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童貞論  作者: 宮崎翔吾
2/11

第2話 喫茶「伯爵」

 電話口からの悲痛な叫びに僕は面食らってしまった。


 我が友はいったいなにを言っているんだ?


「いいか、落ち着くんだ。自分がなにを言っているのかよく考えてから話してくれ」

「……すまん。つまり、ある私的な事情で俺は、その……童貞を失ったんだ」


「なに? おめでとう!」

 まさかお前が……、と頭に浮かんだ言葉は友のため飲み込んだ。


「お前に打ち明けるタイミングを(いっ)してしまったことは申し訳なく思ってる。それでなんだが」

 友は先程より幾分落ち着き払って続けた。「その失ってしまった童貞をいっしょに取り戻してくれないか」


 ええい、分からん。こいつは一体全体なにを言ってるんだ、これでは堂々巡りである。


 声色には酒精(アルコール)の気配は含まれていない。いくら彼とて平日昼間っから前後不覚に陥るほど酒は飲まないであろうが……いや、過去に「平日の昼間から、働いたり学んだりに汗水たらしてる人間を肴に飲む酒は無類である」と言っていた彼の記憶がある。

 その横で「その通り」と押さんでいい太鼓判を押して酒を(あお)っていたのがこの僕であるから思い違いではない。


 それにしても彼の沈痛でいたたまれない声は、事態がお気楽なお話でないことを物語っている。物語ってはいるがその内容は如何(いかん)とも理解しがたい。


「なあ、親友だろう? 助けてくれよお」などと涙交じりにささやく彼に僕は「まったく分からんが困っているのは分かったよ。今どこにいる? このまま電話で話しても要領を得ないままだろうから、会おう。会って話そう」と彼のところまで足を運ぶ決心をした。



 男の涙ほど気色の悪いものはない。犬も舐めないこと請け合いである。

 僕は待ち合わせ場所へ向かうべく顔も洗わず部屋を飛び出した。




 彼の指定した待ち合わせ場所は池袋の喫茶「伯爵」だった。


 僕の住んでいる東武練馬(とうぶねりま)からは東武東上線(とうぶとうじょうせん)で15分ほどかかるのだが、友のためであるから惜しくはない。電車賃190円を払うとなれば貧乏学生にとって多少悩むところではあったが、大学も同じく池袋に所在しているので通学定期が利用できたのは幸いであったと正直に記しておこう。



 東上線の改札を抜け池袋駅北口を出てすぐのところに喫茶「伯爵(はくしゃく)」はある。


 年季の入ったビルの二階にあるこれまた年季の入った店で、ビルの外観と比して思いのほか広々とした店内にはクラシカルで落ち着いた調度品が配置されている。コーヒーは一杯600円と巷にあふれる格安チェーン店より幾分も割高だが、財布に余裕のある日はここへきて戯れに文庫本など開いてみると、不思議と無為(むい)であったはずの一日にも充実感が満ちてくるような気がする。

 コーヒーの味は大衆店と違いはない。少なくとも僕の舌には分からない。


 店内は明るすぎず、心地の良い薄暗さに保たれて森閑(しんかん)としている。僕は喫茶店において、このちょうどよい薄暗さというのがコーヒーの味以上に重要であると考えている。暗すぎては本が読めないし、明るすぎては居心地が悪いのである。



 というのも、僕は大学では文芸部に在している。文芸部、それは言わば、ほどよく間伐され光に緑濡れる森――その隅っこに落ちている石の裏のじめじめした土の中を住処とするダンゴ虫たちの集い……それが大学に於ける文芸部の立ち位置である。

 同時にそれは存在意義でもあるのではないか、と僕は思っている。

 少なくとも僕は、あの湿気た場所を愛していたのだ。



 閑話休題、つまりなにが言いたいのかというと、オープンテラスでキャラメルフラペチーノだかなんだかをくぴと傾けるのも素敵だが、古風な喫茶店でコーヒーを飲みつつ本を読むのが僕は好きだというだけの話である。


 そして喫茶「伯爵」はそんな喫茶店であった。



 ビルの階段を上りドアを開くて店内へ入ると永野氏が「おおい」と手を挙げ合図を送ってくれた。僕はテーブルを挟んだ彼の向かいの席についてアイスコーヒーを注文した。長くなりそうなときには決まってアイスコーヒーを頼む。冷めたホットコーヒーほど味気ないものはないが、アイスコーヒーであれば氷が解けても水増しされるのは濃厚なコーヒーなので長時間粘れるのだ。



