政争に明け暮れる者たち
「全く、あの愚か者めが」
タルシュ侯爵家当主、セベリアノ・デ・グスマン=カルハバルは忌々しげに毒づいた。
一人息子のイグナシオが、事もあろうに貴族学院の卒業パーティーに現れて婚約者のモンテローサ伯爵家令嬢セリアに婚約破棄を突き付けたと聞かされたからだ。しかもその場で彼女に手を上げて、暴行の現行犯で憲兵騎士に拘束されたと連絡が入ったのだ。
もうそうなっては揉み消すことも不可能だ。目撃者は百人単位で存在し、憲兵騎士まで動いたからには王宮にもすでに伝わっていることだろう。
「あれほど『この婚約は一門の命運を左右する大事なものだ』と伝えておったのに、何を聞いておったのかあの愚者は…………」
自主性を尊重して自由にやらせていたことが悔やんでも悔みきれない。後継者として手塩にかけて育ててきて、それに相応しい才覚を発揮して順調に出世の階段も登っていたというのに、何を血迷ったのか。
もちろん、イグナシオが学院でメルカド男爵家令嬢ベリンダを寵愛していたことはセベリアノも知っている。息子にも「学生のうちだけにしておけ」と釘を刺し、本人もその通りに卒業後は関係を断っていたというのに、内心密かに諦めていなかったことに気付かなかった。
諦めていないどころか、冤罪をでっち上げてまで婚約破棄して男爵家令嬢を妻にしようとしていたとは。
さすがに思慮分別はあるものと考えていたが、どうやら思い込みだったようだ。だが今さら気付いたところでもう遅い。
セベリアノはすぐさま動いた。
モンテローサ伯爵家に先触れとして総領執事を送り、主だった一門の各家には招集をかけた。同時に王城にも先触れを出し、不始末の責任を取る旨奏上した。
王家からは即座に召喚があり、セベリアノは直ちに参内して財務官長の辞任とタルシュ侯爵位の一門への移譲、それに領都での蟄居を願い出た。大顕位たる侯爵家、それも現王の王妹を降嫁された身として、この醜聞が侯爵家のみならず王家にも深いダメージを与えると、彼はよく分かっていた。
そう。イグナシオの母、バジリナ・デ・アブスブルコ=ブルバンは現王の王妹、つまり先王の王女なのだ。そして王家の血を受けたイグナシオは、予定通り侯爵家を継いで恙無く過ごしているだけで公爵への陞爵も充分望めるはずだったのだ。
おそらく愚者はそのことを解っていない。解っていれば、このような愚かな振る舞いなど出来たはずがない。
だがセベリアノを謁見した国王フェルディナンド8世は、そこまでせずともよいと宥めた。王にとってもイグナシオは可愛い甥子だったし、セベリアノの有能さは国内外に広く知れ渡っていたため、そのどちらも失うのは痛いと考えたのだ。
だが、誰も責任を取らぬでは話は収まらぬ。イグナシオに罪を償わせるのは当然のこととして、彼の監督責任者としてのセベリアノの辞意は固かった。
結局、一門から相応しい者を選んでタルシュ侯爵家を早期に継がせることとし、セベリアノ自身は継爵ののちしばらく領都で蟄居することが決まった。そしてイグナシオは廃嫡の上領都の侯爵家本邸で終身幽閉とすることで、渋るフェルディナンド8世にも認めさせた。
王城を辞したセベリアノはすぐさまモンテローサ伯爵家に馬車を向けた。タルシュ侯爵家において侯爵当主に次ぐNo.2たる総領執事を先触れに使ったことが功を奏して、伯爵家ではセベリアノの釈明を聞いてくれるようだ。
「このたびは大変申し訳ないことになった。償いはいかようにもさせて頂く」
セベリアノは応接室に通されて、モンテローサ伯爵エミディオ・デ・ヒメネス=ワレンティアにまみえるなり、立ったまま深々と頭を下げた。伯爵に対する侯爵の態度ではなかったが、互いに大顕位持ちの貴族家は爵位に関わらず対等であるという建前だ。だから加害者側が被害者側に詫びるのは当然のことと言えた。
