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童貞論  作者: 宮崎翔吾
10/11

第10話 同定

 いつもならガチャガチャと喧しく聞こえる喫茶「伯爵」の店内がどこかシンとしているように感じられた。

 耳を澄ましてみればなんということはないいつもの「伯爵」であったが、浮世離れした話を聞いた僕の心が地面から2センチは離れていたんだろう、周りの声に嫌でも耳をそばだててしまうことも忘れていたようだった。

 外を見やればすでに太陽は夕刻迫り飴色(あめいろ)の表情で街を染めていた。氷の解け切ったアイスコーヒーは病院食よりも薄く、飲むに()えなくなっていた。




「とにかく」言いつつ覗き込んだ永野氏の顔は暗い。「信じようじゃないか。君の話を」


「信じてくれるのか。こんな話を……?」

 ため息と間違えてもしょうがないような、漏れ出たという表現が適当であろう弱々しさで永野氏は言った。暗闇の如きその顔に一筋の曙光(しょこう)が差すのを僕は見た。


「信じるも信じないもないだろう。法螺話(ほらばなし)ならただおもしろいとは思うが、わざわざ君が僕を190円も払わせて呼びつけたんだ。今までそんなことは無かった。嘘ばかりついてきた君がつく嘘にしてはあまりにも嘘くさい。そんな話を大層にするんだから、本当じゃなくても本当なんだろうよ」


 永野氏は気色悪くも(うつむ)いてふるふると震え、そして「ありがとう」とかすれた声で言ったが、僕はそれに聞こえない振りをした。



 しかしながら、荒唐無稽(こうとうむけい)な話の後ですぐそれを所与(しょよ)とした法律論で冷や水をぶっかけられた僕の頭は混乱に混乱でいっぱいになっていた。

 それでも、永野氏を信じる。そう決めた。

 それは、刎頸(ふんけい)の友たる永野氏だったからというのがもちろん大きかった。しかしながら、それ以上にそう思わせるに足るものを眼の前の男から感じ取っていた。明らかに前回会った時と何かが異なっていた。


 まず眼が違っていた。

 爛々(らんらん)と、というよりもはやじゅくじゅくと爛熟(らんじゅく)して濁りながら周りを睥睨(へいげい)していたあの眼が、今はこの世の真理を知りましたとでも言わんばかりに不気味に澄み渡っていた。

 それは公家(くげ)が火災と飢餓(ききん)に喘ぐ平民達を朱雀大路(すざくおおじ)を行く牛車(ぎっしゃ)から眺めるような、この世を(はかな)んでいる眼だった。諸行無常(しょぎょうむじょう)を知った気になった者の、一段高いところから御簾越(みすご)しに向けるそれであった。

 もちろん童貞にそんな眼ができるわけがない。童貞はいつでも知らないからである。知らないことを知っていればソクラテスにもなれようが、知らないことすら知らないのが童貞であるのであった。


 また、一般的に童貞は猫背ぎみである。

 高校時代水泳で鍛えた大柄な体躯(たいく)を持つ永野氏も、宝の持ち腐れとはこのことかという猫背であった。

 それが今やどうだろう。張らなくてもよい胸を張って余計な空間を占有している。

 この世に存在していてもかまわないという肯定感を童貞は持てていない。自発的でないにせよこの世に生を受けたのだから堂々としていればよいものを、異性に必要とされないという一点から考えんでもいい自らの存在意義なんかに思いを巡らし日々逡巡(しゅんじゅん)している童貞は自然と猫背ぎみになる、と一説には言われている。


 加えて、永野氏からいつもしていたあの()えたスメルがしていない。

 一般的に童貞からは()えたスメルがするものである。

 これは前述した自己肯定感の欠如に()っており、洗濯時にダウニーでも使えばいいものを、自分からいい匂いがすることを童貞の卑屈さは(いさぎよ)しとしない。

 結果、異性はより離れていくことになる。童貞はその自己言及性により童貞であること補強していくのだ。


 生前の永野氏(童貞)がそのプライドの高さにおいてプロフェッショナルにお世話になるとは考えられない。かといって(ねんご)ろな異性がいる可能性はもっと低い。


 であるならば、永野氏の語った話は真であると考えざるを得なかった。

 