 対面に座った永野氏の顔はやはり暗い影に沈んでいた。普段浮かべている産地不明根拠皆無の満腔(まんこう)の自信も本日は品切れらしい。


 永野氏のほとんど空いたコーヒーカップに気付く。

「待たせたか、すまない」

「かなり前からいたんだ。気にすんな」

「なに、ではさっきの電話もここでしてたのか?」

「ああ、そうだけど」

「あの……あんな話をこんなとこでするもんじゃないよ」

 両隣の席とは間隔がかなり近い。先ほどの電話で彼は声をひそめることもなく、どちらかというと結構な音量でしゃべっていたはずだ。そういえば横のご婦人がさっきから冷めた視線をちらちらとこちらへ送ってきているがこれは「変態の仲間が増えたわよヤーネ」といった意味合いだろうか。とばっちりもいいところだ。甚だ心外である。



 アイスコーヒーが到着したので「じゃあ落ち着いて話してみてくれ」と本題に入ることを促す。面と向かえば冷静な会話もできるだろう。


「あれはつい先日──お前から、童貞を喪失したと聞いて落ち込んでいた翌日だったか」


 僕はついバツの悪い顔になる。

 横のご婦人が再度顔を(しか)めてやいやしないかと確認するが、賢明なるご婦人は我々のことを視界から締め出すことにしたらしい。


 たしかに僕に彼女ができて、一夜を迎えたという話を彼にしたのはつい最近のことだった。僕は(うつむ)いてしまう。

 その話について僕は彼を傷つけてしまっている。彼には弁明を行わなくてはならないと思い悩んでいた……。

 しかし「それは」と言いかけるよりも早く永野氏は話を進めたのだった。



「ノート屋があるだろ」


「ちょっと待ってくれ」僕は彼に二の句を継がせずさえぎった。「ノート屋とお前のその、それが関係あるとは思えないんだけど」

「お前が落ち着いて話せと言うから俺は順序立てて話そうと努めてるんだぞ。まあ聞け!」

 繋がりがまったく見えないが僕は「そうか、すまんかった」と形だけ謝り続きを促した。




 ここでノート屋の説明を挟んでおく。


 ノート屋は正しくはコピーセンターと言い、表向きはレジュメ等のコピーを格安で請け負う商いである。


 だがその実、ノート屋は、講義に全出席し漏らさず板書も取る見上げた学生からノート及びレジュメを買い取り、それをコピーして売っている。


 もちろんそれを買うのは僕や永野氏のような落第生である。

 それで商売としてなりたっているのだから、ノート屋の存在はいかに落第生が多いかということの証左(しょうさ)でもある。


 優秀な学生からノートを買い取る際の相場は謎に包まれているが、かなりな高額であるともっぱらの噂だ。講義に欠席することなく全出席し板書も書き漏らさないのだから、その超人的活躍への対価は法外的高額であるのだろうと永野氏と納得したことがある。


 それだけの値段で買い取っても惜しくないのは、それ以上の収入を見込めるからにほかならない。

 つまり、優秀な学生はほんの一部だが、腐れ大学生は腐るほどいて、実際腐っているという大学の実情がある。


 優秀な学生としても、「俺たち友達だろう」などと甘言(かんげん)を用いられ、タダでノートを写されるのはあまりにも面白くない。であるからして、自らの完成したノートをノート屋に売却し労をねぎらわれる。


 出席率低空飛行で同じ講義に出ている知り合いもいない、もしくは悲しいことだが元から友達の少ない我々のような腐れ大学生はノートを購入し試験に備えられる。


 単位を失いたい大学生はいないのだ。


 この仲介機関の存在によって両者が利得を得る。


 だがしかしノートを買うことに対する罪の意識は失ってはいけない。

 言い訳がましいが僕はなるべく講義には出席することにしているのだがどうしても出られないこともある。

 身内の不幸、病気、電車の遅延・運転見合わせ、それと単に寝坊などだ。

 そういうとき僕は涙を飲んでノート屋を訪れる。ノートを写させてもらう友人がいたらと胸が痛くなる(ちなみに僕は経済学部で永野氏は法学部である)。


 ノートに払う300円から500円ほどのお金が、大学生的友好関係構築活動を行っていなかった自分への罰なのであろうかと悲しい帰り道を歩いたことは一度や二度ではない。


 そんなノート屋のしていることはグレーゾーンというか思いっきりアウトなんじゃないかと誰しも思っているが、白か黒かということはともかくとして、学生からの支持は非常に厚い。