「王家よりモンテローサ伯爵家を立てて頂いたこと、まずは謝意を申し上げる」
モンテローサ伯爵エミディオ・デ・ヒメネス=ワレンティアは応接室のソファに腰を下ろしたまま立ち上がりもせず、立ったまま頭を垂れるセベリアノにそう言った。そののちに着席を勧め、セベリアノはエミディオの向かいに腰を下ろす。
「…で?具体的にはどうなさるおつもりで?」
「婚約の解消は当然のこととして、もちろん侯爵家の有責とさせて頂く。イグナシオのサンルーカル子爵位剥奪と領都での終身蟄居、セリア嬢に一切の瑕疵がないことの喧伝、さらに両家の取引は伯爵家が望むならこれまで同様、いや今以上の便宜を図らせて頂く」
その上で、と言い置いてセベリアノは懐から目録を取り出して、エミディオに提示した。エミディオが開くと、賠償として伯爵家に渡す金品の一覧が並んでいた。ざっと計算しても国家予算のおよそ1割近くになる莫大な額である。
「侯爵の誠意は承った」
エミディオは鷹揚に頷く。正直言えばイグナシオの首級を、と言いたいところだったが、エミディオとて彼が王妹の子であると知っている。行き過ぎた要求は王家を怒らせるし、そこまでしては国家の屋台骨すら揺るがしかねない。
それにセベリアノが提示した賠償額はタルシュ侯爵家の資産のおよそ半分近くにも上る。これほど譲り渡してしまったら侯爵家が弱体化してしまう。
「賠償については、この半分で手を打とう」
だからエミディオは減額を申し出た。それでなくともイグナシオは侯爵家の唯一の跡取りで、彼がこのような事になったからには侯爵位が傍系に移ることになる。能吏で知られるセベリアノと将来を嘱望されたイグナシオの両方とも失うことになる以上、タルシュ侯爵家の家勢は一時的にせよ大きく衰えることとなるのだから、必要以上に弱体化させるのは得策ではない。
温情とも言えるエミディオの言葉に、セベリアノは無言で頭を下げた。ここで揉めるようだとこの先にも支障をきたすため、すんなりと賠償交渉が終わったことに彼は内心安堵していた。
「さて、この後の話だが」
「ああ。このまま終わるなどと思われてはかないませぬからな」
「調べはどこまでお済みかな?」
「侯爵家と同程度には進めておりますとも」
ふたりは真顔のまま、顔を見合わせる。
その顔はもう、被害者と加害者の顔ではなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「そうですか。イグナシオは終身幽閉、ですか………」
国王、フェルディナンド8世からタルシュ侯爵家のけじめを聞かされた王妃は、それだけ言ってため息を吐いた。
王妃にとってはイグナシオは血縁者ではない。だが国王の甥ということもあり、小さな頃からよく知った子でもある。夫婦揃って可愛がってきた“甥”だった。
だからこそ、彼が愚かな行動の果てに罰を受けるとあって、心が痛まないわけがなかった。
「できるなら何とかしてやりたいが、こればっかりはのう…」
国王も渋面を隠さない。衆目の面前で行われた犯罪行為を、王家の血縁者というだけで免罪すればどういうことになるのか、考えるまでもない。イヴェリアスは専制君主制ではないのだから、国王と言えども私情だけで法を曲げるなど赦されないことだった。
「正式には裁判を待ってからということになるが、幽閉の前に収監、ということになろうの」
「あの子が………収監ですって!?」
「セリア嬢に手を上げただけではないのだ。冤罪まで被せて彼女の有責での婚約破棄を狙ったそうでな、貴族としては致命的な醜聞になってしまっておる」
