下のお隣に立つなんて」

「そうよ。グランヴィル侯爵家とヴァロワール王家のご縁は、わたくしたちが入学する前から決まっていたことですもの」


 マルゴが続く。二人の声は、まるで稽古してきた台詞のようによく揃っていた。

 ノエルは寒さに強張る指を組み合わせ、背筋を伸ばした。


「お言葉ですが、帰ることはできません」

「なんですって?」

「今夜の出席とエスコートは、教会からの指示でございます。聖女候補が学園の公式行事を中座するには、教会の許可が要ります。私の一存では、退席いたしかねます」


 震えそうになる声を、ノエルはどうにか平らに保った。個人授業をしてくれた礼法の教師の言葉が、頭の中で繰り返されていた。

 ――聖女候補の言動は、すべて教会の言動として扱われます。

 ――軽々しく頭を下げてはなりません。

 ――軽々しく席を立ってもなりません。

 イザベルの頬から、すっと血の気が引いた。


「教会、教会、教会。便利な言葉ですこと」

「イザベル様」


 コレットが、いつの間にか手にしていたワイングラスを掲げた。大広間から持ち出してきたのだろう。深い赤が、窓明かりを透かして揺れていた。


「聖女候補様には、神の祝福がお似合いかと存じますわ。さあ、神の血をお受け取りくださいませ」


 言い終わるより先に、グラスが傾いた。

 冷えきった赤ワインが、淡い青のドレスの胸元から裾へ、ゆっくりと流れ落ちていく。胸の聖紋のブローチを伝い、絹に染み込み、青を濁った紫に変えていった。


 ノエルは動かなかった。動けなかった、というほうが正しい。

 冷たい。夜気に晒された濡れた絹が肌に貼りつき、みるみる体温を奪っていく。歯の根が鳴りそうになるのを、奥歯を噛んでこらえた。


「まあ、ひどい」


 マルゴが、少しも気の毒そうでない声で言った。


「でも、ちょうどよかったわ。前から思っておりましたの。清貧であるべき聖職者が、そのような飾りを着けているのはふさわしくないって」


 マルゴの手が伸びた。

 耳朶に鋭い痛みが走る。真珠の耳飾りが引きちぎられ、石畳に跳ねて転がった。続いて胸元。ブローチの留め金が絹ごと引き裂かれ、布の裂ける乾いた音が中庭に響いた。


「おやめください、それは教会の……!」

「教会の、何?」


 マルゴは銀のブローチを指先でつまみ上げ、ひらひらと振ってみせた。


「平民に聖紋なんて、豚に首飾りですわね」

「ねえ、イザベル様」


 コレットが、くすくすと笑いながら言った。


「このドレスも、教会から借りたものなのでしょう? ワインで汚してしまったのですもの、脱いでお返ししたほうがよろしいのではなくて?」

「いい考えね」


 二人の手が、同時にノエルの肩と背中へ伸びた。

 背中の釦が一つ、弾け飛んだ。袖が肩から引き下ろされる。ノエルは両腕で胸元を抱え込み、身をよじった。


「やめて……っ、やめてください!」


 イザベルは噴水の縁に腰を下ろし、扇を広げていた。

 止めようとはしなかった。ただ、見ていた。


 ——そのとき、回廊のほうで、硬い靴音が響いた。



「何をしている」


 低い声だった。怒鳴ったわけではない。それなのに、コレットとマルゴの手は、見えない壁に弾かれたように止まった。

 回廊のガス灯を背に、リュシアンが立っていた。

 燕尾服の裾を夜風に揺らし、灰色の瞳で中庭を見渡す。ワインに濡れて震えるノエル、石畳に転がった真珠、マルゴの指先で光る聖紋のブローチ、袖を掴んだまま凍りついたコレット。そして、噴水の縁で扇を手にしたイザベル。

 リュシアンは何も言わずに中庭を横切ると、自分の燕尾服を脱ぎ、ノエルの肩に掛けた。まだ体温の残る黒い布地が、濡れた背中を覆う。


「……殿下」

「遅くなった。すまない」


 その短い言葉に、張り詰めていたものが切れそうになり、ノエルは唇を噛んだ。

 リュシアンが三人の令嬢に向き直る。最初に口を開いたのは、イザベルだった。


「お戻りが早うございましたのね、殿下」


 立ち上がった侯爵令嬢は、怯むどころか、胸を張っていた。


「ちょうどよろしゅうございました。わたくしも殿下に申し上げたいことがございましたの。わたくしという婚約者がありながら、なぜその平民の娘をエスコートなさったのです。学園中の前で、わたくしに恥をおかかせになって。グランヴィル家を何だとお思いですの」


 リュシアンは、すぐには答えなかった。

 凍った噴水と同じくらい温度のない目で、イザベルを見下ろしていた。


「グランヴィル侯爵令嬢。秋の叙任式の告示を読んでいないのか」

「……告示?」

「私は卒業と同時に教会に入る。叙階を受け、いずれは枢機卿の座に就く。国王陛下と大司教猊下のご裁可はすでに下りている。聖職に就く者は妻を娶らない。したがって、私の婚約者選定は白紙に戻った。三か月前に、王宮から正式に告示されているが」


