余命一年の悪役令嬢、最後に推しの騎士を幸せにすることにした
余命一年の悪役令嬢、最後に推しの騎士を幸せにすることにした
第一話 残り三百六十五日の決意
余命一年。
医師の言葉が耳の中で反響している。診察室の窓から午後の光が差している。埃が光の中を漂っていた。
私は——この世界の悪役だ。公爵令嬢リゼット・ヴァランティーヌ。原作では第三章で断罪され、第五章で追放される。
でも病気で死ぬのは原作にない。これは私だけのイベントらしい。
「……一年あれば、足りるかな」
呟いた声は、思ったよりも乾いていた。
侍医のベルナール老人が、白い顎鬚を何度も撫でている。椅子の軋む音。羊皮紙を丸める音。彼は十年以上この家に仕えていて、私が幼い頃に高熱を出した時もこの手で額に触れてくれた人だ。その目が、今は赤い。
「リゼットお嬢様。どうか、ご無理だけは」
「ベルナール。この病のことは、父にも兄にも言わないで」
老医師の喉が詰まる音がした。言葉にならない抗議だと分かっていた。
「お嬢様——」
「お願い」
静かに言うと、ベルナールは長い沈黙の果てに一度だけ頷いた。目尻を手の甲で拭う仕草を、私は見ないふりをした。
診察室を出ると、屋敷の長い廊下が続いている。午後の光が大理石の床を温めて、靴底からほのかに熱が伝わってくる。壁にかかった歴代ヴァランティーヌ家当主の肖像画が、順番に私を見下ろしている。
五代前の当主。四代前。三代前。祖父。そして父。
この家は王国の柱だった。原作でもそう書かれていた。だからこそ悪役令嬢リゼットの断罪は物語の転換点になり得たのだ。名門公爵家の令嬢が、婚約者である第二王子の前で罪を暴かれ、すべてを失う。読者にとっては爽快な場面だったはずだ。
——前世の私にとっても、そうだった。
足が止まる。
廊下の突き当たり、大きな窓の前で、私は自分の影を見下ろした。
前世の記憶が戻ったのは三ヶ月前だ。朝、目が覚めたら頭の中に「小説」があった。物語の全容。キャラクター設定。プロットの流れ。すべてが一度に雪崩れ込んできて、朝食の席で紅茶のカップを取り落とした。
悪役令嬢もの。私が前世で読んでいたWeb小説のひとつだった。
タイトルは覚えていない。でも内容ははっきり覚えている。
ヒロインは男爵家出身の少女エステル。聖女の力に目覚め、学園に入り、第二王子レオンの心を射止める。その過程で、婚約者であるリゼットが数々の嫌がらせを行い、最後に断罪される。
私は、その断罪される側だ。
でも今、そんなことはどうでもいい。
断罪も追放も、余命一年の前ではただの予定表に過ぎない。断罪イベントが起きるのは物語の第三章、時系列で言えば半年後の学園祭。その頃、私がまだ動ける体でいられるかどうかすら怪しい。
ベルナールの説明を思い出す。魔力欠乏性臓器硬化症。体内の魔力が制御を失い、臓器を少しずつ石に変えていく病。この世界特有の、治療法のない病。
原作に、この病は出てこない。
つまりこれは、転生者である私だけに与えられた追加設定——あるいは代償なのかもしれない。前世の記憶という異物を抱えた体が、この世界に拒絶されているような。
考えても仕方のないことだった。
重要なのは、一年という時間の使い方だ。
自室に戻り、扉を閉める。鍵をかける。カーテンを引いて、机の引き出しの奥からノートを取り出した。
三ヶ月前から書き溜めている、原作の記憶の書き起こし。登場人物。時系列。事件の因果関係。思い出せる限りのことを、夜ごと書き続けてきた。
ページをめくる。
目当ての名前は、すぐに見つかった。
セドリック・アルヴェーン。
騎士団所属。平民出身。第四章で冤罪により投獄され、第五章で処刑される。
原作における、私の——前世の私の、推しだった。
指先がその名前の上で止まる。三ヶ月前、記憶が戻った瞬間に最初に思い出したのが、彼のことだった。紅茶のカップを落としたのは、リゼットとしての記憶と前世の記憶がぶつかったからじゃない。セドリックの処刑シーンを思い出したからだ。