「そんな………なぜ………」
王妃は呻き、よろめき、慌てた侍女に支えられかろうじて踏みとどまった。
「…………………陛下」
「なんじゃ」
「タルシュ侯爵とモンテローサ伯爵の召喚を。事の経緯をわたくしも知りとうございます」
「分かった。非公式の場を設けよう」
あの聡明で優しかったイグナシオが、どうしてそんな事になったのか、王妃にはどうしても分からなかった。それほどまでにセリアとの婚姻が嫌だったのか。あるいは、誰かに嵌められたのか。
「陛下、もうひとつお願いがございます」
「……………申してみよ」
と言いつつ、国王には王妃が何を言いたいか、ある程度解ってしまっている。
「事と次第によっては、妾が動いてもよろしゅうございますか?」
「あまり、派手に動くでない。だが波風の立たぬ範囲でならば、許可しよう」
我が妻ながら言い出したら聞かない面がある。こうなってしまっては仕方ないと、内心でそう思いながら国王は許可を出した。本当は、貴族の政争に王家が介入すべきではないのだが。
まあ、永年連れ添った彼女のことだ。我を忘れて暴れることなどないだろう。
「ありがとう存じます。それではわたくしは、これで」
王妃はそう言って気丈にもたおやかに腰を折ってから、王の執務室を後にして行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「しかしそなたも、なかなかに悪女よな」
寝台の中で身じろぎしながら男は言った。
「あら。オルソン様ほどではございませんわ」
男の隣に寝ていた女が、そう言って気だるげに寝返りを打つ。
打ちながら、男の裸の胸にしなだれかかった。
一糸も纏わぬ女の肩を抱いて引き寄せつつ、男は満足げに口を開く。
「私がか?とんだ買い被りだな」
「だってそうでございましょう?わたくしに『セリア嬢と親しくなって破滅に導け』などと仰って。普通、そのようなひどい命令など婚約者には出しませんわよ?」
「その普通ではない命令を、何食わぬ顔でやってのけたお前が何を言う」
そう言われて女は、男の腕の中で身をよじって上体を起こした。
女は、モニカだった。
カタロニア伯爵家、モンテローサ伯爵家と並ぶ『大顕位』持ちの伯爵家の娘だ。
そう、モニカは最初から密命を帯びてセリアに近付き、親身に相談に乗るふりをしながら彼女を破滅させるために画策し、虎視眈々とその時を狙っていたのだ。
「セリアは、頭は良いけれどバカなんですの。後ろに“正直”とつくタイプの、ね」
セリアは貴族の令嬢としては真っ直ぐに過ぎるのです、とモニカは言った。特に『大顕位』持ちの家の唯一の令嬢としては、あり得ないほどに政争に疎い。おそらくは箱入り娘として守られながら育ってきたのだろうが、それならそれで政略の道具として使うべきではなかった。
使うのなら、それ相応の教育を施すべきであっただろう。
少なくとも、自分に向けられる善意に対して無条件に信用すべきではないのだ。大顕位という特権があるということは、即ち他の多くの貴族から狙われ足を引っ張られる立場にあるのだから。
だのに彼女は、その生来の真っ直ぐな性根から、打算をもって近付いてきたモニカを頭から信じてしまったのだ。モニカが同じ大顕位持ちの伯爵家の同い年の令嬢、つまり自分の立場を唯一理解できる得難い存在だったがために。
同じ立場に立たされるからこそ、ライバルとして自分を追い落とそうとするかも知れなかったのに。
モニカはセリアに近付いて、すぐに打ち解けて仲良くなった。そして彼女の愚痴を聞いたり相談に乗ったりしつつ、上手く情報を聞き出して、モンテローサ伯爵家とタルシュ侯爵家の仲に楔を打ち込んだ。
