眠れない夜の物語 -催眠術であの子の気持ちをゲットする-
「昨今流行りの催眠術についてどう思うか、ですか?
催眠術を使って人の気持ちを変化させて、たいして好きじゃないのにその相手に対して好意を持たせたりする事、ですか?
うーん、何とも言えませんね。
何せ相手のある事柄ですからね。催眠術を受ける側、好意を受ける側の覚悟が決まっていればいいんじゃないですかね?
えっ?好意を受ける側の覚悟は要らないだろうって?
そうですかね?
はあ、好かれるのに覚悟なんていらないだろう、そうおっしゃる訳ですか。なるほどなるほど。
確かにそういう考え方もありますね。
うーん、じゃあ、せっかくバーにいるので、一杯奢って頂けますか?お礼に一つ、昔話をして差し上げますよ。恥ずかしいですけど。
私の話かって?
とんでもない!知り合いの話ですよ。
ええ、確かに一杯、頂きます。
昔の事ですけど、小中高と一緒に過ごした二人の男女の幼馴染がいたんですよ。
とにかく男の方が女を好きで好きで、もう何でも言う事を聞く、いわゆるパシリとか、アッシーと言われる様な事を喜んでしていたんですよ。
女の方はいつも男から奉仕されているわけで、いつの間にか当然の事として受け止めるようになって、高校生になる頃は男の行為に対して感謝の言葉一つ男に伝える事はなかったんですよ。
高校を卒業しても二人の関係は変わらず、男は女が他の男とのデートに行くのに甲斐甲斐しく送り迎えなんてしてたんですよ。
もう、笑っちゃいますよね。どれだけ惚れてるんだって。
男のアッシー生活が何年か続いて、そろそろ大学卒業だって時期に、どうした事か女が気まぐれをおこしましてね、何年かぶりに男の部屋に遊びに行ったんですよ。
彼らも小さな頃はそれなりに仲良く遊んでいたわけですからね、お互いの家への行き来も何度かは合ったわけですよ。
『相変わらず汚い』とか『女性を呼べる部屋じゃない』とかブツブツと文句を言いながらも女が男の部屋に上がって、それなりに盛り上がっていたわけです。そして、女が『何か面白いことをやろうよ!』と、たまたま持って来てた催眠術の本で『男に催眠術を掛けてやる!』ってチャレンジしたんですよ。
もちろん当然、失敗。素人がぶっつけ本番で成功するような代物じゃないですからね。面白くない女は次に男が催眠術をするように言ったんですよ。
『女に催眠術を掛けてみろ!』とね。
最初は拒絶していた男ですが、所詮は女の言うことには逆らえない性分、渋々女に催眠術を掛けることになったんですよ。
本を見ながら辿々しく催眠術を掛けてゆく男。そんなの掛かるはずがない。
本来ならそうなるはずですが、男に才能があったのか、たまたま女の波長が合ったのか、それ以外の理由だったのか、正確な理由はわかりません。
けれど、女は催眠術に掛かったんですよ。厳密には催眠状態に陥ったわけですね。
ここで、男は半信半疑ながらも女性に指示を出したんですよ。普段の女なら絶対にしない事を。
『男の頬っぺたに口付けしろ』と命令すると催眠状態の女は素直に従ったわけです。
もしかして、これは本当に女が催眠術に掛かったのかもしれない。
千載一遇のチャンスと思った男は女に向かって、男に惚れるように暗示を掛けたんですよ。
そうすると効果は抜群。
今まで男を顎で使っていた女が一転して、男に対して従順な態度を取りだしたんですよ。
頬を染めてはにかんでみせたり、男に対して今まで一度も見せた事のない様な数々の態度に、男は催眠術の効果を実感したわけです。
素人が掛けた催眠術、何かの拍子に解けるかもしれない。それが心配で戦々恐々としていた男だったんですが、一年経ち、二年経ち、三年経っても女の態度は変わらなかったんですよ。
その間の女といえば、男遊びをピタリと止め、いつでも甲斐甲斐しく男の側に居るようになっていたんですよ。
男と女の付き合いも進み、何度かのデートを繰り返して、とうとう恋人達の聖なるイベント、クリスマスイブに二人は無事に結ばれたんですよ。