 大学側にもその存在は明らかになっているものの、本校を卒業した大学職員ひいては教授にも、過去ノート屋のお世話になっていた者は少なくないらしく、うやむやになっているとかいないとか。


 そんなノート屋の場所であるが、駅から大学までの通学路にある雑居ビルの三階に店を構えている。行き違いもできないような狭く急な階段を上って妙に重い鉄扉を開いた先に、ところ狭しと紙の束をホッチキスで留めたものが並んでおり、おっといけないここまでにしておこう。




「近年ノート屋がその力を強め、事業拡大に乗り出し始めたのは知ってるか?」

「いや、初耳だなそれは」


 ノート屋の事業拡大とはいったいどこへ進むことを言うのだろう。

「ところでノート屋ってのは出てもいない講義のノートを阿呆学生に売ることを生業としているわけだが、その商売の究極系ってのがあるとすればそれはなんだと思う?」

「ノート屋の究極系?」僕は答えに窮してしまった。「うーん、考えたこともない」

「大学生なら少しは考えろよ。ノート屋はノートを売る。名は体を表す、これは当たり前だな。そんで学生はノートを買う。だが学生が真に求めているのはノートに書かれた学術知識だろうか? いや違う、学生が金を払っているのは試験を乗り切った先にある単位を手に入れるためだ!」


「つ、つまり?」

「――『単位屋』だよ」


 永野氏は少しだけ残っていたコーヒーを飲み干した。

「顧客のニーズに応えるのが商売ってもんだ。奴ら単位を売ってるらしい。あくまでも噂だが」

「そんな馬鹿なことがあるもんか」

「大学内部にもノート屋の世話になった人間は多い。ノート屋はどうやら大学の中に諜報員(ちょうほういん)を放ってるらしい。教授連中の弱みを握って答案を前もって手に入れたり、採点を甘くしたりさせているんだと」


「そんなことをすれば大学の社会的地位は失落だ。存続すら危ぶまれるような大問題じゃないか!」

 僕はあまりの内容に思わず声を荒らげた。横のご婦人の視線などもうお構いなしだ。大学の信用が失墜すれば、大学の名前と信用だけで大学生を名乗っている我々の沽券(こけん)に関わるからである……。


「まあ噂だって」永野氏は苦笑した後表情を再度硬くした。「だからこそ一度加担した者は絶対に口外しない。ノート屋は関係した者にけっこうな金を払ってるらしい、こうなりゃもう共犯だからなおさらだ。こんな噂、都市伝説みたいなもんで、どこかの留年大学生の妄想に過ぎない可能性の方が大きいさ」


「だがそんな不正をぽんぽん行っていては誰かの目に付くだろうに」

「ぽんぽんは行っていないよ。ひとつの講義に一人か二人と決まっているらしい」

「なるほど」

「そもそも単位の相場が馬鹿高いんだと。一コマでウン十万だとか」

 コーヒーを吹き出しそうになった。「ウン十万? 正気じゃないな」

「留年間近の単位に飢えてる大学生なんてみんな正気じゃないさ。そもそも正気であれば留年間近まで追い込まれてなどいない。窮鼠(きゅうそ)猫を噛むと言うだろう。追い詰められた人間はときにとんでもない行動を打つ。溺れる者は藁をもつかむんだ。そういった学生をリサーチして信頼の置ける阿呆に向こうからコンタクトを取ってくる」


「ノートは売っているのだから、それで勉強して試験に合格すればいいじゃないか」

「大学の奥底に根を張って巣食っているような阿呆を舐めてはいけない。知性は減退し読み書きも危ういと言う」


「んな阿呆な」と口を衝いて出そうになったが飲み込んだ。大学生とは人類で最も多様性に富んだ種族であるからして、万に一つの阿呆が存在する可能性を排除することはできない。


「単位屋か、行き着く果ては『卒業屋』かね」

「ふふん。かもな」永野氏は笑った。


 いや待てしかし。

「興味深い話だったけど、で、それが今回のお前の件とどう繋がるんだ?」


「あ、うん。それなんだけどね」

 途端に彼は人見知りの小学生のような口調に変わった。

「そのノート屋の経営拡大の中にひとつ変わったプロジェクトがあってね」


「なんだい?」

「……回収」

 永野氏はこれまでで一番の小声でぼそぼそしゃべるので要領を得ない。「すまん、聞こえない。ハッキリ話してくれ」


「――童貞廃品回収って言うんだ」

「……ごめん。帰っていい?」

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