 永野氏は非童貞であると同定(どうてい)されるのであった。

 

 

 とはいえもう少し話を整理することが必要と考えた僕は永野氏にいくつか質問をすることにした。

「実際に起きた出来事はこの際否定しない。だけど、何らかの不手際において童貞を喪失してしまった、ということはないのかい? 例えば貞操帯(ていそうたい)がダイヤル錠以外の方法で外せる細工がしてあって、君が気を失っていた時間に何らかの間違いが起きた――とか」

「それはあり得ない。貞操帯を外して自分のモノを入念に確認したが我慢汁(がまんじる)が乾いていただけで、不審な点は見つけられなかった」


 なるほど、我慢汁(がまんじる)が乾いているのが確認されたということは、実際に接合行為があった後に証拠を拭き取るといった偽造工作は否定される。非常に論理的であり筋が通っている。


「そして」永野氏は続ける。「俺は、自分自身が脱童していることを確信しているんだ」

 そう、この点が非論理的なのである。

 それを理解しているのであろう、永野氏は目線を上にやって少し考える。まるで、喫茶「伯爵」の天井付近に次に継ぐ言葉が浮いているかのように。


「そうだな。おかしなことを言っているのは重々承知している。行為をしていないのに脱童するなんてありえないということは、もちろん頭では理解している。だけど、間違いなく、俺は童貞ではなくなってしまっているんだ。理屈じゃなく、それが実感として分かるんだ」


 この後繰り返したその他の問いにも永野氏は同様に、おかしなことだとは思うが間違いなくあったことであり童貞を失ったことは確信しているという旨を包み隠さず披瀝(ひれき)したのだった。


 再び二人の間に降りそうになる沈黙の緞帳(どんちょう)を僕は「分かった」と切り裂いた。

「分かった。もうたくさんだ」

「え……」

「もうたくさんだと言ったんだよ。――親友が脱童した話なんて、ね」

「君……ありがとう……」



 永野氏は不本意な童貞喪失をしてしまい、それについて異を唱えたい。であれば我々が次にすべきは明白である。

「なら、行くしかないじゃないか」

「どこへ?」

「決まってるだろう、ノート屋にだよ」


 永野氏の回想の登場人物は、永野氏とノート屋と、謎の巫女である。

 巫女の行方は、誰も知らない。

 であれば必定訪ねるべきはノート屋以外にありえない。取り合ってくれる可能性がどれだけ小さくとも、ノート屋以外に無いのである。

 事実として永野氏はノート屋に5万円を支払っており、それは少なくとも行為抜きに童貞を失わせるというサービスの提供契約が存在していたからこそ対価たる金銭を支払っているのであるからして、仮に永野氏が厚かましくも童貞喪失のクーリングオフを請求するとすれば、それはノート屋以外にありえないのである。


「ノート屋の営業時間は何時までだったっけ?」

「5限終わりの奴らが来るまでだから、たしか19時半」

「ならまだ間に合うようだね」


 僕たちは喫茶「伯爵」を辞しノート屋に向かうことにした。


 

 会計の折、永野氏は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()含めてすべてを支払ってくれた。

 僕は先ほど「分かった」とは言ったものの、まだほんの少し抱いていた「自分はまた騙されているのではないか。そのうちネタバラシがあって馬鹿にされるのではないか」という一片の疑義が霧散(むさん)したのを感じた。


 以前の永野氏(童貞)であれば、絶対にアイスコーヒー1杯分しか支払おうとしなかったはずである。

 まず、永野氏の2杯目のアイスコーヒーは僕が頼んであげたものであり、永野氏(童貞)ならば「民法においてアイスコーヒーの注文は君が意思表示をして行ったものであり、仮に君が『俺が支払うものとして代わりに注文をしただけ』だと主張したとしても俺はそれを善意無過失(ぜんいむかしつ)で知らずに最後の一滴までおいしく飲みほしたのであって、したがって俺に債務は生じえない」とか何とか恥も外聞(がいぶん)もなくレジ前でごねていたはずだった。


 しかし、その予想に反したどころか、永野氏は僕の分まで支払いをしたのである。


 

 僕はいよいよこの世の埒外(らちがい)とやらの存在を認め、これからそれと対峙(たいじ)しようとしていることを認めざるを得ないのであった。

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