2.提案と暗転
しかし、アリシアが浮かれていられたのはホールに入るまでのことだった。
ハフィントン公爵が令嬢を連れているのすら珍しいのに、よりによって相手はあの冷遇されたアリシアだ。人々はこの珍しい組み合わせに驚き、ざわめきながらこちらをチラチラと見ている。
遠目に見ている時はわからなかったが、こうして公爵の隣に立っていると彼に向けられる感情をまざまざと感じられる。彼らの目には恐怖と嫌悪、そして怯えが映っていた。
公爵はこんな視線に四年も晒されてきたのか。アリシアは胸が締め付けられるのと同時に怒りが込み上げてきた。
アリシアが微かに震えて黙り込んでいると、その様子を誤解した公爵がそっと声をかけてくれた。
「今なら君が庭園を迷っていたから送り届けただけだと言い訳ができる。君を私の悪評に巻き込むつもりはない」
「悪評だなんて!」
やはり公爵は素晴らしい人だ。呪われたくらいで公爵の品位は落ちることなどない。逆境の中でもなお優しさを忘れずにこんなにも誇り高い。
アリシアは自分を恥じた。自分の悩みなど本当に何でもなかった。冷遇されるのは確かに辛いけれど、何かをするのを邪魔されたことはない。放置されているのなら好きに動けば良かったのだ。どうしても駄目だったら母の実家の辺境伯家を頼ることだってできる。
悲劇のヒロインぶっていたなんて本当に恥ずかしい。自分にできることを精一杯やる。少しでも憧れの公爵に近づくために努力するのだと決意した。
だから、まず手始めにすることがある。
「わかりました。閣下が素晴らしい紳士だと改めて皆様に知らしめましょう!」
「私は君の心配をしているんだけどね」
使命感に駆られたアリシアは公爵の言うことを聞いておらず、早速淑女の笑みを浮かべて優雅に姿勢を正した。そんな彼女を見ていた公爵はふっと笑みを浮かべるとアリシアに手を差し伸べた。
「私と踊っていただけますか?」
「はい。喜んで」
それからはもう夢中だった。
基本的に何でもそつなくこなすアリシアは当然ダンスも上手い。だが、今まではダンスの講師とデビューの時のパートナーだった従兄弟としか踊ったことがなかった。
次期辺境伯である従兄弟は武勇に優れているが、ダンスはあまり得意ではなかった。身体能力はあるのにリズム感がないのだ。
それと比べるのは失礼だとわかっているが、公爵の巧みなリードで踊っていると実に軽やかでまるで浮いているかのように滑らかだった。
自然とアリシアの顔に笑みが浮かんで公爵を見上げる。
「閣下!」
「何だい?」
「わたくし、楽しいですわ!」
「それは良かった」
公爵の顔にも笑顔が浮かんで、アリシアの気分はますます上昇した。ふたりでくすくすと笑いながら踊っていると、周りの喧騒など気にならなくなる。
まるで世界にふたりしかいないみたい。
そんな浮かれた事を考えながら、アリシアは公爵とのダンスを楽しんだ。
しかし、何事にも終わりは来るものだ。
曲が終わって公爵から離れようとした途端、わっと歓声に包まれてアリシアは飛び上がるほど驚いた。
「え?えっ?」
動揺を表に出してはいけないとわかっていても、混乱して事態についていけない。
人々は拍手をしながら口々にふたりを褒めそやしている。いつもアリシアに向けられている曖昧な視線とは大違いの温かい眼差しだ。
「ブレイジャー嬢。話があるんだ。さっきのところに戻ろうか」
「え?はい」
公爵にそっと囁かれて我に返る。彼のエスコートを受けて歩き出し、近くの貴族達の賞賛を曖昧に受け流しているとふと父親達の存在に気づいた。
ブレイジャー侯爵は呆然とこちらを見ていて、エイダ夫人は扇で表情を隠している。その隣に居る義姉のマリベルは作った笑顔を浮かべて静かに見ていた。
日頃アリシアに無関心な彼らの常にない反応に目を見開いた。特に父親がこちらをはっきりと見ているなんていつぶりのことだろう。そのただならぬ様子に不安にかられて公爵に添えている手に少し力がこもった。
それに気づいた公爵がちらりとブレイジャー侯爵一家を見ると、さりげなく彼らからの視線を遮って安心させるように微笑んでくれた。
それだけでアリシアはほっとして身体の力が抜けた。
今更彼らの反応など気にしても仕方ない。きっと今後もアリシアなどいてもいなくても変わらない態度を貫くだろう。
人々をかきわけるように進み再びバルコニーから庭園に出る。時間が経ったせいか外はさっきよりもさらに気温が下がっていて、いくら興奮に火照った身体でも冷えて風邪をひきそうだ。
「すまない。私の配慮不足だな」
アリシアが震えているのを見て、公爵が上着を着せかけてくれる。
特に装飾のないシンプルな上着だが最上級の品だとわかるし、彼の体温が残っており香水の微かな残り香まである。その感触がとても気恥ずかしくて、アリシアはすぐに公爵に返そうとしたが受け取ってくれなかった。