原作の描写が蘇る。
雨の中の処刑場。群衆の怒号。跪く青年の、それでも折れない背筋。彼は最後まで自分の無実を主張しなかった。守るべき人を守れなかった自分に、罰を受ける資格があると思っていたからだ。
前世の私は、画面の前で泣いた。なぜこの人が死ななければならないのか。なぜ誰も助けないのか。物語の理不尽に拳を握った。
そして今、私はその物語の中にいる。
しかも悪役として。
ノートの別のページを開く。セドリックの冤罪に至る経緯を、覚えている限り書き出してあった。
第四章。ヒロインのエステルが聖女として王宮に迎え入れられた後、彼女の護衛を命じられたのがセドリックだった。平民出身ながら剣の腕は騎士団随一。実直で寡黙で、与えられた任務を黙々とこなす男。
問題が起きたのは、エステルの暗殺未遂事件だった。
犯人は第一王子派の貴族だったが、その罪がセドリックに着せられた。証拠が偽造され、証人が買収され、セドリックは一夜にして王国の裏切り者になった。
なぜ彼に罪が着せられたのか。理由は単純だった。平民出身だからだ。貴族を犯人にするより、平民の騎士を犯人にした方が政治的に都合がいい。それだけの理由で、ひとりの人間の命が消される。
第二王子レオンは冤罪に気づいていたが、政治的判断で黙認した。ヒロインのエステルは嘆き悲しんだが、結局セドリックを救えなかった。
物語はそのまま進む。セドリックの死は、レオンが王として成長するための踏み台になった。
——ふざけるな。
前世で感じた怒りが、今も喉の奥で燃えている。
ノートを閉じた。
一年。三百六十五日。冤罪事件が起きるのは約八ヶ月後。それまでに手を打てば、セドリックの未来は変えられる。
私は悪役令嬢だ。原作のリゼットは傲慢で意地悪で、ヒロインを虐め、最後に断罪される。でも、原作のリゼットは余命宣告なんて受けていない。
失うものがない悪役は、きっと誰よりも自由だ。
椅子から立ち上がった。体が少しだけ揺れる。朝から何も食べていないせいか、それとも病のせいか、判断がつかない。でも今は関係ない。
クローゼットを開けて、外出用の上着を手に取った。
◆
王立騎士団の訓練場は、王城の東棟に隣接している。
公爵令嬢の身分であれば、王城への立ち入りは容易だった。門衛に家紋入りの通行証を見せるだけで通してもらえる。この身分が役に立つのは、おそらく今のうちだけだ。断罪イベントの後は使えなくなる——いや、その前に体が動かなくなるかもしれない。
訓練場に近づくと、剣戟の音が聞こえてきた。金属と金属がぶつかる、鋭い音。その合間に誰かの怒声。そして、風を切る音。
柵越しに訓練場を覗き込む。
砂埃の中に、十数人の騎士たちが組手をしている。汗と土と鉄の匂い。初夏の午後の日差しが容赦なく照りつけて、騎士たちの鎧が白く光っている。
その中に、彼がいた。
セドリック・アルヴェーン。
灰色の髪を後ろで結んで、軽装の訓練着で木剣を振るっている。相手の騎士が三人同時に打ちかかるのを、最小限の動きでいなしていく。足運び。体の軸。剣の角度。すべてに無駄がない。
目が離せない。
原作の文字列でしか知らなかった人物が、そこにいる。汗をかき、息をし、地面を踏みしめている。生きている。
木剣が相手の手首を打った。乾いた音。一人目が武器を落とす。続けて二人目の足を払い、三人目の突きを体を捻って避けながら、その勢いで剣を振り下ろす。三人とも地面に転がった。
「そこまで!」
教官らしき壮年の騎士が声を上げる。倒された三人が苦笑しながら立ち上がり、セドリックに軽口を叩いている。セドリックは小さく頭を下げて——笑った。
ほんの一瞬の、控えめな笑み。
胸の奥が、ぎゅっと締まった。
原作の最終盤、処刑台に立つ彼は笑わなかった。ただ静かに空を見上げて、雨粒を顔に受けていた。あの描写を読んだ時、私は三十分くらい画面を閉じられなかった。
