武侠小説:棄剣帰闇
降りしきる雨が古びた廟の瓦を叩いている。
「正道の徒が魔教の女を匿うか。……堕ちたものだな、方蓮」
廟の入り口に立つ男は雨に濡れた剣先を地面に向けていた。正道十二門の筆頭格、方蓮の兄弟子である。
廟の奥、折れかけた仏像の背後で、方蓮は女を抱きかかえていた。女の名は零。世に「万魔の毒華」と恐れられる魔教の聖女である。
彼女の腹部には正道の剣によって刻まれた深い傷があった。
「正とは何か、魔とは何か。この数か月、それを問い続けてきました」
方蓮の声は静かだった。彼は名門の若き天才として、魔教討伐の先陣を切るはずだった。
しかし、潜入先で出会った零は民を虐げる地元の役人を密かに始末し、孤児に粥を分かつ女だった。
「彼女は魔教の教義に背き、仲間を逃がすために盾となった。一方、我ら正道は、手柄を焦って非武装の村まで焼き払った。兄上、どちらが『正』なのですか」
「詭弁を! 魔は魔、正は正だ。混じり合えば秩序が崩れる」
兄弟子が踏み込む。鋭い刺突が方蓮の肩を掠めた。方蓮は反撃せず、ただ零を守るように盾となる。
「……逃げて、方蓮。あなたは、光の中にいるべき人」
零が青白い唇を震わせ、彼の袖を掴む。彼女の手は冷たく、血の匂いが混じっている。
「光など、あなたがいなければただの幻です」
方蓮は自身の腰に帯びていた白銀の長剣を抜き放った。だが、それを向けたのは兄弟子ではなく、自らの「正道」としての証——門派の紋章が刻まれた剣の鞘だった。
彼は鞘を真っ二つに叩き斬り、地に捨てた。
「今日、方蓮は死にました。ここにいるのは、ただ一人の女を愛した、ただの男です」
その瞳には、かつての清廉な光ではなく、愛する者を守り抜くという凄絶な「魔」の気配が宿っていた。
兄弟子は戦慄し、剣を構え直す。
正義の名の下に、かつての弟を処刑しようとする者。
愛の名の下に、正義を捨てて修羅となった者。
外の雨は激しさを増し、廟の中に火花が散った。
剣がぶつかり合う音の中に、零の小さな啜り泣きが混じる。彼女を救うことは方蓮にとって魂を汚す行為かもしれない。
しかし、汚れなき正義という名の冷たさよりも、泥に塗れた愛の温かさを彼は選んだ。
「正」と「魔」
その境界線は降り頻る雨の中で混ざり合い、もはや誰にも見分けることはできなかった。
雨の音に混じり、凄まじい剣鳴が一度だけ廟の内に響き渡った。
互いの間合いが重なり、火花が散る。兄弟子の剛剣が方蓮の喉元を捉えようとしたその刹那。
兄弟子の指先が、わずかに震えた。
剣先は急所を数寸逸れ、方蓮の頬を浅く切り裂く。
対する方蓮の剣もまた、兄弟子の肩を掠めただけで止まった。
互いの瞳がぶつかり合い、一瞬の静寂が訪れる。
兄弟子はゆっくりと剣を引くと方蓮を見ることなく背を向け、土砂降りの外へと歩み出した。
その足取りは、自らの「正義」という名の重石を引きずっているかのように重い。
方蓮も何も語らず、零を背負い上げた。
かつての誇りである白銀の剣を床に捨て、彼は雨の中へと踏み出す。光を捨て、深い闇へと沈んでいく一筋の影。
兄弟子の報告はどうなるのか。追手は来るのか。傷ついた二人の行く先は救いへの旅路か、それとも永い地獄の始まりか。
雨に煙る山道の先、二人の姿は墨を流したような闇に溶け込み、やがて完全に見えなくなった。
ただ、廟の床に残された二筋の血痕だけが雨水に洗われながら、混ざり合って消えていった。




