アサヒと高校生活
「アサヒのことをお願いします…」
それは突然の電話だった。昔馴染みの母親からの連絡。
受話器越しに聞こえるすすり泣く音に心を痛めた。
アサヒは高校でイジメに遭っていた。
そして人間不信となり、学校に行くことが出来なくなったと。
僕はその事実を聞かされて無力感に苛まれた。
自分と会っていない間にそんなことになっているとは露ほどにも思わなかったからだ。
便りが無いのは元気な証拠とはよく言ったものだ。
実際の状況を確かめようとしないで、都合の良い言葉を並べて。
本当に心配だったなら、本気で大切な人だったならもっと気を配るべきだった。
連絡すべきだった。毎年でも会いに行くべきだった。それなのに―――
嫌な想像が脳裏をよぎりゾッとした。
きっと最悪な事態になっていたら、僕は自分自身を一生許すことは出来なかっただろう。
「大丈夫です。
僕が絶対アサヒを幸せにしますから」
だからもう油断しない。大切なものは絶対に守ると決めたのだから。
僕は柄にもなく強い言葉で宣言した。
「ふふっ、それじゃあまるでプロポーズね」
「…」
そう言えばアサヒと別れる際、そんな会話をしていたはずだ。
彼女は僕のことを男性だと思っていたようだけど、もう何年も経っているのだ。流石に気づいているだろうと思っていた。
―――だが実際は違った。
「お兄ちゃんがスカート履いてる!!」
彼女がオーバーなリアクションした時、僕はどこか懐かしさを覚えた。
緊張や気遣いや、疑心の無い。昔遊んだアサヒのままだったから。
イジメの後遺症などない、普通の少女に見えたのだから。
あの一件でアサヒも僕も緊張が解れた。
この時ばかりは男っぽい平な胸に感謝した。…以後許すつもりはないけど。
アサヒはぽつりぽつりと何があったかを話してくれた。
告白を断ったら逆恨みされたとか。男子に媚び売っていると陰口を叩かれたとか。物を隠されるようになったとか。友達と思っていた子に裏切られたとか。
その言葉はどれも辛く、やるせなく、そしてどうしようもないことだった。
一度受けた傷は決して元には戻らない。不可逆的に身体を蝕む。
今の僕には彼女を慰めることしかできない。
もっと早く再会していればという後悔に苛まれる。
「全部話してくれてありがとう」
「…うん」
僕はアサヒをそっと抱きしめる。これで互いの顔を見ることは出来ない。
アサヒはきっと今の自分の顔を見られたくないだろうから。それは僕も同じだった。
「逃げ出してくれて…また会いに来てくれて、本当にありがとう」
『逃げる』という言い方は誤解を生むかもしれない。
だけど今はこれでいいと思った。この言葉でないといけなかった。
アサヒは自分の行動を恥じている。
イジメに屈してしまったことを。不登校になってしまったことを。そんな弱い自分自身を責めて―――何より僕に知られることを恐れていた。
だから僕は言わなければいけなかった。
アサヒの選択は間違えじゃなかったと。生きて会いに来てくれて嬉しかったと。
それはきっとアサヒを大切に思っている人、全員の見解だろうから。
「やっぱりお兄ちゃんは優しいね…」
アサヒは顔を上げて立ち上がった。
泣き腫らしていると思っていた顔には、既に晴れやかに変わっていた。
「もう大丈夫。今なら逃げてよかったと思えるから。
そのおかげでこうしてお兄ちゃんと同棲出来てるんだから」
「…そうだね」
そういう風に思えることが出来て安心した。
僕らはほんの少しだけ進むことが出来たのだろう。
「それにお兄ちゃんは私がいないと何にも出来ないからね」
「そんなことないよ。丸々1年は普通に暮らしてたんだし」
「暮らせてなかったよね!?」
失敬な。僕はあのまま50年は生きていく自信があった。
未来の人類には多大な謎を残すことになるかもしれないが。
「だから―――私もあと2年はあの部屋で暮らそうかな」
「アサヒ…」
その言葉の意味が理解出来た。
僕が思っていたよりもずっと、アサヒは立ち向かっているようだ。
「2年後は僕、卒業しているよ?」
「私が卒業するまで留年して!!」
「無茶言わないでよ!!」
何にしてもアサヒが高校に通うことを決めてくれたことは嬉しかった。
それと同じぐらいにアサヒと過ごす高校生活は楽しみだった。
「お兄ちゃんと一緒に登校するが夢だったんだ。
手を繋いで通学路を歩くの。偶に寝坊して走って登校したり」
「手は流石に繋がないよ。
暑いし、スマホ弄れないし」
「歩きスマホは駄目だよ!!」
いつもの口調で、いつものように言い合いながら、僕らは帰路についた。
それがとても心地良く、幸せなことだと噛みしめながら。
近い未来に、トラウマが思い出に変わると信じながら。
本小説は以上で完結となります。
最後まで読んで頂きありがとうございました!!