この人を、死なせてはいけない。
柵に手をかけたまま、私はしばらくそこに立っていた。彼に近づく方法を考えなければならない。でも——
「何か御用ですか」
声をかけられて、肩が跳ねた。
振り向くと、訓練場の管理を任されているらしい年配の騎士が立っていた。こちらを不審そうに見ている。当然だ。公爵令嬢が騎士の訓練場を覗き見しているのだから。
「見学をさせていただきたいのですが」
「これは——ヴァランティーヌ公爵家のご令嬢ですか。失礼いたしました。しかし、訓練場の見学には事前の許可が必要でして」
「存じております。本日は下見に参りました。正式な申請は後日改めて」
嘘だ。衝動的に来ただけだ。でもリゼットの顔は嘘をつくのに向いている。公爵令嬢として十七年間培ってきた表情筋の制御が、こういう時に役立つ。
年配の騎士は困惑した顔で頷いた。その視線が一瞬、訓練場の方を向く。私が誰を見ていたか気づいたかもしれない。
帰ろうとした時だった。
「——ヴァランティーヌ?」
低い声が、背中を貫いた。
振り向く。
セドリック・アルヴェーンが、柵のこちら側に立っていた。いつの間に訓練を終えたのか、額に汗を光らせたまま、こちらを真っ直ぐに見ている。
灰色の瞳。原作には「曇り空の色」と書かれていた。実物は、もう少し青みがかっている。深い、静かな色だ。
「あなたが、セドリック・アルヴェーン殿?」
声が震えなかったのは奇跡だった。
「……そうですが」
警戒している。当然だ。
原作において、リゼット・ヴァランティーヌと騎士セドリック・アルヴェーンの間に接点はほとんどない。あるとすれば、リゼットが学園の廊下で彼とすれ違った時に「平民の騎士風情が」と吐き捨てるシーンくらいだ。
つまりセドリックにとって、リゼットは——高慢な貴族の象徴だ。自分を見下す側の人間。関わりたくない相手。
その認識を、今ここで覆すことはできない。
「少しお話があるのですが」
「俺に、ですか」
セドリックの声に、かすかな棘がある。敵意ではない。壁だ。貴族と平民の間に横たわる、この世界の構造そのもの。
「ええ。あなたに」
「……自分は訓練中の身です。公爵令嬢のお相手をしている暇は」
「では訓練の後に」
食い下がった自分に少し驚いた。リゼットの性格なら、ここで怒るのが自然だ。平民の騎士に断られるなど、プライドが許さないはず。
でも私はリゼットであってリゼットではない。余命一年の転生者だ。プライドを守っている時間はない。
セドリックが眉を寄せた。
「何の用件ですか」
「ここでは話しにくいことです」
「……」
沈黙が落ちた。訓練場では他の騎士たちがこちらを見ている。公爵令嬢と平民の騎士が柵越しに向き合っている光景は、確かに目を引くだろう。
セドリックは一度、訓練場の方を振り返った。それから再びこちらを向いて、短く言った。
「一刻後に、東棟の裏庭に来てください。ただし、従者はつけないでいただきたい」
「分かりました」
彼が柵の向こうに戻っていく。その背中を見送りながら、私は自分の手が震えているのに気づいた。緊張か、興奮か、病の症状か。どれでもいい。彼は会ってくれる。それだけで十分だった。
◆
東棟の裏庭は、人気のない場所だった。
古い石壁に蔦が絡まり、手入れの行き届かない花壇に野草が伸び放題になっている。隅に石のベンチがあるが、苔に覆われて座れたものではない。王城の華やかさとは無縁の、忘れられた一角。
待っている間に、何を話すか組み立て直した。
正直に言うべきか。あなたは八ヶ月後に冤罪で投獄される、と。
——無理だ。根拠を示せない。前世の記憶で読んだ小説に書いてあった、などと言えば正気を疑われる。
かといって、遠回しに警告するだけでは伝わらない。セドリックは実直な人間だ。原作でも、曖昧な忠告や遠回しな助言は聞き入れない。はっきり言わなければ動かない。