 イザベルの唇が、わずかに開いた。


「そ、それは……存じております。ですが、それは形の上のことで、わたくしとの婚約は」

「もう一つ、訂正しておく」


 リュシアンは一語一語、念押しするように言った。


「君は私の婚約者候補の一人だった。候補だ。婚約は、一度も結ばれていない。婚約証書に私が署名したことはないし、グランヴィル侯爵が署名したこともない。君がそう思い込んでいたことについて、私に責任はない」


 夜気が、さらに冷えたように感じられた。

 コレットとマルゴが、おそるおそるイザベルの横顔をうかがう。イザベルの扇を持つ手が、小刻みに震えはじめていた。


「そんな……だって、お父様は……」

「侯爵がどう説明したかは知らない。だが、これが事実だ」


 リュシアンは視線をイザベルから外し、三人を順に見た。


「本題はここからだ。よく聞くがいい」


 声の調子は変わらない。だが、その場の誰もが、次の言葉が判決に等しいものだと悟った。


「ノエル・ベルナールは、来春の認定審問を経て聖女となる。その意味は、心得ているな?」


 聖女は出身に拘わらず、準王族として遇される。これが建国当初から王国法に定められている、聖女の身分だ。

 それを改めて思い出したコレットの喉が、ひくりと鳴った。


「そして教会法は、認定期間中の聖女候補に対する侮辱と暴行を、認定の日から遡って審理すると定めている。つまり、今夜ここで起きたことは、準王族に対する狼藉として裁かれることになるだろう」


 リュシアンは、マルゴの手の中のブローチに目をやった。


「聖紋の強奪は瀆聖罪。『神の祝福』を騙って聖女候補にワインを浴びせたのも同じく瀆聖。衣服を剥ごうとしたことは、言うまでもない。王族に対する暴行は、本人のみならず家門の爵位にまで累が及ぶ重罪だ。それくらいは、礼法の授業で習っているだろう」


 マルゴの指から、ブローチが滑り落ちた。石畳に当たって、澄んだ金属音が鳴る。


「ち、違います、わたくしたちは、イザベル様がおっしゃるから……!」

「そうです、わたくしたちは付き添っただけで……!」


 二人が同時に声を上げる。つい先ほどまで、あれほど見事に揃っていた声が、今は醜く重なり合っていた。


「言い分は、審問官の前で述べるといい」


 リュシアンは取り合わなかった。


「ついでに教えておこう。副学園長のバルビエは、私が第二応接室に入った時点で全部白状した。学園長はそもそも今夜は王都にいない。王宮からの書簡などというものも存在しない。グランヴィル侯爵家から金貨五十枚を受け取ったそうだ。杜撰な筋書きだな、グランヴィル侯爵令嬢」


 リュシアンはあくまでも、イザベルの名を呼ばない。

 イザベルは、噴水の縁に手をつき、ずるずると腰を落とした。深紅のドレスの裾が、霜の残る石畳に広がった。窓明かりが、その顔を半分だけ照らしていた。そこにはもう、先ほどまでの誇らしげな笑みはなかった。



 リュシアンは石畳に屈み込み、転がっていた真珠と、聖紋のブローチを拾い上げた。ブローチの裏の留め金は曲がり、引きちぎられた青い絹の切れ端が絡みついている。


「これは証拠として教会に預ける。修繕は、そのあとだ」

「……はい」


 ノエルは燕尾服の襟を掻き合わせながら、ようやく声を出した。


「殿下。ひとつだけ、お願いしてもよろしいでしょうか」

「言ってみろ」

「審問の場で、私に証言の機会をいただけますか」


 リュシアンの眉が、わずかに動いた。


「赦してやれと言うつもりか」

「いいえ」


 ノエルは首を振った。


「起きたことを、そのまま申し上げたいだけです。多すぎず、少なすぎず。……聖女になるのでしたら、きっと、そういう役目を果たさなければならないと思いますから」


 しばらく、リュシアンは黙ってノエルを見ていた。

 それから、ほんの少しだけ口の端を緩めた。氷の王子にしては、珍しい表情だった。


「わかった。手配しよう」


 彼はノエルに腕を差し出した。入場のときと同じように。


「戻るぞ。教会の指示は『舞踏会の最後まで出席すること』だったな。ドレスは替えさせる。控えの間に予備がある」

「このまま戻っても、よろしいのですか」

「君は何も恥じることをしていない。堂々としていればいい」


 ノエルは頷き、その腕に手を載せた。

 今度は、指先の震えは止まっていた。



 二人が回廊へ歩み去ったあと、凍った中庭には三人の令嬢だけが残された。

 大広間からは、何事もなかったかのように、次のワルツの旋律が流れてきていた。


ヒーローとヒロインに恋愛関係が無い時点で、乙女ゲームとは呼べないような……。


連載中の『婚約破棄された伯爵令嬢が、ゲームしか取り柄のない平民の俺に「助けてください」と言ってきた――ただ足が速いだけなんですが、なぜかヒーロー扱いされています――』(https://ncode.syosetu.com/n1318mu/)もよろしくお願いします。

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