「わたくしなら大丈夫ですわ」
「私が君の言う素晴らしい紳士なら淑女に寒い思いなど絶対にさせないと思うが?」
「うう。それはそうですが・・・」
「心配しなくてもさっきの場所に行けば暖かくしている」
公爵の言葉に首を傾げていると、やがて噴水の回廊に着いた。
しかし、そこにはさっきまでなかった小さめの天幕が張られており、中にはテーブルと暖房の魔道具が置いてあって充分暖かかった。
「魔法ですか?」
「いや、優秀な従者がいるからだな」
とぼけたアリシアの感想に公爵はくすくすと笑った。
天幕の横には公爵と年齢の変わらない様子の青年が立っており、丁寧に礼をしてきた。
「閣下の従者兼護衛のルークでございます。お見知りおきを」
「ルークね。よろしく」
にっこりと笑ったルークは椅子を引いてアリシアを座らせ、素晴らしい手際でお茶を出すと天幕の外に出た。
「それでは、ごゆっくり」
「ブレイジャー嬢。これから少し込み入った話をする。私とふたりきりで不安かもしれないが、天幕の入り口は開けておくし、外のルークは見張りであり護衛だ。安心してほしい」
「はい、承知しました」
正直何を不安になるのかはわからないが、アリシアは素直に頷いた。
すぐに話が始るのかと思ったが、公爵は逡巡するように黙ってしまった。きっと話し辛いことなのだろう。アリシアは彼の決断を待つ間、香り高いお茶に口をつけた。
それからどれくらい経ったか。やがて公爵が口を開いた。
「ブレイジャー嬢」
「はい、閣下」
「私はこれから君にいくつか頼み事をしたいと思っている。だが、その前に見て欲しいものがあるんだ」
緊張した面持ちの公爵がそう言うと、彼は自身の仮面に手を伸ばした。アリシアが息を飲んでいると、ゆっくりと仮面が外され彼の素顔が晒された。
「・・・・っ」
その姿に圧倒されて、アリシアは言葉を失ってしまった。あまりの衝撃に耐えられず、手で目を覆ってしまう。そんなアリシアを見た公爵が傷ついた顔をして口を歪めているのにも気づかずに。
「・・・醜いだろう」
「ち、違います。あんまりにもお美しくて、目が潰れそうです」
「・・・・・は?」
顔を赤くしてもじもじしているアリシアを見て、今度は公爵が言葉を失った。外に控えているルークも思わず振り返った。
ルークの目には四年の間に見慣れた公爵の爛れた顔が見えた。かつて傾国と謳われた美貌は哀れにも爛れ、顔の上部が変色しどす黒く染まっている。それでもルークは主の美しさと気高さを疑っていないが、アリシアの様子を見るに単純に見惚れているようだ。
「つまらん世辞はよせ」
「本当です。爛れてなんておりませんわ。とてもお美しいです」
まるで神が祝福をこれでもかと詰め込んだかのようだ。小さな顔に収まったすっと通った鼻筋、薄い唇、そして何よりも王家の色である金の粒が煌めく青い瞳だ。金色の長い睫毛に覆われたそれは、青空に輝く太陽のようで実に神々しい。
これが傾国の美貌。思わず目眩がしてくるほどだが、アリシアは何とか冷静さを取り戻そうとしてコホンと咳払いをした。
「あ、あの。確かに爛れてはおりませんが、閣下のお顔に黒いもやのようなものがかかって見えます」
「黒いもや?」
「ええ。先ほど汚れを取ろうとしましたでしょう?何かと思っていたら、これが呪いなのでしょうか?」
黒いもやはちょうど仮面に隠れていた辺りを覆っている。アリシアの目にはもやにしか見えないが、他の人にはこれが爛れているように見せているのだろうか。手を伸ばしてもやに触れてみようとしたが、感触はない。
「ブ、ブレイジャー嬢」
「あっ!何度も不躾に申し訳ありません!」
勢い余って公爵の目元を触ってしまっていたアリシアは、少し赤くなった彼の抗議の声を聞いて慌てて手を離した。
「恐れながら、お嬢様のブレイジャー侯爵家はかつて聖女様をも生み出した治癒魔法の家系。もしやその手のスキルをお持ちなのではないですか?」
ふたりして赤くなって話が進まないのを見かねたのか、ルークが問いかけてきた。
「おい、ルーク」
「いいえ、かまいませんわ。確かに大魔法時代にはそういった能力の者がいたそうですけれど、もう何代も治癒魔法もその素養を持った者も生まれておりません。わたくしのスキルは『魔力譲渡』ですし。しかも外部に魔力を出力できないので、全く役に立ちませんのよ」
かつてこの世界では当たり前のように魔法が使われていた時代があった。
大地にも周囲にも魔力が溢れ、己の魔力のみを使って生み出される奇跡が魔法と呼ばれるものだ。
しかし、時代が進むにつれ魔法を使える者はいなくなり、現在では魔方陣を描きそこに魔力を込めることで発動させる奇跡である魔術が用いられている。