でも、はっきり言える材料がない。
結局、何も決まらないまま時間が来た。
石壁の角から、セドリックが現れた。訓練着から正規の軽装に着替えている。腰には剣——今度は木剣ではなく、本物の。
武装して来た。
私を警戒しているというより、これが彼の習慣なのだろう。騎士は常に剣を帯びる。それでも、刃物を携えた相手と二人きりで向き合うのは、さすがに心臓に圧がかかる。
「お待たせしました」
「いいえ。来てくださって、ありがとうございます」
「……礼を言われることではありません。それで、用件を」
素っ気ない。でも来てくれた。その事実だけを拾う。
「セドリック殿。単刀直入に伺います。あなたは今、騎士団の中で信頼できる味方がどれくらいいますか」
セドリックの目が細まった。
「何を——」
「あなたの立場が危ういということを、あなた自身がどこまで自覚しているか。それを確認したいのです」
原作の知識に基づく推測だった。セドリックは平民出身の騎士だ。腕は立つ。だが貴族出身の騎士たちの中で、彼の立場は常に不安定だった。実力があるからこそ嫉妬を買い、平民であるがゆえに守ってくれる後ろ盾がない。
冤罪が成立した最大の理由が、まさにそこだ。セドリックには、彼を庇う政治的な力がなかった。
「自分の立場がどうであれ、それをヴァランティーヌ公爵家のご令嬢に話す理由がありません」
正論だ。ぐうの音も出ない。
「では質問を変えます。あなたがもし冤罪に問われた時、あなたの無実を証明してくれる人はいますか」
空気が変わった。
セドリックの右手が、腰の剣の柄にかかる。反射的な動作。訓練された体が、脅威を感知した時の反応。
「冤罪、と仰いましたか」
「はい」
「なぜそのような話を。何をご存知なのですか」
声の温度が下がっている。灰色の瞳が、まっすぐに私を射抜いている。
嘘をつこうと思えばつけた。情報筋がある、とか、噂を耳にした、とか。でもセドリックの目を見ていると、半端な嘘は見抜かれるという確信があった。
だから、別の真実を差し出した。
「私は近いうちに、第二王子殿下に断罪されます」
セドリックの表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「何を——」
「学園祭の夜、レオン殿下は皆の前で私の罪を暴くでしょう。エステル嬢への数々の嫌がらせ。証拠も証人も揃っています。私は婚約を破棄され、社交界から追放されます」
言葉にすると、思ったよりも平静だった。自分の断罪を語っているのに、まるで他人事のように。余命を知った人間は、こういう感覚になるのかもしれない。一年後には死ぬと分かっている人間にとって、社会的な死はただの前倒しだ。
「なぜ、そのようなことを自分に」
「あなたに、状況を理解してほしいからです。私はじき権力を失います。つまり、あなたに対して政治的な害を及ぼす力を持たなくなる。私の言葉を疑う理由のひとつは消えるはずです」
セドリックは何も言わなかった。ただ、剣の柄にかけた手を下ろさないまま、私を見ている。
「けれど」と私は続けた。「断罪の前に、やっておきたいことがあるのです」
「それが、自分に関わることだと?」
「はい。あなたを守りたい」
言った瞬間、自分の声の輪郭がはっきりしたのを感じた。三ヶ月間、ノートに書き連ねてきた計画が、初めて言葉として外に出た。
セドリックの眉が、深く寄った。
「守る? 自分を? なぜ」
「理由を説明すると、長くなります。今は信じてもらえないでしょう。でもひとつだけ聞いてください」
一歩、近づいた。セドリックの体が緊張するのが分かった。剣の柄を握る指に力が入る。
「数ヶ月後、あなたの身に起きることがあります。あなたにはどうしようもない形で、罪を着せられる。その時、あなたの側に立ってくれる人間が必要です」
「……何を根拠に」