セリアがイグナシオに心を寄せていないのはすぐに分かった。だからイグナシオに別の女を宛てがうことを思いついて、ひとつ年下の貴族子女で“良い駒”を探した。
うってつけの少女がひとりいた。それがベリンダだった。良くも悪くも貴族らしくないベリンダであれば、きっとイグナシオの目には新鮮に映るはず。
そう思ってひとつ年下の伯爵家令嬢に彼女に接近するよう命じ、彼女の口からベリンダがイグナシオに興味を持つように誘導させた。そしてイグナシオの方にもそれとなくベリンダの噂を流して、彼女に目が向くように仕向けたのだ。
案の定、イグナシオはベリンダに夢中になった。そしてそのことに心を悩ますセリアを慰めつつ、さり気なくイグナシオを批判して彼女の心がより離れるように仕向けることも忘れなかった。
セリアの取り巻きのひとりを、それとなく人を介して「セリアがベリンダを痛めつけようかと考えているようだから、彼女が命じてしまう前に動くべき」と唆したのもモニカだ。
命じられる前に動けばよく気がつくと褒めてもらえるだろうし、命じさせずに済ませればいざという時にセリアの立場も守れる、と言えば、嬉々としてその通りに動いてくれた。あの娘もセリアと同じで人を疑うことを知らない粗忽な娘だった。
ベリンダの動向を把握して、街で襲われるよう仕向けたのもモニカだった。とは言っても、庶民出の下男を使って「この後やってくる娘を襲って傷つければ褒美が貰えるらしい」と聞えよがしに話させただけだが。
そして当然ながら、モニカは自分は表向きは一切動かずに、巧妙に自分へ辿り着かないように幾重にも人を介して慎重に事を運んだから、露見のおそれもほとんどなかった。
その全てが上手く嵌って、思惑通りに行きすぎて少し怖いくらいだ。
「あの子には高い授業料だったでしょうけど、この先の長い人生を考えれば、それは“必要経費”だったはずですわ」
だから敢えてわたくしは心を鬼にしたのです。
そう、モニカは嘯いた。
とんでもない女狐だ、とオルソンが内心で嘲っていることに彼女は気付かない。
「ですけれど、さすがにわたくしもイグナシオ様が手を上げるとは予想もしておりませんでした」
「あれはイグナシオがただ愚かだっただけだ」
「でも、あれがあったからセリアの傷は浅くなりましたわ。その意味ではイグナシオ様に感謝しなくては」
あれさえなければ、モンテローサ伯爵家とセリアのダメージは甚大なものになっていただろう。逆に言えば、あれがあったからタルシュ侯爵家のダメージが甚大になり、モンテローサ伯爵家の傷は浅くなった。
それが良かったのか悪かったのか。一長一短ではあるが、先行きが不透明になったのは事実だった。そういう意味では、オルソンもモニカもまだまだ安穏としてはいられない。
「だがまあ、これでタルシュとモンテローサの増長は抑えられた。あとは………」
どうやって、マジュリート公爵家への逆襲を封じるか。これでもなお両家門が『大顕位』持ちの、筆頭公爵家の権威を脅かそうとするのであれば徹底的に叩き潰すまで。
だが、イグナシオの母は王家からの降嫁だ。もしも王家が動くようなら不味いことになる。
ま、その時はカタロニア伯爵家を切り捨てればよいか。
そう考えつつ、オルソンは上体を起こしたままのモニカの肩に腕を回して抱き寄せる。彼女は抵抗せず引き寄せられ、ふくよかな膨らみが胸板に押し付けられてきてオルソンの“男”を悦ばす。
モニカが潤んだ目でオルソンを見つめ、彼はその目に請われるままに彼女に口付けをくれてやった。まるで褒美だと言わんばかりに。
モニカがオルソンの首に腕を回し、オルソンは彼女に覆いかぶさる。
そうして、それから程なくして、彼の寝室からは止んでいた嬌声がふたたび漏れ聞こえ始めるのだった。