もちろん魔術を使うのにも一定以上の魔力と才能が必要であり、誰でも使えるわけではない。国としてはなるべく多くの魔術師を抱えておきたいので、全国民が10歳の時に神殿で魔力とスキルの鑑定を行っている。
スキルとは、個人が持つ才能のことだ。
血族に脈々と受け継がれるものから、その者個人の生まれ持ったものなど、人それぞれだが何かしらの才能を10歳の時に鑑定することができる。それによって将来の進路や就職先に向けて早めに勉強できると喜ばれている。
それらの情報は全て神殿で管理されており、王宮はそれを適宜開示を求めることができるが基本的には秘匿されている。中には人には知られない方がいいスキルもあり、当人の安全を守るためだ。
アリシアもかつて神殿で鑑定を受けたとき、自分に治癒魔法の素養があれば父の関心を取り戻せるかもしれないと期待したのだが、結果は何の役にも立たない『魔力譲渡』だったしそもそも鑑定の場についてきてくれたのは父ではなく執事だった時点で期待するのをやめたのだった。
「いや、『魔力譲渡』か。あるいはそれが・・・」
「閣下?」
考え込んでしまった公爵にアリシアが声をかけると、彼はやがて決意したように顔を上げた。
「ブレイジャー嬢。私が呪いを受けたとき、医者にも魔術師にも神殿の大神官にも見てもらったんだ。だが、誰もこの呪いを解くことはできなかったし、不可能と言われていた」
「そんな・・・」
「もちろん周囲はあらゆる方法を模索してくれたがどうにもならず・・・。今は諾々と現状を受け入れているだけだ」
「閣下・・・」
公爵が呪いを受けたのは今のアリシアと同じ18歳だ。前途洋々たる青年だった公爵が呪いによってどれほど絶望したのか想像すらできない。
「そもそも呪いとは大魔法時代に用いられたもので、現代では根絶されたと言っていい。だから過去の文献を当たろうにも資料がないんだ」
「まあ、そんな・・・」
「そこで、君だ」
公爵は身を乗り出し、アリシアに迫った。
「君は私の呪いを軽減する力があるかもしれない」
「まあ!本当ですか?」
「君は呪われた私の顔が見えないと言うし、君に触れていると痛みがなくなる」
「痛みもあったのですか?」
「ああ。心臓に呪いのコアがあって夜になると痛みがある」
何と痛ましいことだろう。人目に晒される昼だけでなく、夜にも苦痛があるなんて。アリシアは呪った者を絶対に許さないと思った。
「それでは今も痛いのですか?」
「ああ、だが君に触れていると何故か痛みがなくなる。・・・触れてもいいか?」
「もちろんですわ!」
アリシアが素早く手を差し出すと、公爵がその手を取った。彼がほっと息を吐いたので今まで無理をして何でもない風を装っていたのだろう。その様子に胸が痛むと同時に改めて尊敬の念が湧いてくる。
「君の手を最初に取ったときにとても驚いた。そのときはまさかと思ったが、踊っている間も痛みがなくてこれは本物だと思った。・・・だから、君に協力を頼みたい」
「わたくしにできることなら、何でもしますわ」
アリシアがあまりにもきっぱりと言ったので、公爵は苦笑した。
「まだ何の申し出もしてないのに、何でもなんて言ってはいけないよ。事実、私は今から君がショックを受けることを言うのだからね」
「それは、どういう・・・?」
アリシアが戸惑っている間に、公爵は彼女の前で跪き繋いだままの手にキスを落とした。
「アリシア・ブレイジャー嬢。あなたに結婚を申し込みたい」
「・・・・え?えっ?」
あまりにも予想外のことを言われてアリシアの思考が停止するが、その間も公爵の話は続く。
「正直に言おう。君に我が家に滞在し私の呪いを解くか、あるいは軽減できるように協力して欲しいんだ」
「それは、もちろんですが・・・」
「君はわかっていないと思うが、私の痛みがあるのは夜。つまり・・・」
公爵は顔を赤くし、言いにくそうに一旦口をつぐんだ。
「君に私と、同衾・・・。つまり寝台を共にして欲しいんだ」
「ど・・・・・・?」
あまりになじみのない言葉に、すぐに理解することはできなかった。
公爵の痛みは夜にあって、アリシアが触れていれば痛みがなくなる。つまり彼の痛みを和らげるには夜に彼の寝室に滞在する必要があるので、未婚の令嬢としては結婚を申し込んでくれたのはありがたい。
だけどアリシアが想像していたのは椅子に座って一晩中彼の手を握っていることで、共寝をすることではなかった。優しい公爵がアリシアだけ徹夜させることは許さないとはわかるが・・・、同衾?
彼と?一晩中?同じ寝台で?
「ブレイジャー嬢!」
その様子を想像してしまったが最後、アリシアは真っ赤になって頭に血が上り、耐えきれずに意識を手放した。遠くに聞こえる公爵の焦った声を最後に、人生で初めて失神というものを経験することになったのだった。