「根拠は今は示せません。でも、時が来れば分かります。私が正しかったか、間違っていたか」
「仮にあなたの言う通りだとして」セドリックの声は硬い。「なぜヴァランティーヌ公爵家の令嬢が、自分のような平民の騎士を気にかける。裏がないと思えというのが無理な話です」
「その通りです。裏がないとは言いません」
セドリックの眉が上がった。一瞬だけ、警戒の膜が薄くなる。
「裏はあります。でもそれはあなたに害を及ぼすものではない。少なくとも、私はそう誓えます」
「誓い、ですか。公爵令嬢の誓いが平民にとって何の意味がある」
痛い言葉だ。でも正しい。この世界で、貴族の言葉は平民に対しては一方的な力でしかない。誓いも約束も、力関係の前では紙よりも軽い。
それを覆す方法を、私はひとつだけ知っている。
「では、対等な立場でお話しします」
右手を胸に当てた。ヴァランティーヌ公爵家の紋章が刺繍されたマントの留め金に触れる。金と紫の、重たい金具。
外した。
マントが肩から滑り落ち、石畳の上に広がった。公爵家の紋章が、汚れた地面の上で鈍く光っている。
セドリックの目が見開かれた。
「今の私は公爵令嬢ではありません。ただの——あなたのことが心配な、一人の人間です」
風が吹いた。裏庭の野草が揺れて、どこかで鳥が鳴いた。
沈黙が長く続いた。
セドリックの顔にはまだ警戒がある。当然だ。こんな芝居じみた行為ひとつで信用が得られるとは思っていない。でも、少しでも——一ミリでも——彼の壁に罅が入ればいい。
「……あなたは」
セドリックが口を開いた。声がわずかに、ほんのわずかに柔らかくなっている。
「奇妙な方だ」
「よく言われます」
嘘だ。リゼットがそんなことを言われたことはない。傲慢、冷酷、高圧的。それがこの体に与えられた評価だ。
「自分には、あなたの話を信じる理由がありません」
「分かっています」
「公爵令嬢が自らの断罪を予言し、平民の騎士を守ると言う。普通に考えれば、何かの策略です」
「そう見えるでしょうね」
「にも関わらず、あなたは自分に近づいてきた」
「はい」
セドリックは一度目を閉じた。呼吸を整えるように、深く息を吸って、吐いた。
「理由を聞いても?」
「先ほども申し上げた通り——」
「いえ。表向きの理由ではなく。なぜ、自分なのですか。騎士団には他にも大勢いる。もっと立場の高い者も、もっと力のある者もいる。なぜ、平民出身の——自分なのですか」
その問いに、私は答えを持っていた。でもそれは「あなたが前世で読んだ小説の推しだったから」という、この世界では意味をなさない理由だ。
だから、翻訳した。この世界の言葉に。
「あなたの剣を見ました。訓練場で」
「は?」
「三人を相手にしていた時。あなたの剣には迷いがなかった。力で押すのでも、技で惑わすのでもなく、ただ真っ直ぐに振るわれていた。ああいう剣を振る人は——守る価値がある」
言ってから、顔が熱くなった。我ながら、気障なことを言っている。
セドリックは返事をしなかった。代わりに、じっと私の顔を見ていた。何かを測るように。あるいは、何かを探すように。
やがて彼は一歩引いた。物理的な距離。でも剣の柄からは手を離した。
「……お話は聞きました。ですが、今すぐ信じることはできません」
「構いません。すぐに信じてほしいとは思っていません」
「では、何を求めているのですか」
「時間です。私がどういう人間かを知る時間を、ください。一年——いえ」
言葉が詰まった。一年。それは私に残された時間の全部だ。セドリックにとっては「一年」でも、私にとってはそれがすべてだ。
唇を噛んだ。
ここで泣くわけにはいかない。
「私はあなたの敵です。少なくとも今の世間の目では」
声が揺れそうになるのを、腹に力を入れて押さえた。
「でもあと一年だけ、あなたの味方をさせてください」
セドリックの目がわずかに見開かれた。
「一年だけ、とは」