もちろん大好きだった女と結ばれた男は感激のあまり涙が止まらなかったんですよ。さらに男を驚かせたのは女も初めてだった事。
初めての印を前に呆然と立ちつくす男に対して『恥ずかしいからジロジロ見ないで』と部屋から追い出して女自ら片付けを行ったんですよ。
男を騙すドッキリにしては壮大すぎて、そして長期に渡り過ぎ。
感動した男はそのまま『責任を取る!』と女にプロポーズをし、受け入られたんですよ。
女は結婚を機に退職し、家庭を守る事に専念する事にしました。お腹にはイブの夜に授かった子供がいたので男としても異論はなく、父親になる使命感に燃えて二人分稼ぐぞとバリバリ働いたわけです。
そして、いつしか女の、妻の異変に気付いたんですよ。
男が家に帰った時に、女は暗い部屋の中で電気もつけずにぼーっとしている事があったんですよ。
一度なら気にしないが、二度三度と続く度に男に不安が募っていったわけです。
そして、休日に部屋でくつろいでいた時に、何気なく妻を見た男は驚いて固まるんです。なぜなら、妻が微動だにせずぼんやりと表情のない顔で外を眺めてたんですよ。
『どうかしたのか?』との男の声に、止まっていた時間が動き出すように妻が振り向き『あなた、どうかしたの?』と不思議そうな顔で男に問いかけて来たんです。
その瞬間に男に言いようもない不安が襲って来たんですよ。
ここにいる妻は抜け殻で、本当の妻の心はどこか別のところにあるのではないか?
ここにいる妻は錯覚した感情を植え付けられた偽物の心を持つ、別人なのではないか?
一度囚われた妄想から男は抜け出す事が出来なかったんですよ。
夜妻を抱く時も妄想が頭を駆け巡り、妻の嬌声を聞いても気持ちを昂らせる事はできなかったんですよ。いつしか、果てる事のない永遠の行為は妻が満足し果てると男が動くのをやめて終了する形となったんですよ。
当然、二人は不妊で次の子供を成すことはいつまで経ってもできなかったんですよ。
男は自身の不安を取り除くかのように、過去の自分を取り戻したかのように、一心不乱に妻に尽くし始めたんですよ。
育児に掃除、洗濯、ご飯作り。率先して取り掛かり、いつも妻をいたわったんですよ。
そして妻はそんな男をねぎらったんです。
それでもなお、たまに見せる妻の虚空を見つめる姿に、男は考えたんですよ。
自分の手に入れたと思ったものは偽物だと。
本心ではなくて、錯覚させてる偽物の気持ちなんだと。
そんなものを手に入れて嬉しいのか?
心が満たされるのか?
ええ、そりゃあ、満たされる人もいるでしょう。でも男は違ったんですよ。
女の本当の気持ち、心を手に入れるにはどうしたらいいのだろう?
そりゃあ、悩みました、悩み抜きました。
結局は催眠を解くか解かないか、って話になるんですよね。
催眠術を解かずに今の暮らしを続けて行くのか、催眠を解いて許しを乞い、男を受け入れてもらった上で想いを成就させるのか。
ですが、二つ目の選択肢は万に一つの可能性もないですよね。
まず、催眠を何年もの間掛けられていた、という時点で女からは拒絶対象ですから。
受け入れられると思う方がおかしいですし、まして、その上で想いを成就させようなんて気が狂ってるとしか思えない。
そして――
結論を言うと、男は狂ってたんですよ。
突然、妻子の前から姿を消したんです。
結論も出さずに、卑怯な男でしょう?
無残な死に様を女や子供に見せたくない、なんて綺麗事は嘘。
残された人間の事を思うならハッキリと死んだと認識させてやらないと残された人間が可哀想。
それすらもせずに姿を消したんですよ。
生きているのか死んでいるのかもわからない。
奥さんは今も男を探してるそうですよ。
会ったら一言、男に言いたい事があるらしいです。
それが騙されていた恨み言なのか、捨てられた恨み節なのか、まだ愛してるとの告白なのかはわかりませんけどね
本当に馬鹿な男ですよね」
そういうと彼女は立ち去った。