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童貞論  作者: 宮崎翔吾
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第1話 童貞

 世には奇病が蔓延(まんえん)している。


 その奇病は生得(しょうとく)のもので、男であれば誰しもに潜伏していた。

 発症すれば体に悪さこそしないものの心の根っこに巣食うのでたちが悪い。ある者は発病前もしくは発病間もない段階で治療を受け、この病とは以後一生涯関わりあいになることなく天寿を全うする。



 その病の名は「童貞」である。



 なにを阿呆なと言ってくれるな。これは非常にデリケートな問題であり、罹患者(りかんしゃ)にとっては明日の日本経済の展望よりも切実なのである。



 こいつがすうすう寝息を立てて体の中に眠ってくれているうちはいいのだが、一度でも意識をしてしまえばそこからがいけない。彼の安眠を破るきっかけは数あるが多くは中学生高校生時代、肥大化した自意識に揺り起こされるパターンが顕著であるとの調査結果が報告されている。


 いきなり睡眠を妨害された方はたまったものではない。

 眠れる獅子はひとたび目覚めると胸の内でスーパー歌舞伎よろしく滅多矢鱈(めったやたら)に大立ち廻りを演じては自意識をぼこ殴りにする。

 そりゃあもうぼこぼこである。したたか殴る。そののち蹴る。



 肥大化しきった自意識と例の彼が若き青年の精神で胸襟(きょうきん)を開いて語らうことはない。同居生活は絶望的であり一方的ドメスティック・バイオレンスが昼夜を問わず繰り広げられる。


「こりゃかなわん」とほうほうの体で現実世界に戻り、彼女と言う名の治療薬を得ようと眼前の学生生活に注力せんとするがうまくいかないことこのうえないこと間違いないから遣る方ない。

 なぜなら彼が心にデンと座っているからだ。



 そもそも女性とねんごろになれるのであれば最初からそのような汲々(きゅうきゅう)とした状態を招いていない。片手で数えられるほどの女性との交流チャンスに至っても彼がわあわあ騒ぎ立てて気の利いた世辞ひとつ出てこない。「俺いいわ」などと硬派を気取ってみる。帰宅後ひとり部屋で励んだりしてみる。



 当然の帰結として精神は爛熟(らんじゅく)の域を越えなんだかぶよびよとして酸っぱいにおいを発するようになる。彼の勢力はさらに強まりワンサイドゲームは加速していく。


 滾々(こんこん)と湧いてくるこの情欲を他に昇華してみるかと思い立ち戯れにスポーツなどしてみる。

 抜群にうまい先輩に彼女がおり、もちろんかわいくて不貞腐れる。ボールをふたつ体操着に詰め笑いを取ってみようと試み、しこたま怒られる。



 あれよあれよという間に受験期に突入したので「俺には勉強だ」などと戯言を吐いてみる。

 静かに集中しようと努めたときほど彼は喧しく騒動する。休憩と称して図書室より貸し出された国語辞典で卑猥な単語を引いてみるが、行き着いたエルドラドには先人が既に蛍光ペンでこれでもかとマーキングを施しており、これが自分の行く末であろうかと頭を抱える。



 そんなこんなで僕は彼を発症してからというもの悶々とじたばたしてはこなすべきイベントをこなせず、せずともよいことばかりして中高の生活をふいにした。



 そして機を逃しきってしまったまま大学生になった。


 大学は心機一転それまでの田舎町を出て東京やってきた。それもキリスト系の私立大学である。そんな前途有望な青年を放っておくほど東京の淑女たちは阿呆ではないだろう。

 そう信じて疑わなかった。



「東京のお洒落な私立大学の空気を吸うだけで僕は高く跳べると思っていたのかなあ……」


 僕は東京の灰色な空を見上げながらつぶやいた。



 実りがなかったわけではないが想像とは違ったものだった。

 すでに垢抜けた同級生たちの中にいて、僕はまだ土の付いたままの山芋同然であった。

 サークルに入ろうと思い立ったが、高校時代にスポーツに興じてみて、自分には運動の才がマイナス値に割り振られていることは明らかだったので文化系サークルを見て回った。

 そして、文芸部という岩の裏のいも虫のたまり場が如きサークルへ加入した。


 たまに顔を出すだけで文章を書くこともなかったが、ここで刎頚(ふんけい)の友に出会うことになる。



 そして、ひとりの女性にも出会った。



 話は僕と、刎頚の友たる永野氏の入学から三年経った年の五月にまで飛ぶ。


 いつものように講義に出ずに家で穀を潰していた僕のもとへ一本の電話が舞い込む。

 電話口の永野氏は、開口一番悲痛にこう叫んだ。



「いっしょに童貞を取り戻してほしい!」と。

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