「言葉通りの意味です。一年後には——私はもう、あなたの前に現れることはないでしょう」
断罪のことを言っているのだと、彼は解釈するだろう。社会的な死によって、私が表舞台から消えると。
本当は、もっと文字通りの意味だった。
でもそれを言う必要はない。同情で彼に近づきたいわけではない。
セドリックは黙っていた。長い沈黙の間、裏庭に風が何度も吹いた。壁の蔦がざわざわと鳴り、野草の間を虫が飛んだ。午後の日差しが傾き始めて、石壁に長い影が伸びている。
やがて彼は口を開いた。
「自分には、あなたの申し出を受ける義理も、断る権利もありません」
「義理で受けてほしいのではありません」
「分かっています。だから言っています。義理でも権利でもなく——」
少し間があった。
「自分の判断で、しばらく様子を見ます。あなたが何者で、何を企んでいるのか」
それは拒絶ではなかった。
受諾でもなかった。
でも——扉が、細く開いた音がした。
「ありがとうございます」
「礼には及びません。それと——」セドリックは地面に落ちたマントに目をやった。「それは拾った方がいい。公爵家の紋章を地面に置いたまま帰れば、あなた自身の立場が危うくなる」
気遣い。この人は、こういう人だった。原作でも、敵意を向ける相手にすら最低限の礼節を忘れない騎士として描かれていた。
しゃがんでマントを拾い、砂を払った。留め金を付け直す。指がまだ少し震えている。
「また来ます」
「……ご自由に」
突き放す言葉。でもその口調には、最初に会った時のような棘がなかった。
セドリックは背を向けて歩き出した。三歩。五歩。七歩。その背中が石壁の角を曲がって見えなくなる直前、彼は一度だけ立ち止まった。
振り返りはしなかった。
ただ少しの間、そこにいた。
そして消えた。
◆
帰りの馬車の中で、私は額を窓ガラスに預けた。冷たいガラスの感触が心地いい。体が火照っている。緊張が解けたせいか、手足の末端がじんじんと痺れていた。
——これは病の症状だろうか。
ベルナールは言っていた。初期症状は四肢の痺れと倦怠感。進行すると内臓の痛み、発熱、そして——。
考えるのをやめた。
代わりに、セドリックの顔を思い出す。警戒の色を浮かべた灰色の瞳。でも最後に剣の柄から手を離してくれた、あの瞬間。
一歩。たった一歩だけ、彼は退いてくれた。
馬車が石畳の段差を越える。体が揺れて、窓ガラスに額をぶつけた。痛い。
でも笑った。
一年ある。三百六十五日。今日で一日使ったから、あと三百六十四日。
やるべきことは山ほどある。冤罪の構造を解明すること。黒幕の正体を特定すること。セドリックに味方を作ること。そして何より——彼に信じてもらうこと。
全部できるかは分からない。体が持つかも分からない。
でも今日、彼に会えた。彼の声を聞いた。彼の剣を見た。彼の灰色の目が、ほんの一瞬だけ揺れるのを見た。
それだけで、この一日には意味があった。
馬車がヴァランティーヌ邸の門をくぐる。夕日が屋敷の白壁を橙色に染めている。影が長い。
自室に戻って、ノートを開いた。今日の日付を書き、その下に一行だけ記した。
『セドリックに接触。反応——拒絶せず。剣を下ろした。一歩、退いた』
ペンを置いて、窓の外を見た。空が紫色に変わっていく。星はまだ見えない。
三百六十四日。
明日も生きて目が覚めたら、次の一手を考えよう。
今日はもう、指先の痺れが止まらない。ベッドの縁に腰かけて、震える手を膝の上で握った。握っても震えは止まらないから、両手を組んで、祈るような形にした。
祈る相手はいない。この世界の神は、原作では名前すら出てこない。
でも——もし誰かが聞いているなら。
あと一年。
どうか、あと一年だけ。
この手が剣を止められるくらいの力を残しておいてください。
窓の外で、最初の星が光った。
小さな光だった。
でも確かにそこにあった。
——残り三百六十四日。




